12 抱擁
湊川が死んだ。複数の男女と口論になってその内の1人に刺されたそうだ。
湊川の監視をしていた探偵事務所の所員からの報告によると、僕と最後に会った日から湊川はずいぶん荒れていたらしい。
粗暴な態度を隠さないようになって、過去に手荒く扱った女性の知人たちに囲まれたときにも何度も暴言を吐いたらしい。その結果がこれだった。
◇◆◇◆
「死んだの? ……そう」
自分の部屋で僕からそのことを聞いた優香は、一言そういうと少し困ったような表情で僕を見た。僕に対してどんな反応を見せたらいいのかわからないようだった。
「優香。僕に湊川のことを話してくれないか」
「え?」
「一度は恋人だったんだ。嫌な面ばかりじゃなかったんだろ? 親しくなっていった頃なら特に」
「……どうして聞きたいの?」
「優香の思い出の中にいる湊川を……なんと言えばいいんだろう。そのままにしたくないんだ。触れまいとすると返って整理できてない気持ちが君の中に残るんじゃないかって。それが嫌なんだ」
「それって……嫉妬?」
「そうだな。それが一番近い気持ちなのかな」
「そっか。うん、いいよ」
「できるだけ湊川とのいい思い出が聞きたい。どういうことを優香が喜ぶのかを知りたいんだ」
「え、えっと。それはどうかな」
「というと?」
「わたし、恋人同士のそういうことには鈍いみたいなの。お前は反応がなくてつまらないって言われてた」
「え? そうかな? 優香は僕のするちょっとしたことにも気づいて喜んでくれるよね。どちらかというとチョロインの素質がある方だよ」
チョロインと言われて怒るかと思ったけど、僕の言葉に対して優香はキョトンとしただけだった。
「……あ、そういうこと?」
「チョロインの意味がわからなかった?」
「ううん。それはわかったけど……」
そう言うと優香の顔がみるみる赤くなった。
「ま、誠はこんな風にわたしと話してるだけで楽しいの? あんまり恋人っぽくないと思うんだけど」
「優香は楽しくない?」
「ううん! すごく楽しい。でもそんなことで喜べるのはわたしが女だからじゃないの?」
「いやいや。男だって好きな子と話しているのが楽しくないわけがないよ」
「そうなんだ。ふふっ」
いつもより固さの抜けたいい笑顔だった。いつもの僕のためにちょっと頑張ってる表情も悪くないんだけど、優香にはこの笑顔が一番似合ってると思った。
「湊川とはこんな風に話したりしなかったのか?」
「自分のことは話すんだけど、わたしのことはそんなに聞きたがらなかった」
「そうか」
「辛い思いをしてた人だから何とかしてあげないとっていう気持ちはあった。でも、それが幸せだったかというと……今はもうわからない」
「アイツは相手に求めてばかりで、相手に何かをしてあげたいという気持ちが待てなかったんだろうな」
「……同情してる?」
「いや。ただの感想かな。恨みとかも今はあまりないんだ。こうして優香の笑顔を見ていて感じる気持ちを、嫌な気持ちで汚したくないんだ」
「彼に感謝はできない。でもあんなことが無かったらわたしは本当の誠の気づけなかった。誠へのこの気持ちも知ることは無かったのよね……」
「……どうした? 優香」
急に笑顔の消えた優香に驚いて、僕はそう尋ねた。
「ちょっと怖くなったの。だって……誠がわたしにしてくれたことって、普通ならあり得ないことだったから」
優香がどこか遠くを見るような目をした。
「もしかしたらあの日。……教室で誠の子どもを妊娠してるって言った時、そうなると思ってた通りに誠から嘘を責められて、クラスの皆からも酷い女だって言われてたら……」
「優香」
「ひとりぼっちになったわたしは、あいつにもっと酷いことをされて心が壊れたのかもしれない。……本当のわたしは現実から逃げてずっと夢の中にいるんじゃないかって」
「夢の中ってことなら僕の方もだよ。あまりにも自分に都合よく話が進んだなって思ってる。優香のお父さんに殴られた時に打ち所が悪くて今はずっとベッドの上だったりして」
僕と優香は真顔になってお互いに見つめ合った。優香が手を伸ばして僕の頬に触れた。
「お互いにつねってみる? そうしたらわかるかも」
「痛くなければ夢ってことだね」
僕も自分の手で優香の柔らかい頬に触れた。
「この手触りが夢とは思えないな」
「それはわかんないよ。夢の中で腕を動かしても実際には動いてないんだから、指に触れてるのは自分のお尻かも」
「いやいや。優香はともかく、こんなに柔らくて手触りがいいのが僕の尻なわけがない」
「思い切りつねってみる? そしたらはっきりする」
そう言われた僕は優香の頬から手を離した。
「誠?」
「これが夢だとしても、まだ覚めて欲しくない」
「……そうよね」
そう言って優香も自分の手を離した。そしてその手を自分の頬に当てた。
「話してるだけで楽しいって言ったけど、誠に触ってもらった時はもっとドキドキした」
「確かに」
「誠も?」
「うん」
すると優香はその両手を大きく広げた。そしてその顔はみるみる赤くなっていった。
「ハグしましょう!」
「え? いいの?」
「いいの! わたしたち、ふ、夫婦になるんだから」
「あっ、そうだ!」
「え?」
「そういうことなら、ちょっと待って」
僕は自分のカバンを開けると、中から2枚の紙を取り出した。
「これを受け取って欲しい。保証人のところには僕の両親に名前を書いてもらってる。片方だけ書いてもらったのがこっちだから、優香のお父さんかお母さんにも保証人になって欲しかったらこっちの紙を使って」
僕から婚姻届を渡された優香は、表情を失った顔で窓際の机の前に移動すると、その上に2枚を丁寧に並べた。それから僕の前に戻ってきて、すぐに引き返して机の上の婚姻届を見直した。
「何か書き間違いがあった?」
「あーもう。夢の中かもしれないって話をしたばっかりなのに、すぐにこんなことをされたら余計に現実味がなくなっちゃう」
「それはごめん」
僕が謝るのと同時に優香は僕に抱き着いてきた。彼女の頬を触った時の比じゃない感動が僕の中に湧き上がった。彼女はその顔を僕の胸に埋めたまま言った。
「抱きしめて」
「こう?」
「もっと強く」
大丈夫なのか? そんなことをしたらこの柔らかなものを壊したりしないだろうか。そう思って躊躇していると優香の方から更に力を込めてきた。ヒョロガリメガネの僕とは違いスポーツもこなす彼女の腕には力強さがあった。それを体感した僕は自分の腕にも負けないほどの力を込めた。
「誠。今ならわたし……」
「えっ? ……ああ、うん。……ごめん。嬉しいけどもう今の僕には余裕がない」
「だったら」
「その余裕がないとは違うんだ。ずっと大好きだった女の子が自分の腕の中にいるんだよ。もう幸せで胸が一杯になっててこれ以上は過剰なんだ」
「……良かった。わたしもさっきから何だか頭がぼーっとしてるの。これから何かあっても後で誠に教えてもらうことになりそう」
「ハグだけなら大丈夫?」
「……ど、どうかな?」
僕にそう答えた優香は、しばらくすると全身からくたっと力が抜けてしまった。背中をポンポンと叩いても、耳元で名前を呼んでも反応がない。
僕はそんな彼女の体をベッドに横たえると、その端に肘をついて彼女の寝顔を思う存分に眺め続けた。そしていつの間にか自分も眠ってしまっていた。
◇◆◇◆
湊川の死に関する報道の中で、被害者だったがあいつの悪行がマスコミに複数流れることになった。僕は全く関与しなかったが、嫌っている人間も多かったから当然の結果だろう。
両親が面会を解禁したので、優香の少なくない友人たちが鈴原家を訪れた。優香はそこで初めて彼女たちに事情を説明した。僕と優香の関係については、湊川の粗暴な行為に苦しんでいた優香を僕が助けたことで、2人の関係が深まったと説明したそうだ。
別に嘘じゃない。ただし友人たちは誰1人として、それがあの教室での告白事件より後の出来事だとは思っていないようだった。