一 鬼に成る
決意して、決断したはずのに。
行動できない。
予想通り、あるいは予定通り、久しぶりに登校した私は、強制的に朝のホームルームと一限目の授業をサボらされて、いつものように体育倉庫へ連れ込まれた。
そして、森山イツカを中心とした同じクラスの八人の女子中学生たちに、まるで檻のなかの小動物のように取り囲まれている。
身長が平均に少し届かない私を相手に、女子でも私より身長の高い連中に包囲されると、物理的だけじゃなくて、心理的な威圧感もなかなか凄い。
取り囲む全員が私で遊ぶつもりなんだと、女子に幻想を抱いていそうな思春期の男子には、絶対に見せられないような下品な笑みを浮かべていれば、その威圧感もなおさら。
改めて冷静に考えれば、これは異常なことなのかもしれない。
慣れてしまって、感覚がマヒしているけど、授業中にクラスの女子の大半が教室にいないのに、問題にならないなんて、変。
まあ、いつもなら私だけが、後で授業をサボるなと、教職員から理不尽に説教をされる。
正確に言えば、森山イツカと仲が良くなくて、庇護下にない、私だけを。
森山イツカの父親は暴力団だか、半グレ集団の幹部らしくて、生徒どころか、教職員やPTAの連中までビビッて、森山イツカに逆らえない。
髪を茶髪どころか金髪に染めて派手なピアスを付けて制服を着崩しても、遅刻してサボっても、学校内で誰も、森山イツカと取り巻きの連中を、校則を破っていると注意したりしない。
もしも、私が同じことどころか、どれか一つでもやったら、即座に生徒指導室に連行されて、罵詈雑言でデコレーションされた恫喝を聞かされて、自分がいかにダメな人間かという内容の反省文を提出することになる。
それ以外の生徒でも、多少マイルドな対応になるかもしれないけど、見逃されることはない。
あくまでも、森山イツカとその仲間たちにのみ許された特権。
森山イツカは、まるで、この中学校の女王様だ。
そんな森山イツカを前にして、登校前の覚悟は私の中から不在となり、体と心が恐怖で萎縮して、思うように身動きできない。
ここに来る前に、スポーツバッグからスカートのポケットに移したそれを、こんな状況になっても取り出すことができないでいる。
「アンタさぁ、なんでガッコにこなかったわけ?」
森山イツカの蔑みとイラ立ちが混ざったような声に、より体が強張っていく。
「……そ、れはぁ……」
言いたいことは山ほどある。
それこそ無数にある。
だけど、喉が、体が、十全に気持ちを反映してくれない。
…………違う。
これが私の気持ち。
人生や保身なんて投げ捨てて、覚悟を決めたつもりで、表層的に反撃の空想はできても、心の奥底では目の前の生身のこいつを恐れて、空想したことを実行しようとしない。
「ハァ? 聞こえないし」
「アレじゃなの。自分みたいなゴミがくると、空気が悪くなるって、気づいたんじゃないの」
森山イツカのかたわらに寄り添うように立っている鴨居カエデが、笑いながら口を開く。
黙っていれば美少女の森山イツカと、女子にしては高身長で凛々しい鴨居カエデが近くにいると、絵にはなる。
まあ、性格を知っている私には、ただただ忌々しい絵面でしかない。
鴨居カエデは空手の有段者らしいけど、清廉な性格なんて期待できない。
弱気を助け強気をくじくどころか、強気にへつらい弱気を袋叩きにする有様。
それでも見た目で、学校の女子から人気があるらしい。
この学校の女子の視力は、そろって腐っているのかもしれない。
でも、私にとっては行動を起こすときに、鎮圧されてしまわないように、一番気をつけないといけない相手というだけだ。
「へぇ、そうなの? だったらさぁ、そう言いなよ。ゴミはゴミなりに、気を使いましたって」
「ゴフゥ!」
森山イツカにお腹を蹴られて、馬鹿みたいに無様な声が口からもれてしまう。
油断した。
というか、感覚が鈍くなっている。
一週間近く、登校しなかったから、相手の動きを警戒しきれなくなっていた。
痛みを感じて、ようやく自分が蹴られたのだと、気がついた。
おかげで、お腹を蹴られて、その痛みで膝をついて苦しむことになっている。
いつもなら、連中の会話の流れと動作で、攻撃を予期して受けられるのに。
まあ、予期しても、避けたり防いだりしたら、もっと酷くなるから、避けるわけにも、防ぐわけにもいかない。
だから、実際には痛みを覚悟するぐいらいのことしかできないんだけど。
それでも、不意打ちで、蹴られたりするよりも、覚悟を決めて受けたほうが、痛みもダメージもましになるような気がする。
「けどさぁ、それなら、アタシに一言ホーコクしないとダメでしょ」
森山イツカが半笑いであきれたような口調で言いながら、私の頭を踏んで土下座のポーズを強制してくる。
痛くて、屈辱的て、なおかつ鼻と口が床に押し付けられて、息が苦しい。
それなのに、体は強張ったままで、迅速な反撃なんて実行不可能。
強張る体とは逆に、心は迷走するようにゆらゆらと揺れて、一つの覚悟へと固まらない。
「なーんてね、ホントは知ってました。アンタの母親、死んだんでしょ、カワイソー」
母の死を嘲笑うような森山イツキを聞いて、動かない私を叱咤するように心臓が力強く脈打つ。
それでも、全身に巻きつた鎖のような強張りを吹き飛ばすことはできない。
「そーなんだ、カワイソー」
「「「カワイソー」」」
笑顔で、
笑いながら、
連中が口にする言葉が、どうしょうもなく不愉快。
本当に、不愉快。
不愉快で耳障りな、カワイソーの大合唱。
でも、それよりも不愉快なのは、こんな目にあっているのに、行動できないでいる自分自身。
「でもさ、確か、コイツ、一軒家に住んでなかったけ?」
「なにそれ、ホント? アンタ、家で一人は寂しいでしょ? よかったじゃん、これからはアタシらがアンタの家をユーコーカツヨーしてやるよ」
あの家をこいつらも欲しがるのかと、心の奥底で滞留する怒りとは別のところで、不思議に思う。
謎の遠い親戚に、こいつら、大人気だな、私の家。
まあ、今頃、燃えて炭になっていると思うけど。
わざわざそれを口にして、教えてやるつもりはない。
「ちょっと、アリガトーの一言もないわけ?」
森山イツキが後頭部を踏みつける力をさらに強くする。
痛すぎて、もう少しで頭蓋骨が割れるか、額が床にめりこむんじゃないかと切実に思ってしまう。
これだけ無様な目にあっているのに行動できないとか、あまりにも情けなくて、ポケットのなかの物を連中じゃなくて、自分に向けて人生を終了させたほうがいいんじゃないかとすら思えてくる。
「感謝の言葉も言えないの? アンタ、ホントにゴミね」
「ま、しょうがないんじゃない? だって、親がアレだもん」
「ナニナニ?」
「コイツの母親がどうして死んだか知ってる?」
「しらなーい。ってか、アタシ、ゴミのセータイに詳しくないし」
「それも、そっか。コイツの母親、カローで死んだんだって」
「カロー? なにそれ?」
「働きすぎて、死んだんだって」
「なにそれ、ダッサイ」
「それだけじゃなくてさ、コイツの母親、それだけ働いているのに、ビンボーだったんだって、ウケル」
「うわぁ、バカじゃないの、そいつ。ヨーリョー悪すぎ、ってか、頭悪すぎ」
「死ぬほど働いてビンボーとか、ダサすぎ」
「ま、しょうがないよ、だってコイツの母親だもん。結局、ゴミの親は、ゴミって……えっ?」
森山イツキが自分のお腹を見て、不思議そうな表情をしている。
目に映ることの意味が理解できていないみたい。
森山イツキの目が動く、表情が動く、つまりはまだ生きているということ。
だから…………私は止まらない。
「ちょっ、アンタ……イタっ、えっ?」
サンドバッグの代わりに遊んでいたオモチャが反撃するなんて、多分、こいつは想像していなかったのかな。
だから、踏みつける足をどかして立ち上がり、ポケットに忍ばせていた折りたたみナイフをお腹に突き立てようとしても、こいつは避けようとすらしなかった。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
森山イツカのお腹を刺して、また刺す。
手どころか、手首をつたって肘まで、生ぬるい森山イツカの血で汚れる。
もう、森山イツカは声を上げないけど、刺すたびに痙攣したようにビクビクと動くから、また刺す。
反撃されないように、確実に死ぬように、死ぬまで刺し殺す。
けど、止めどきがよくわからない。
もう、森山イツカはピクリとも動かないけど、まだ生きていて、刺された仕返しに反撃するんじゃないかと、念のために、さらに刺したほうがいいんじゃないかと、迷ってしまう。
まだ、血と飛び出てきた内臓が温かいから、生きているんじゃないかと疑って、森山イツカの死を確信できない。
『条件を満たしました。鬼になります。レベル一になりました』
脳裏で、なにか幻聴が聞こえたような気がすけど、取り合ってる余裕なんてない。
「ちょ、ちょっと、アンタ、なにを……なにをやってんの!」
凛々しい王子様として、女子生徒から憧れられている鴨居カエデが、戸惑うような怒るような、なんとも言えない珍妙な表情をしている。
推定死体の森山イツカよりも、確実に生きていて空手有段者の鴨居カエデのほうが危険。
推定死体への追撃を中止して、引き抜いたナイフを腰だめにして鴨居カエデに突進する。
拳や蹴りで反撃されるかもしれないけど、骨が折れても、内臓が破裂しても、止まるつもりはない。
どんな痛みがあっても、止まらない。
その覚悟は固まった。
こいつらが固めてくれた。
母を笑って、母の死を笑って、母の人生を笑ってくれた。
だから、私のなかの恐怖も、慈悲も、躊躇いも、最後の一欠けらまで、吹き飛ばして、反撃することができる。
連中のクズさが私の最後の一歩を後押ししてくれた。
母の死を悼んで、同情したりするような、まっとうな感性の持ち主じゃなくて、本当によかった。
私も一切の容赦もなく、ナイフを向けられる。
…………?
鴨居カエデが構えもしないで、棒立ちのままでいる。
なにかの罠?
でも、困惑して、怯えたような鴨居カエデのあの表情が罠のための演技とは思えない。
……怯え?
鴨居カエデをよく見れば、恐怖で体を強張らせている。
まるで、さっきまでの私のようだ。
…………そうか。
こいつは、森山イツカを殺して、ナイフを向ける私が怖いんだ。
そういえば、鴨居カエデが誰かとケンカをしたなんて話を聞いたことがない。
まあ、この学校で私に、罵倒、恫喝、イジメ以外で話しかけてくる奴なんていない。
けど、クラスの連中が教室でしている噂なんかは、意識して盗み聞きをしなくても、自然とそれなりに聞こえてくる。
そうやって、聞こえてきたものから想像すると、多分、鴨居カエデは敵意や悪意をもって攻撃してくる相手と戦った経験がない。
鴨居カエデのエピソードで耳にするものといえば、中学生に進学してから生活が派手になって、色々と厳しくてうるさい実家を、森山イツカが介入して黙らせたということぐらいか。
はたから見てると、森山イツカがお姫様で、鴨居カエデが男装の騎士に思えるけど、実態は逆だった。
鴨居カエデが森山イツカに守られて、慕っていた。
その感情が友情なのか、愛情なのかは知らないし、心底興味もないけど。
実戦の経験不足で、ナイフを向ける私に恐怖してくれるというなら、実に都合がいい。
是非とも、死ぬまで怯えているといい。
「ガハッ……なんで……どうして?」
あっさりとお腹にナイフの刺さった鴨居カエデが、理解できないという表情をしながら、徐々に脱力して崩れていく。
どうして?
むしろ、私がどうして、そんな言葉を口にできるのかと、問いたい。
あんなイジメをしていたら、これは簡単に想像できる当然の結末だと思うんだけど。
あれだけのイジメを長期間して、反撃される可能性を考えなかったのか。
まあ、していなかったのかな。
あるいは、あれらの行為をイジメじゃないと認識して、私も楽しんでいたと思っていたのか。
もしそうなら、ありえなさすぎる。
極まった特殊な性癖の持ち主でもなければ、あんな状況を楽しむなんてことはできない。
「ちょっ……えっ……ウソでしょ」
呆然としていた残り六人のうちの一人で同じクラスの…………名前は覚えていないけど、そいつがつぶやく。
ありがたい。
森山イツカを殺した時点で、悲鳴を上げて、一斉に逃げられたら、取りこぼしが出てくるかもしれないけど、動かないでいてくれるなら、一気にこの場の全員は殺せる。
「アガッ!」
三人目。
『レベルが上がりました』
「イヤ!」
四人目。
懐かしい。
最近は無言で耐えてきたけど、イジメの初期に私も、その行為を拒絶するように口にしたっけ。
まあ、私の手にしたナイフが止まらないように、笑い声が返ってくるだけで、イジメは瞬間的にも止まることがなかった。
「や、やめ……」
五人目。
それも口にしたけど、こいつらはイジメを止めてくれたりしなかった。
「ゆ、許して!」
六人目。
不思議だ。
ここで私が彼女を許すほどの理由があると、本気で思っているのかな?
『レベルが上がりました。新たな力が解放されます』
「ごめんさない、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな、ウグッ」
七人目。
いまさら謝罪されても、あまりにも遅すぎる。
どこまでも、冷めた気持ちになるだけ。
「アタシは違う、やりたくなかった。本心じゃないの。イヤイヤだった、アッグ」
八人目。
名前は知らないけど、いままでにされたことと、向けられた表情は覚えている。
あの侮蔑や嘲笑が、演技?
本心じゃなかった?
それが本当なら、オスカー級の演技だ。
私は将来の大女優を殺したことになる。
まあ、ありえないけど。
浅ましくて、薄っぺらい命乞い。
それにしても、殺人という社会的禁忌を犯しているのに、心と体が軽すぎる。
抑圧された復讐として殺人をしたことで、気分が高揚していると考えても、殺人への躊躇がなさすぎる気がする。
あと、意識して無視していたけど、途中で脳裏に響いた幻聴はなんなの?
幻聴にしては、はっきりと聞こえすぎる。
殺人を忌避する私の深層心理が囁いたとか?
ありえない。
深層心理が囁くにしては、あまりも意味が不明すぎる。
そういえば、力が解放とか言ってたっけ。
それなら、もう、誰にも心と体を傷つけられないようになりたいな。
『力がリクエストされました。最適な力、鉄皮を獲得しました』
「はっ?」
謎の中性的な声が脳裏に響くと同時に、全身の皮膚が熱くなる。
といっても、火であぶられるようなものじゃなくて、日焼けしたときのようにヒリつく程度。
それも、数秒で熱は治まって、手とかのむきだしの肌を確認すると、日焼け以上に黒く褐色の肌になっていた。
意味がわからない。