第36話 歌劇の鑑賞に来たのですが…!キャパオーバーです!
ご覧いただき、ありがとうございます。
あれから、約二ヶ月後。
ソフィアの実家であるエリオン男爵家は、例の魔法式の誤述の件で王宮に召喚された上に尋問もされたらしい。
また、魔法道具の国内シェア一位の『マジック・ファースト商会』が、欠陥のある魔法式を商品に組み込んだ当商会の顧問であるエリオン男爵家を訴える予定であると囁かれている。
そもそも、件の一件は商会にも非があるということで話が付いていたはずだったのだが、その後の話し合いでよほど齟齬が生じたのだろうか。
そして、ジークハルトは未だにその事実をソフィアに伝えることができていなかった。
ただ、察しのよいソフィアのことだから、彼女が魔法式の欠陥を指摘した時点で、実家にどのような処罰が下されるかは大方理解しているのだろう。
だが、何分「ソフィアが指摘をしたせいで実家が窮地に陥った」事実を知った時に彼女がどのように感じるのか、心優しい彼女が罪悪感を抱くのではないのかと思うと伝えることを躊躇するのだ。
そう思いながらも、ジークハルトとソフィアは外出用の装いをして、公爵家専用の馬車に乗り込んでいた。
ちなみに、今日は土曜日でありジークハルトの商会は休日である。
「歌劇は随分と久しぶりだが、君と一緒ならば楽しいだろうな」
ソフィアは、パチクリと瞬きをすると一気に頬を赤らめた。
「わ、わたくしも、旦那様と一緒に歌劇を観覧することができて嬉しいです!」
ソフィアの柔らかい笑顔を見ていると、ジークハルトは、心が満たされるように感じた。
ここのところ、例の魔法道具の魔法式の件の対応に追われていた上に、議会が開会して議員としての仕事も本格的に始動したので帰宅が連日深夜となり、ソフィアとの時間をほとんど取ることができていないのだ。
その中でも、救いは朝食だけはほぼ毎日一緒に摂ることができていることである。
(ただ、食堂には使用人が複数いて込み入った話はできなかったからな。今日はじっくりと今後のことについてソフィアと話し合う予定だ)
そう思い、多忙の合間を縫って執事のセバスに歌劇の手配やソフィアの衣装の用意についても指示を出した。
今日彼女が身につけているのは、先日に仕立て屋で特別に注文をした裾にレースが施されたドレスである。
そのドレスは、薄い藍色の絹の生地に全体的に繊細な刺繍が施され、胸元やスカート部分に薔薇の装飾も付けられており、紫色で錦糸の刺繍が見事に散りばめられており、心から彼女に似合っていると思った。
ちなみに、ジークハルトは黒のウエストコートを着込み、その上に黒のフロックコートを身に着けている。
「今日の君も綺麗だな」
ソフィアは、スッと笑顔のままそのまま動きを止めた。
不思議に思い観察してみると、どうやら固まっているようだ。
「ソフィア?」
「⁉︎ は、はい‼︎」
「大丈夫か?」
「は、はい!」
すぐに顔を真っ赤にさせて手をモジモジと動かすが、ソフィアは間を置いてから口を開いた。
「旦那様、ドレスを褒めていただきましてありがとうございます。素敵なドレスを仕立てていただきましてとても光栄です! 旦那様もとても素敵です! もちろん旦那様ご自身がですが……!」
「ありがとう。だが、俺は君自身が綺麗だと伝えたかったんだ」
「⁉︎」
再びソフィアはしばらく固まっていたが、数分後に「ありがとうございます」と呟いた。
ジークハルトは、真っ赤な顔でそう言ったソフィアを見ていると、今晩伝えようとしている言葉をここで伝えようかとも思ったが、そう思案をした時に馬車が目的地へと到着したので、彼女をエスコートして劇場へと足を踏み入れたのだった。
◇◇
「閣下、奥様。ようこそおいでくださいました。こちらへどうぞ」
「ああ、今日はよろしく頼む」
「はい」
支配人の案内により二人は特別室に案内され、付き添いの執事のセバスや侍女のテレサも出入り口で控えているので室内には二人きりとなる。
馬車の中でも二人きりであったし、最近は機会が遠のいているとはいえ、屋敷でも居間内にて二人きりになることもあるのだが、今は先ほどのジークハルトの言葉が頭の中でグルグルと回って落ち着かなかった。
(だ、旦那様が、わ、わたくしのことをき、綺麗だと、お、仰ってくださいました……⁉︎)
現在、絶賛大混乱中であるからか、身体中に熱が駆け巡っていくのが分かった。
ともかく落ち着こうと立ったまま深呼吸をしていると、不意にソフィアの手に温かい感触が触れる。
「ソフィア。楽にするといい」
ジークハルトにとっては何気ない言葉なのかもしれないが、今のソフィアにはそれがまるで熱を帯びた言葉のように聞こえて益々大混乱に陥るのだった。
それから、ジークハルトはソフィアを部屋の中の舞台が見えやすいように設置されたカウチまでエスコートしてくれ、気がついたらカウチに座っていた。
「だ、旦那様……!」
「どうかしたか?」
「あ、あの、今日の旦那はなんというか、その」
「? 普段と変わらないが」
「⁉︎ そ、そうでございますか……⁉︎」
本気で特に変わった心持ちはないと思っているのか、ジークハルトに動じた様子はなく、そんな彼の様子を見ているとなぜか妙にソフィアの心中は徐々に落ち着きを取り戻していった。
そうこうしていると、会場内に拍手が巻き起こりステージ上に女性が姿を現し歌唱が始まる。
「す、凄い……‼︎ この世にこれほどに綺麗な歌声があるなんて……‼︎」
これまでソフィアは、歌手が歌っているところを聴いたことがなかったので、鳥肌が立ち涙も込み上げてきた。
「俺は、君の声以上に綺麗な声は知らないな」
そう言って、ジークハルトはソフィアの銀髪を自身の手にそっと掬った。
「‼︎ ‼︎ ‼︎」
途端に、ソフィアの心臓がバクバクと波打ち、思考は大混乱に陥った。
(キャ、キャパ、キャパオーバーです……‼︎)
顔を真っ赤にして視線を彷徨わせているソフィアの様子を受けてか、ジークハルトは口元を緩めてそっと髪の毛を離す。
鼓動は高鳴りっぱなしであるしどうしようかと視界を彷徨わせていると、ジークハルトが視界をステージの方へと向けたのでソフィアも倣ってそちらへと向けた。
そうしていると、何とか鼓動が落ち着き歌声が心に響いてくる。
「ソフィア、泣いているのか」
「は、はい。あまりにも美しい歌声ですので……」
(はっ。旦那様の前で涙を流すなんて、みっともなかったでしょうか……!)
慌てて目尻に溜まった涙を手で拭おうとしていると、ジークハルトがハンカチを差し出してくれた。
「これで拭うとよい」
「……ありがとうございます……!」
ハンカチを受け取りそっと涙を拭うと、そのハンカチから爽やかな香りが漂ってくる。
「……もしかして、この香りは……」
「ああ。君が贈ってくれたポプリの香りだ」
「旦那様……」
ポプリは香りがなくなる頃を見計らって新しい物を贈っていたのだが、正直なところこうして使用してくれているとは思っていなかった。
「旦那様、ありがとうございます……!」
「礼を言うのは俺の方だ。ソフィア、贈り物をありがとう」
ソフィアは、そう言って微笑んだジークハルトの笑顔をこれからもずっと覚えておこうと、胸の中にそっとしまったのだった。