第26話 いつか言ってみたかったのです!
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グラッセ公爵家の居間は屋敷の二階に位置し、ソフィアの部屋がある方角とは中央階段を挟んで反対方向に設けられている。
ソフィアは、二階は中央階段を向かってこちら側の部分のみ把握しており、反対側は敢えて把握をする気はなかった。
というのも、反対側はジークハルトの私室や本来の公爵夫人の私室など屋敷の中でも重要な部屋があり、本来であればお飾りの自分は足を踏み入れることも許されないと思っているからである。
ただ、先日事情により夫人の部屋を使用していたときは、なるべく他の部屋の扉は見ないように俊敏な動きで移動をして対処をしていたのだ。
そして、ソフィアは約束の時間の少し前に室外の扉の前まで赴き、ドアノブに手を伸ばした。
(この扉を開けば、居間なのですね……! 本当にわたくしが入室してもよろしいのでしょうか……?)
ソフィアは実家に在住時、屋敷の居間にほとんど入室したことがなかった。
というのも、まず普段からソフィアはまるでいないように扱われていたので、家族が一家団欒をしている中に赴いても誰も話しかけないのは当然のこと、話しかけても受け流されるので中々辛いものがあり、いつしかその部屋自体を訪れなくなったのだ。
なので、そういった部屋にまさか自分が赴くことができるなんて夢のようだと思った。
ソフィアは、意を決して扉を開き足を踏み入れた。
目前に広がる室内は十数人が一堂に介しても問題がないほど広く、ソファやローテーブル、飾り棚は同じブランドの家具で統一されている。
加えて、天井には三つのシャンデリアがキラキラと輝き、ソフィアは一目でこの部屋に好感を持った。
ジークハルトからは先に居間で待つようにと指示を出されたが、なんともここにいてもよいのかという気持ちが湧き上がってきて中々落ち着かない。
ともかく、何もしないのも性に合わないので、持参した本を開いて目を通しはじめると、十分ほど経ったところで扉からノックの音が響いた。
ソフィアは反射で立ち上がり、スッと深呼吸をしてから意を決する。
「はい、どうぞ‼︎」
勢いよく返事をしたあと、一呼吸置いてから扉が開かれた。
「悪い。待たせてしまったな」
「いえいえ、とんでもありません! わたくしも、今来たところですので!」
そう言いつつ、ソフィアの心は震えていた。
(このセリフ、いつかは言ってみたかったのですよね! 言える時がきて、感無量です!)
感慨深さを噛み締めていると、ふとジークハルトが扉の前で立ち止まっている姿が目に入った。
彼はこちらの方を凝視しているが、どうかしたのだろうか。
そう思っていると、ソフィアは自分が寝巻きを着ていることを思い出した。
「や、やはりこんな姿でお目にかけるのはお目汚しでしたでしょうか」
思わず本音をこぼしていた。
(ただ、この時間にデイドレスを着るのもいかがなものかと思いましたし、テレサさんたちがせっかく用意をしてくださった衣服を脱ぐのも気がひけます)
実家にいた時に着ていたドレスであれば一人でも着ることはできるが、それにしても先ほどテレサとマサが入念に身体をマッサージして香油まで塗ってくれたのに、それを無下にすることはしたくはなかった。
ただ、時折りマッサージはしてくれるが、香油まで塗られたことはなかったので不思議に思ったが、ジークハルトに少しでも不快な思いをさせないようにとの配慮なのだろうかとも思った。
よく見るとジークハルトも普段よりもラフな格好をしている。
普段であれば黒色のウエストコートを身に着けているが、今は白のシャツを身につけており、より私的に感じられた。
「いや、そんなことはない。むしろ落ち度があるとすればこの時間に呼び出した私だ」
「いえいえ、それはお気になさらず!」
ジークハルトは小さく頷き、向かいの一人掛けのソファに腰かけると、彼はまっすぐソフィアを見た。
「ときに、君が以前に贈ってくれたこのポプリだが、とてもよい香りがするな」
そう言ってスラックスのポケットから取り出したのは以前にトーマスに託したポプリだった。
そのポプリはソフィアがふと二週間ほど前に、いつも仕事で帰宅が遅いジークハルトのために何かできないかと思い立ち作成したものである。
「はい! その香りは、そうですね。言葉で表現をするとしたら、スッキリ爽快! です!」
「スッキリ爽快? ……君は、時々面白い言葉を使うな」
そう言って口元を緩ませるジークハルトを見ていると、ソフィアは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
ドキドキと波打って騒がしいが中々おさまってくれそうにない。
「は、はい!」
ジークハルトは真っ直ぐにソフィアの方に視線を向けた。
「このような贈り物ももらったのは初めてだ。……ありがとう」
(……‼︎‼︎)
感謝の言葉と共に僅かに微笑んだジークハルトの表情を見ると、ソフィアの身体は硬直してしまった。
自分が高次元の何かに遭遇できたような、尊い恩恵を受けられたようなそんな感覚を抱いた。
意識がだんだん戻ってくると、感動が渦のように押し寄せてきた。
(わたくしは幸せ者です……)
思わず号泣しそうになったので、ささっとハンカチを取り出して目元に当てる。
「大丈夫か?」
「は、はい!」
ともかく気を取り直すと、ホッと息をついた。
(思いがけず、旦那様にわたくしのポプリを受け取っていただけたご感想を聞くこともできましたし、安心して眠ることができます!)
そう思い意気揚々と立ち上がった。
「それでは旦那様、わたくしはこれで失礼いたします」
今は寝巻きの上にナイトガウンを羽織っているので、その裾を軽く持ってカーテシーをする形をとった。
寝巻きとはいえ、あまり人通りの少ない夜間の屋敷の廊下を出歩くくらいなら、この格好でも問題はないだろう。
「いや、……もう戻るのか?」
「はい。旦那様はお仕事から戻られたばかりなのでお疲れでしょうし、あまりわたくしのことでお時間を割いていただくわけには参りませんので」
「……もし君がよければだが、これから侍女が茶を運んでくるので、茶を一杯付き合ってもらえないだろうか」
ソフィアは目をパチクリと見開いた。
「お茶ですか?」
「あ、ああ」
ジークハルトは「コホン」と咳払いして、「もし、君がよければだが」と再度付け加えた。
(これは夢でしょうか? そもそも、わたくしがこのようなお屋敷のプライベート空間にいること自体が、夢のような出来事なのですが……)
そう思い、そっと頬をつねってみたが痛かったので、どうやら夢ではないようである。
「はい! 是非ご一緒させてください!」
深夜だというのに勢いよく返事をしたからか、ジークハルトは一瞬ビクリと肩を揺らした。
「ああ」
そう言って苦笑したジークハルトを見ていると、再び胸の鼓動が高鳴ってくる。
それから間もなくテレサが入室してお茶を用意して立ち去っていったので、そのお茶に口をつけて深呼吸をした。
「トーマスの話によると、君が書類の校正などをしてくれるのでとても仕事が捗っているとのことだ」
「い、いえ、あくまで参考程度ですので」
「いや、私も確認したが非常に正確だった。改めて礼を言う」
「そ、そんな、お顔をお上げください……!」
慌てて顔を上げるように伝えると、ジークハルトは少し目を細めた。
ソフィアはそんな彼を見ていると安心感が湧き上がってくるように感じたのだった。