11 勉強会
ずっと友人止まりの片想い。主人公は優香とのそんな関係に長年馴染んできたため、自分への好意を控え目に考える習慣が染み付いています。
主人公の行動力に圧倒されている優香としては、自分の気持ちなんて見透かされていると思っています。
2人は今でも十分に幸せな状況なので、主人公は優香の正しい想いに少しずつ気づいていくことになります。
鈴原家のチャイムを押すと、すぐにドアが開いてお義母さんが顔を出した。
「こんにちは」
「いらっしゃい、神崎くん。優香、神崎くんが来たわよ」
そう言ってお義母さんが振り返ると、玄関の奥には優香が僕の方を見て立っていた。
「こんにちわ。優香」
「……こんにちわ。誠」
優香はまだ僕にどう接したらいいのか迷っているようだけどそれは無理もない。彼女が僕に好意を持ってくれていることはその態度でもわかるんだけど、それは感謝からの気持ちであって恋愛感情からじゃない。そんな相手と彼女は結婚の約束をしてしまった。
元々恋愛に関心の薄かった優香は、湊川と付き合い始めてからも恋人同士の浮ついた雰囲気を見せることはなかった。それどころか最近はアイツから受けた仕打ちで隠してもわかるほど憔悴していた。彼女が恋愛に良いイメージを持っていなくても仕方がない。
僕としては今は感謝でも構わない。こうやって優香が積極的に僕と付き合ってくれて、それが嫌々とじゃないだけで嬉しくて仕方ない。
当然だけど優香の心の傷は深くてまだリハビリの必要な状態だ。だから両親という車椅子に乗って安心していたいはずなのに、こうして僕という杖に頼って少しでも早く立とうとしてくれている。
僕としてはただの杖じゃなく松葉杖ぐらいにはステップアップして彼女の回復を支えたい。僕に全体重を預けようとしてくれる彼女には力を尽くす甲斐がある。
僕は優香の後について2階に上がると8畳ほどの部屋に入った。いつもの通りテーブルを挟んで優香と向かい合って座る。カバンからタブレットとノートと筆記具を取り出してテーブルの上に置き、部屋の棚に置いていた参考書もその横に並べる。
これからするのは今日授業で習ったことの復習だ。3年になるとほとんどの科目で習うことは終わっていて授業は演習が中心だけど、数学Ⅲや物理などのまだ習い終わってない科目もある。当然優香はそれを受けていない。
「入試は1年遅らせることにしたんだから、授業の内容は教えて貰わなくても大丈夫」
「他人に教えることっていい復習になるんだ。優香も経験があるだろ。僕には苦手な科目だから逆に助けると思って付き合ってよ」
「そうなんだ。……じゃあ、お願いしようかな」
といった会話から始まったのがこの勉強会だ。授業内容の理解は優香の方が早いから、どちらかというと僕が優香から教え返して貰っている状況だ。
だけど優香が楽しそうなので僕はそれで良いと思っている。彼女の性格から考えて僕に助けてもらったお礼をしたいんだろう。
「……誠は、どうしてわたしを助けようと思ったの?」
さっきから何か言いたそうにしていた優香が、躊躇しながら僕にそう尋ねた。
「この前の説明じゃわからなかった?」
「好きになった理由は聞いたよ。でも……どうしてそれで、とは思った。わたしが誠の立場だったら今まですごく辛かったと思うから」
「他の男に好きな子を取られたから?」
「……わたしが、誠じゃない人を選んだから」
「自分が選ばれなかったことを僕が悔しがる? ないよ、そんな気持ちは。告白どころか優香にアピールさえしてなかったのに」
笑って僕がそう言うと、優香はちょっと困ったような、でもホッとした顔になった。
「優香は片思いだった僕がずっと辛かったと思ってるんだな」
「……違うの?」
「優香を好きになってからは好きになる前よりずっと楽しかったよ。一方的に思ってるだけでもね」
「そうなの?」
「優香にはわからないかな。えっと……子猫や子犬とかは見ているだけで幸せな気持ちになるだろ。相手が自分に懐いてなくても」
「……」
家族に犬や猫がいない優香には、この説明では上手く通じなかったようだ。
「僕にとって優香は特別なんだ。優香みたいな人間がいてくれたことで、それまで世の中を拗ねた目で見ていた僕は救われたんだ」
「え?」
「例えば、優香は困ってる人を見ると当たり前のように助けようとするだろ」
「そうかな? 相手から頼んできても断る時はあるよ」
「その相手が本当に困ってて自分に時間の余裕がある時でも?」
「……それなら、まあ」
「断るのはその人が自分でできることを頼んできた時だよね」
「どうしてわかるの? そんなこと誰にも…」
「話してない? 僕は誰かにそれを聞いた訳じゃないよ。僕が見ていた時の優香がいつもそうだったからだよ」
「……そうなんだ」
かなりストーカーっぼいことを言ったけど、僕が優香をずっと見ていたことは告白済みだ。他人の視線に慣れているからか、彼女にとって相手を理解するためによく見ることは悪いことではないらしい。
「積極的に人助けをしようとするお人よしは普通なら調子のいい奴らに利用されるだけなんだ。それが当たり前になって感謝もされずに働かされて、それで嫌気がさして助けることを止めちゃうんだ」
「嫌なら断ったらいいのに」
「断って誰にでも受け入れられるのは優香がスクールカーストのトップだからだよ。周りの目が怖いから君には厚かましい態度をとれないんだ。優香だから困った人だけを選んで助けられて、いつも感謝をしてもらえるんだ」
「でも……わたし、誠のことは特に助けた記憶がないよ。救われたってどういうこと?」
「そういう直接的なことじゃないんだ」
前に質問された時はどうして優香が好きなのかを上手く答えられなかった。だから後で改めて理由を考えて、自分なりの答えを見つけることができた。
「僕がどうして優香に救われたかというと…」
「何?」
「君は悪意のない人間がいることの証拠だからだ」
「……え?」
「優香は他人への悪意を持たずに生きてきた。それも厳しく教え込まれてそうなったんじゃなく、色んなことを楽しみながらだ。僕は君に会うまでそんな人間がいるとは思ってなかった」
その言葉を聞いた優香の顔には大きなクエスチョンマークが浮かんで見えた。そんなことで自分が普通じゃないとは思ったことが無いんだろう。
「優香がそんな特別な人間に育ったのは、まず君の家庭が特別だったからだと思ってる」
「え? そんなこと」
「君はお義父さんやお義母さんから嫌な言葉を聞いたことがある?」
「怒られたことは何度もあるよ」
「そうじゃなくて、世の中がどうとか、知り合いがどうしたとか、あれこれが面倒くさいとか、優香と関係のない不平不満や悪口なんかだよ」
「……ないと思う」
「だよね。悦子さんの言った通りだ」
「え?」
「優香の両親が良い人だってことだよ」
「それはそう。わたしの自慢だから」
優香は嬉しそうにそう言った。自分のことより身内を褒められた方が喜ぶところも、僕が彼女を好きな点だ。
「例えば、毎日の家事を親がいつも嫌だとか面倒だとか言いながらやってると、子どもは家事が嫌なことだと思うようになる。お義母さんは人を雇える立場なのに家事を全部自分でやってるよね。この広い家を綺麗に保つのは大変なはずだけど、まるでプロの家政婦みたいに熟練の技でこなしてる」
「わたしも少しは手伝ってるけど、手際では全然敵わないの」
「自分の得意なことに他人が手を出すと、ついその下手さを指摘しがちなんだけど、優香はどうだった? 家事をしててお義母さんから注意されたことってある?」
「危ないことだったら。そうじゃないならお礼を言ってもらったことしかない」
「だよね。だから優香は色んなことに躊躇わないんだ。人を助ける時もそれが楽しくてやってるから、相手が喜んでたら感謝の言葉がなくてもがっかりしない」
大人から見て良い子はそれなりにいるけど、その良いことを全部楽しみながらやってる子は優香以外に見たことがない。
「優香と会うまで、僕は人の悪いところばかり気になって人間嫌いになってたんだ。自分自身も含めてね。でも優香に会ったことで、その嫌いな部分が生まれつき誰でも持ってるわけじゃないと知ったんだ」
「……」
「性悪説を知ってるよね。人間の本性は悪で、教育や本人の努力を重なることで善人になれるって話。優香は正しいと思う?」
「わたしは、性善説の方を信じてるかな」
「自分の中に悪意がないんだから、それを生まれつき持ってるはずだって言われても困るよね」
「うーん。誠はわたしに悪意がないって言うけど、それは違うと思う。わたしだって人を疑ったりとかするからね」
「それは悪意とは言わないよ。無闇に人を信じるのが善意じゃない。人を襲う動物のいる山に入ったら用心するように、世の中には悪意を持つ人が沢山いるんだから気をつけるのは当然だよ」
善意しかないと聞いたら他人の言うことをはいはい聞くお人よしのことだと考える人もいるだろう。でも僕の考える善意というのは他人から見た都合の良さじゃない。
「いま言ったことが、僕が優香を好きな理由なんだ。優香じゃないと駄目な理由でもある」
「誠は……わたしをそんな風に見てたんだね」
「僕がどうして優香が好きかを説明できていたかな?」
「うん。わたしに悪意がないっていうのは素直に頷けないけど……どう頑張ればいいかは見えた気がする」
そう言って優香は僕に微笑んだ。笑顔だけで僕を幸せにできるのは彼女だけだ。
「優香。さっきは片思いでも辛くなかったって言ったけど……今はすごく幸せだから、以前の関係に戻るのは嫌なんだ」
「……それは、わたしも」
「本当に!?」
優香の口から呟くように漏れた言葉から、感謝だけじゃない気持ちが感じられた。感動した僕は思わず優香の手を両手で包むように握った。
何年かぶりに僕から触れられて驚いた顔を見せた優香は、それでも握られた手を引こうとはせず、もう片方の手もその上に重ねてくれた。