10 回答#2
おかしい。あれから5日も経ったのに未だ鈴原からの連絡がない。
鈴原の性格から考えれば、僕への答えを出さないまま5日も放置することはあり得ない。湊川のやったことが悪辣すぎて男というものに対する不信感が払えなくなったんだろうか。
カバンと共に学校から届けられたスマホは父親が預かっている。友人を介して湊川が連絡してくる可能性があるからだ。
僕は前に受信した時の履歴を使って鈴原の母親に電話を掛けた。
「もしもし、神崎です」
「はい。早速電話してくれたのね。これからも家族として気軽に電話をかけていいからね」
いきなり僕が驚くほど好感度の高い言葉が返ってきた。
「あ、あの。優香さんの具合はどうでしょうか? かなりショックな話をしてしまったと思うので、塞ぎ込んでいるとかはないでしょうか?」
「全然! それより家の順平がやらかした顔のケガはどうなの? まだ痛むんじゃない?」
「いえ、それほどは。それに優香さんのお父さんが」
「『優香さんのお父さん』じゃなくて『お義父さん』でいいわよ。私のことは『お義母さん』って呼んでね」
「あ、はい。お義父さんが僕を殴ったのは当然です。わざとそういう言い方をしましたから」
「そうなの?」
「その方が少しはすっきりした気持ちで優香さんと話してもらえると思ったので。未婚の娘が妊娠して冷静でいられる父親なんていないでしょう?」
「そうなんだ。やっぱり良い子ね、神崎くんは」
「お義父さんのためじゃなく優香さんのためにやったことです」
「ふふ。わかってるわよ。ところでまだ優香さんなの?」
「いえ。本人と話しているときは鈴原と呼び捨てしています」
「え? 名字なの?」
「ただのクラスメートでしたから」
「でも、今は違うわよね?」
「そこは僕のプロポーズに対する優香さんからの返事次第ですね。…………お義母さん? ……もしもし?」
返事がない。スマホからは足音のような音だけが聞こえてくる。
『優香ちゃん! 入るわよ』
直接ではない遠くの声としてお義母さんの声が聞こえた。あの家なら別の部屋からだと声がこんなに聞こえることはないから、お義母さんはスマホを切らずに手にもっているんだろう。
『どういうこと? 神崎くんに結婚するって言ってなかったの?』
『え?』
『さっき神崎くんから私に電話があったの。優香ちゃんからまだ返事を聞いてないって』
『え? お母さんが前に電話で話したんじゃないの?』
『ううん。優香ちゃんから直接聞いてねって言ったのよ』
『えっ? ……ううん。神崎が家に来てくれた時に確認したよ。お母さんに聞いてから来たのかって。だからソファーにも神崎と並んで座ったの。これから大切な返事をする人とそんな座り方しないよね』
ああ。つまりあの座り方は僕と鈴原で両親を説得しようという意味だったのか。両親に僕の子じゃないと話したって聞いた直後だったから、そのことで頭が一杯になって気づかなかった。
『私に聞いてから来たのって尋ねたのよね。それって、私に呼ばれたから来たのかって意味にも取れるんじゃない?』
『え? そうかな。……で、でも。お父さんとお母さんも神崎にはっきり言ったよね。お願いしますって。その後でわたしには何も言わずに帰ったのよ』
『……そう言われればそうだったわね。でも実際、神崎くんには伝わってなかったみたいよ』
『何て言ってたの?』
『私が、今はもう優香ちゃんにとってただのクラスメートじゃないよねって言ったら、それは優香ちゃんの返事次第だって。だから今も待ってるんだと思うわよ』
『嘘! じゃあ、わたし、神崎に返事をしてないままってこと?』
『たぶんね。だから早く家に呼んだ方がいいっていったのに』
『でも! あんなに腫れて痛そうだったのよ。それなのに、お父さんを説得するためにあんなに沢山話してくれて』
あの日は話しているうちに痛みなんて忘れてた。アドレナリンが出てたからかな。
『そもそも、お父さんのせいなのに』
『うーん。順平さん、あれでも遠慮して話してた方だと思うわよ』
確かにそうかな。僕は最初からもっとガツンと言われるんだと思ってた。
『それに神崎くん、気にしてないっていってたわよ』
『それはそう言うわよ』
『そうじゃなくてわざと殴られたんだって。娘が妊娠して冷静な父親なんていないから、自分が殴られたら少しはすっきりして優香ちゃんが話しやすくなるだろうからって』
『……でも……そんなの』
『本当だと思うわよ。神崎くん、殴られる瞬間に笑ってたの。瞬きもしなかった』
そこからしばらくは沈黙が続いた。やがて小さくすすり泣くような声が聞こえてきた。
『優香ちゃん? ほら、泣いてないで。神崎くんに電話して返事をしないと』
『……うん。ちょっと時間を』
鈴原の声は少し震えていた。どうしよう、これって盗み聞きになるんだろうか。
『じゃあかけるね。…………あ、通話中になってる。どうしよう』
『そうなの? 少し前まで私と……あ』
どうやらお義母さんに気づかれたようだ。もう黙っている訳にはいかないか。
「もしもし。すみません、聞こえていました」
『えっと……いえ、こっちこそごめんなさい。優香ちゃん、はい』
『……』
『ほら、何か言わないと』
既に答えは聞いているのも同じ状況だ。鈴原としては、だから余計にどう言えば良いのかわからないんだろう。
「鈴原」
『は、はい』
「僕の君への想いはこれまでに話した通りだ。その言葉に嘘はなくて、これからも変わらないと思ってる」
「……」
「だから先ずは一言だけでいい。あの日僕が優香に提案したことを受け入れてくれるのか、『はい』か『いいえ』で答えてくれ」
『はい!』
間髪を入れない即答だった。その早さに胸を打たれた僕は、しばらくその感動を噛み締めてから優香に言った。
「ありがとう」
あの時の優香は混乱していて、僕はそれにつけ込んで強引に提案を押し付けた。十分に考える時間があった今なら色々と話し合いたいこともあるはずだ。
だけど彼女は何の躊躇いもなく『はい』と答えてくれた。
「もっと話したいけど……電話で話すのはもったいない。これから会いに行っていい?」
『うん』
◇
僕はすぐにタクシーを頼んで鈴原家に向かった。お義母さんの計らいで、玄関の前で待ってくれていた鈴原は僕とリビングで2人きりになった。
僕が勧められてソファーに座ると彼女はその横に座った。
「あの」
「うん?」
「……あれって、提案なの?」
「え?」
「この家に来たときに言ってくれたこと。わたしは……告白だと思ってるんだけど」
「えっと、はい。そうです」
「そう。良かった」
そう言って鈴原は僕の顔を見ながら微笑んだ。僕はその顔を見ながらもう一度答えを聞きたくなった。
「じゃあ、改めて。僕と結婚を前提としてお付き合いしてください」
「はい」
「それからこれを」
「何?」
僕はあの提案した日から用意していた契約書を優香に渡した。色々と話したことはこれで確認できるだろう。すると読んだ彼女の顔から笑顔が消えた。
「気になることがあった? それなら何でも言って欲しい。書いてないことでもいいよ」
「どうしてこれを?」
「約束したから」
「書く、じゃなくて書いてもいいって話だったよね」
そういえば、鈴原が望むなら書いてもいいって言ったんだった。
「神崎はわたしがこれを必要だって言うと思って用意してたの?」
その悲しそうな顔を見て、僕は慌ててその紙を彼女から取り上げた。そして目の前で細かく破った。
「ごめん。僕が鈴原を大切にしたいってことを示したかっただけなんだ。こんな紙なんて意味がないよね」
「うん。神崎の気持ちはもう十分に伝わってるから」
そう言うと鈴原は僕に体を寄せてきた。彼女の肩が僕の肩に触れた。僕はそれだけで舞い上がってしまって、言葉が続かなくなった。
しばらくすると、ドアがノックされてお義母さんが入ってきた。そして僕たちが自然に名前で呼び合えるようになるまで、お義母さんのチェックを受けながら練習することになった。