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七 谷淵ノリオの場合 一

 谷淵ノリオ視点




 生まれてから、大きな挫折を体験したことがなかった。

 その分、努力をしてきたという自負があった。

 それに、小さい失敗や敗北なら、いくつも経験している。

 完全無欠の人生を送ってきたわではない。

 大学も第一志望の国立を落ちて、第二志望の私立に行くことになったりしている。

 それでも、絶望するような局面や取り返し不能な失敗をすることはなかった。

 そんな、順風満帆とは言わないまでも、それなりに順調な人生の道行にも暗雲が立ち込めるようになったのは、オレが会社に入社してからだ。

 別に、入った会社がブラック企業というわけではなかった。

 それどころか、社名は誰もが一度は聞いたことがある一流企業。

 忙しくはあったが、労働基準法を破るほどではない。

 入社して三年は問題なかった。

 むしろ、同期のなかでは、一番会社に貢献していて、必ず出世すると言われたほどだ。

 しかし、徐々に周囲とオレとの間で溝ができるようになった。

 オレはただ、困っていた女性社員や同期のために目撃したセクハラやパワハラを報告したり、非効率な取引や会議の仕方を指摘しただけなのに。

 なぜか、会社から自主退職を勧められるようになった。

 信頼していた上司には取り合ってもらえず、友人だと思っていた同僚たちも相談に乗ってくれないどころか拒絶してくる。

 法的な手段なども考えないではなかったが、三年という短い間とはいえ働いてきたあの会社に自分の居場所がないのだということが衝撃的で、能動的な行動する気力は残ってなかった。

 それでも、オレは楽観していた。

 少し休んで、気力を回復させたら、すぐに再就職できて問題なんてなくなる。

 そう、思っていた。

 思っていたのに。

 退職して実家に戻ったオレの心は回復するどころか、両親によって完全に圧し折られた。

 厳しい両親だったが、その厳しさも愛情の一つだとずっと思っていた。

 だから、オレの退職にいたる経緯を理解してくれると思っていたが、言い訳するなと怒鳴られ、仕事を辞めるなんて、非常識で我が家の恥だと言われた。

 セクハラやパワハラを報告したのだと説明しても、会社ではそれぐらいのコミュニケーションは普通にあると言われ、非効率を指摘したことも慣例を破るな、会社の言うとおりにしていればよかったなどと切り捨てられて、取り合ってもらえない。

 納得できなかった。

 正しいことをしろと教えてきたのは両親だったではないか。

 ニュースで報道されたセクハラやパワハラをするような人間になるなと言ってきたのに、社会に出たらそれを見逃して容認しろ?

 意味がわからない。

 本当に、意味がわからない。

 会社から自主退職を勧告されたときよりも、両親に理解されず共感してもらえなかったことの方が、絶望的で衝撃的だった。

 家族は無条件で理解して、共感してもらえると思っていただけに、拒絶されることを想定していなかったことも大きい。

 退職して、両親が理解してくれなかった。

 話としてはそれだけのこと。

 だが、オレはこのことで、不信を持った社会から孤立して、どうしょうもなく空虚な孤独を感じるようになった。

 それでも、両親はオレを実家に住まわせてくれた。

 いや、フラフラと外に出て、会社をクビに近いかたちで自主退職したという醜聞を広めないために、家に押し込めていたのかもしれない。

 両親の意図はわからないが、どちらにしろオレに買い物に行く気力すらなく、完全なひきこもりになっていた。

 特になにかをするわけでもなく、ひきこもり続ける生活が二年続いたある日、このままではダメだと思って、なにかをしようと思い立つ。

 しかし、外に出るのは怖くて、人と接触するはもっと怖くなっていたので、外に出て就職活動や資格の取得を目指すのではなく、手付かずの退職金という名目で会社から支払われた色々なことに対する口止め料を元手に資産運用をしてみることにした。

 ちなみに、口止め料の金額はかなり多かった。

 一生暮らせるほどの金額ではないが、上手く資産運用ができれば、すぐに退職したときの年収よりも稼げるようになるかもしれない。

 まあ、失敗して、短期間で資産を溶かしてしまう可能性もあるが。

 いきなり実践するのではなく、情報収集をして学びながら、実際の為替と連動した練習用のアプリなどで基本的なやり方とノウハウを覚えていった。

 一年間、ひたすらトライアンドエラーを繰り返して、やれると確信してから、実際に口止め料を用いてやってみた。

 お小遣い程度の金額から始めて、半年ほどで大きくな額を動かすようになり、二年目で利益が以前の会社dでの年収を軽々と超えるようになった。

 これである程度、今後の見通しがたつようになったから、ずっと没交渉だった両親に報告しようと決断した。

 両親に対して、苦手意識と恐怖心と拒絶感があるけど、ずっとこのままというわけにもいかない。

 認めてくれたり、和解できなくても、外に出ないで稼げることを示せば、消極的な容認くらいはしてくれると思っていた。

 そう、それなのに。

 オレの努力と決断は簡単に踏みにじられた。

 ある日の早朝、オレの部屋のドアが打ち破られてロープを持った四人の見知らぬ男と父親が入ってきた。


「もう、うちではお前の面倒を見れん。今日からこの人たちの厄介になりなさい」


 目の前で実の息子が四人の男に押さえつけらそうになっているのに、父は慌てるようなこともなく淡々と言う。

 脳裏で、資産運用の合間に調べた知識が思い浮かぶ。

 ひきこもりに対処するためのNPO法人。

 まともな組織もあるらしいが、ひきもりの当事者を拉致監禁して、刑務所よりも劣悪な生活を強いて、必要経費として月に数十万以上を請求する連中も少なからずいるらしい。

 なにも知らない人間はNPO法人と聞くと、ボランティアや善人の集団だと、無条件で連想してしまうかもしれないが、なかには半グレ集団並みにたちの悪い法人もある。

 それで、目の前にいるロープを手にしている連中は、明らかにまともなNPO法人ではなく、NPO法人の皮を被った犯罪集団にしか見えない。

 まあ、ひきこもりに対して真面目に向き合うつもりなら、ロープなんて手にしないだろう。

 父はこれを見て変だと思わないのか?

 いや、オレが家からいなくなるなら、過程などどうでもいいのかもしれない。

 …………これが、オレの父親か。

 バカバカしくなる。

 傷ついて、恐怖に満ちる弱った心で、それでも両親への思いがあった。

 それは、両親への弱々しくて、儚い気づかい。

 両親から恥だと言われたことが、悲しくて、情けなくて、申し訳なかった。

 どうにかしようと思っても、内からわき上がる雑多な恐怖で外出と人との接触ができない。

 だから、なんとか自分なりにあがいて、資産運用をするようになったのに。

 もう……いい。

 オレがバカだった。

 拒絶されても、父親だから、成果を見せればわずかでも認めてくれると思っていたのに。

 この父親は、オレに対して一切の信用などしてない。

 下品な薄笑いを浮かべてにじり寄ってくる四人の男を前に、心臓が不規則に激しく脈打つ。

 他人が目の前にいるというだけで、不安と恐怖が押し寄せ、息苦しくなってくる。

 それでも、強引に体を動かし、ベッドの横に立てかけてある木刀に手を伸ばす。

 外出できないから、健康のためにランニングもできないので、資産運用の合間に運動不足解消のために中学と高校で所属した剣道部時代に購入した木刀で素振りをしていた。

 もっとも、それだけだと運動量が足りないのか、どうしてもメタボ体形を解消できなかった。

 よく手に馴染む木刀を正眼に構えて、ゆっくりと一度だけ深呼吸をして、意識的に自身を剣士の自分へと切り換える。

 不安も恐怖も消えないが、意識の隅には追いやれる。

 相手は四人。

 父を入れれば五人。

 負ける気がしない。

 これでも剣道の有段者だ。

 だから、なんとなくわかる。

 間合いに入った瞬間に、全員叩き伏せられるだろう。

 構える木刀に、一瞬だけ視線を向ける。

 当然、木刀だから、刃は付いていない。

 だが、殺傷力がないわけではない。

 本気で振るえば、人間の骨など簡単に折れるし、内臓にも甚大なダメージを与えるだろう。

 だから、オレは決断しなくてはいけない。

 一切の容赦なく殺すか、押さえ付けられるリスクを覚悟して手加減するかを。

 最後の希望だった家族に拒絶され、生きる意味も目標もない。

 それでも…………こいつらの理屈で、オレの自由を束縛されることを容認などできない。

 …………ならば、殺してでも道を切り開く。

 もっとも、たどり着く先は、深くて暗い終わりしかない、終わりに満ちた道だろうがな。

 いや、オレはすでに終わっていて、あるいは生まれたときからどうしょうもなく終わっていたのかもしれない。

 ここにあるのは、人生の残響や残光ですなく、ただの残骸なのかもしれない。

 すでに死に体。

 ならば、迷う道理なし。


「キィエエエェーーー」


 発声と同時に、一番近くにいたチャラそうな金髪の喉に最速の突きを放つ。


「グッフェ」


 オレの突きは金髪の気道だけではなく、首の骨まで破壊したようだ。

 金髪の頭が冗談のように、グニャグニャと前後左右にゆれて、背中から倒れて動かなくなる。


『条件を満たしました。鬼になりました。レベル一になりました』


 脳裏に、男性でも女性でもない中性的な声が響く。

 耳から聞こえるのとは違い、脳へ直接伝達されるような感覚だ。

 幻聴にしては、はっきりと聞こえた。

 少なくとも聞き間違いや、勘違いではない。

 細かな検証は後でするとしよう。

 それよりも、圧倒的に軽い。

 木刀と体が、地に束縛する重力から解放されたかのように、軽やかだ。

 だが、それ以上に、心が軽い。

 殺人を犯した恐怖や罪悪感など微塵もなく、これから行う殺人への忌避感や恐怖心もない。

 仲間の死か、あるいはオレに反撃されたことに驚いているのか、石膏で固めたように動かない推定NPO法人の三人と、目を見開いている父にも、恐怖を感じない。

 さっきまで、他人というだけで無条件で怖かったのに。

 物理的な脅威と見なさないというだけではなく、心理的にも恐怖を感じない。


「な、なにして」


 なにかを口にしようとする、ピアスをいくつも付けた男の頭部に、木刀を叩きつけて黙らせる。

 しっかりとピアス男の頭部を陥没させた手ごたえを木刀が伝えてくる。

 いまの面はオレの過去に類を見ない最高の一撃だった。

 高校時代に比べて体はメタボで、感覚も鈍くなっているはずなのに、むしろ、いまの方がシャープかつスムーズに体を掌握できる。

 これもオレが鬼になったとかいう謎の声の影響か?

 それとも初めて殺人で興奮しすぎて、正常な判断が下せないだけか?

 まあ、どちらでも、目の前のこいつらを殺すことに変わりはない。


「ブッバァ」


 ロープを持った茶髪の喉に、木刀の先端がめり込み、気道や骨と一緒に命を破壊する。


『レベルが上がりました』


 また、さっきと同じ中性的な謎の声が脳裏に響く。

 …………ふむ。

 人間を殺せばレベルが上がるのか。

 まるで、ゲームのように。

 なかなか愉快な展開だ。

 終わりへと収束する絶望の檻に捕らわれるしかないと思っていたのに、裏色で祝福された道を示されたような気分がする。

 レベルが上がった。

 ならば…………自身の動作の一つ一つに、意識を集中させる。

 正眼に構えた状態から、メガネをした推定NPO法人のなかで一番偉そうだった奴に、胴を放つ。


「ガッハァ」


 メガネが盛大に血を吐きながら、床に崩れ落ちて動かなくなる。

 これで推定NPO法人の四人は殺した。

 さっきまでの人間を殺す前のオレなら、ここで父と無意味と理解しながらも、血のつながった家族だからと会話を試みたかもしれない。

 だが、いまのオレにその気はまるでない。

 むしろ、絶対に殺す。

 ただし、それは敵意や悪意や害意によってではない。

 純粋な好奇心だ。

 さっき、メガネに胴を放ったときに確信した。

 明らかに、この体はレベルが上がったことで、急激に性能が上がっている。

 木刀でこいつを殺すことで、それをより確かめたい。

 この感覚はもしかしたら、かつての人斬りが新しい刀を手に入れたら、人間で試し斬りしたくなる感覚に近いのかもしれない。

 まあ、ようするに父はオレにとって、その程度の価値しかないのだ。

 いまのオレは家族としての未練、後悔、執着、思い出、それら一切の枷から解放されている。


「お、お前は、なにをする気だ」


 父は滑稽なほど怯えて、この事態を理解できないのか困惑している。

 だから、オレは冷めた気持ちで、淡々と応じた。


「なに、ただの試し斬りだ」


「お、俺はお前の父親だぞ」


 まるで、父はすがるように言った。

 数分前に、事前の相談もなく、追い出そうとした、その口で。

 だが、


「だから、どうした」


 いまのオレの心にはまったく響かない。

 謎の声を信じるなら、オレは鬼になることで家族や人間という以前のしがらみから、解放されたのかもしれない。

 より自身の体に意識を集中させて、限界を超えるイメージで突きを放つ。

 音速でも超えたのか、盛大な破裂音を従えて木刀は父の突き刺さり、首の骨を粉砕して貫通する。


「……ッカハ」


 目を限界まで見開いて、声にならない声を口にしようとしながら、父が息絶える。


「素晴らしい」


 意図せず言葉が口から出ていた。

 それほどオレは感動で打ち震えている。

 駆け巡る圧倒的な快感に酔い痴れていた。

 有段者とはいえ、剣道の頂点にいる者に比べれば、拙い技量。

 それなのに、いまの突きは達人の域を超えて、神技と呼べるほどだ。

 足らぬ技量を常識外の身体能力が補ってくれる。

 剣道に対してそれほど情熱を持っていなかったオレが、いまはこの体から繰り出される一撃の虜だ。

 木刀を突き刺さったままの無様なそれから引き抜く。


「一階に、もう一匹いたな」


 一階にいるであろう母へと思いを馳せる。

 しかし、そこには家族への情や思いやりといった感情は微塵もない。

 試し斬りの素材がもう一つあって嬉しい程度のものだ。

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