01 反撃
始業まであと10分の高校の教室。人の少ない時間を避けていつもより遅くに登校した僕は、自分の席で授業が始まるのを待っていた。
僕より先に登校していた鈴原優香の席を見ると、さっきまでそこに座っていた彼女の姿が見当たらない。
どこにと思って見回した僕は、手が届きそうなほど近くに立っている鈴原を見つけた。
顔を俯かせた彼女の視線は僕じゃなくて床を向いている。座って見上げている僕にはその思い詰めたような表情が見えていた。
しばらく待っても彼女が黙ったままなので、僕の方から声をかけた。
「おはよう、鈴原」
僕がそう言っても鈴原は黙ったままだった。最近はずっと表情の暗かった彼女だけど、今日はそれが更に悪化しているように見えた。
暗い雰囲気を漂わせていても鈴原は綺麗だった。だけどいつも周りに見せていた笑顔の美しさには遠く及ばない。
「どうした? 僕に何か用?」
尋ねても鈴原は返事をしなかった。僕の予想ではこれから彼女は、相談があると言って昼休みか放課後に僕を呼び出そうとするはずだ。僕がいいよと答えたら、いよいよ次が正念場だ。
鈴原は僕、神崎誠の小学校からの同級生だ。
鈴原は昔から飛び切り可愛くて、小学校でも中学校でも一番の美人が誰かといえば真っ先に名前が挙がる女子だった。この高校でもそれは変わっていない。
それに比べて、いや、比べなくても僕の見た目が冴えない。簡潔に言ってヒョロガリメガネで容姿のランクは中の下といったところだ。
そこそこ伸びて178になった身長は165の優香と並んで悪くない差だけど、それ以外に釣り合う要素は全くない。
今よりもっと親しく話せていた中学の頃でも、彼女と僕が付き合うなんて誰も思ってなかっただろう。
鈴原から視線を外した僕は、彼女に不自然な行動をさせた張本人である湊川遥斗の様子を確認した。
ただし直ではなく窓ガラスに映してだ。僕がその意図に気づいていることをアイツには知られたくない。
鈴原に匹敵するレベルで整った顔に薄笑いを浮かべて、湊川は僕たちを見ていた。
湊川は鈴原にとって初めての彼氏だ。高2の秋に付き合い始めてからもう半年以上になる。
学校では特にベタベタとしたところを見せない2人だけど、実際には深い関係になっていることを僕は知っている。
いつも周囲から注目されている鈴原だ。その普通じゃない雰囲気に気づいたクラスメートが増えていって、その視線が僕たちに集まっていた。
「わたし、お腹の中に子どもがいるの」
鈴原は僕と目を合わせないまま、だけどはっきりと聞こえるようにそう言った。
突然の爆弾発言を聞いた生徒たちが瞬時に静まり返った。聞いてなかった数人も周りの異常に気づいてキョロキョロしている。
まさかこの状況で。そう思っていた僕は彼女の発言を止められなかった。だけどこうなった時の僕の言葉はもう決めていた。
「あなたの…」
「ありがとう、鈴原。よく相談してくれた。後のことは全部僕に任せてくれ。君もその子どもも僕が責任をもって幸せにする」
僕は鈴原の声に被せるように大きな声で言った。全く予想していなかった僕の言葉を聞いて仰天した様子の彼女は、その口を開けたまま表情と体を固まらせた。
「そういうことなら授業なんて受けてる場合じゃないな。今日はもう早退しよう。これからのことを2人で一緒に話し合うんだ」
僕は右手で鈴原の腕を、左手で自分の鞄を掴むと、まだ驚きから覚め切ってない教室を後にした。呆然とした表情の彼女は何の抵抗も見せずに僕に引かれるままついてきた。
教室を出る時に振り返って見た湊川は、さっきまでのにやけた笑いを唖然とした表情に変えていた。
鈴原には自分の鞄を取りに行く暇を与えなかった。つまり彼女の手元にはスマホがないから、湊川が慌てて連絡しようとしても今はその手段がない。
廊下に出ると真っ直ぐに職員室へ向かう。そこで始業の準備をしていた担任の藤本先生を見つけて声をかけた。
「すみません。鈴原の体が心配なので今日は早退させます」
「え? どうしたの、鈴原さん? ……確かに様子が変ね」
鈴原の顔には僕の知ってる凛とした表情は戻っていない。湊川からの仕打ちで心が病んでいることもあるけど、僕の仕掛けたこの状況を理解するのに必死だから他のことに構っていられないんだろう。
「僕がタクシーで鈴原の家まで送っていきます」
「そう。鈴原さんのご両親には?」
「これから連絡します。落ち着いたら学校に連絡があると思います」
鈴原と一緒に玄関に向かい、そこで靴を履き替えた僕はスマホのアプリでタクシーを呼んだ。それが終わっても鈴原はまだ上履きのままだった。
「……どういうつもり?」
教室を出てから初めて鈴原が口を利いた。状況を理解するには僕に理由を尋ねるしかないという正解にようやくたどり着いたようだ。
「お腹に子どもがいるんだろ?」
「……神崎には関係ない」
「鈴原はさっき、あなたの子よって言いかけたんだろ」
「……」
「教室のあんなに人がいる場所でそんなことを言ってたら、もし僕が『無関係です』と言ってもあの場は収まらなかったぞ」
「……」
「困ってるんだろ、鈴原。そのことでは僕に考えがあるんだ。だけど、いきなり任せてくれと言われても信用なんてできないよね」
言葉を返さない鈴原は僕を無視しているわけじゃない。どう答えればいいのかわからないだけだ。
「まだ信用しなくていいから僕と取引をしよう。さっきの発言で鈴原は僕に借りがあるよね。申し訳なかったと思うならこれから半日だけでいいから僕に付き合ってよ。鈴原が応じてくれるなら、さっきの発言のせいでどんな噂になっても僕は納得できるから」
鈴原の性格はよく知っている。こんな風に負い目を利用されたら生真面目な彼女には断れないはずだ。
教室では大きなことを言ったけど、これからどうなるかは僕にもまだわからない。彼女がこれから僕の無茶に応じてくれるかどうかでこの先の運命が決まることになる。
10分ほどで校門にタクシーが着いた。僕たちが乗り込んだタクシーはアプリに入力した場所に向けて走り出した。
あれから鈴原は一言も口をきいていない。諦めたような表情で窓の外を全く見ずに膝の上で握った自分の手を見つめていた。
その憂に満ちた顔をこれからどう変えられるか。僕はこれから自分がしようとしていることを思って武者震いした。その後で2人がどうなるのかはまだ僕にもわからない。
確かなのは、小学校から続いていた『男子の中では仲が良い方』という鈴原との関係が、これで終わるということだ。