白の街路路
生温かい泥の中に体が沈み込んでいくみたいだ。体がくの字になり、刻々と沈み込んでいく。両腕と足は浮力によってフワフワと浮いている。それとは逆にヘソのあたりはどんどん下に落ちる。温もりと心地の良い浮力によって沈みに体を身を任せる。そのまま下に下に落ちるのを止めることはできないのだ。そこで考えは途切れてしまった。
ピリッと肌を刺すような冷気に触れられ、まどろみから目覚めた。昨夜、疲れ果ててソファに横になったまま寝てしまったらしい。部屋の隅にあるスイッチを押して電気をつけ、目やにをティッシュで丁寧に拭き、ソファの形に固まった体をめいいっぱい伸ばす。吐いた息は白かった。部屋は人工の明かりで無理に照らされ、金魚鉢は水が変えられていないせいで水面が緑色になっている。水面は鈍くひかり、金魚は動かずただ鉢の反射でおぼろげに移る自分の姿を見つめていた。
ぼくは顔を冷たい水で顔を洗い、外に出る準備をした。いつもより水が冷たい。クローゼットから服を取り出し、メルトン生地のダッフルコートを羽織る。玄関ではいつものワークブーツを履きドアを開けた。ドアの隙間から身が縮こまるような外気が顔に当たる。冷気が体全体を包み眠気を一気に取り去っていった。鼻から入ってきた空気で体の芯が伸びる。目を開くと、いつもとは全く違う景色で、体が固まった。外は一面、雪で覆われ、木の緑と踏まれていないふかふかの雪で辺りは真っ白だ。
一体何が起きたのだ。昨晩帰ってきた時、雪は一ミリも降っていなかったし、寒さは微塵も感じなかった。しかし、どちらにせよ仕事に行く時間だ。会社に支配されロボットのように働かされるぼくに選択肢はない。雪の中を進んで、駅に行くしかない。踏み固められていない雪に足を入れた。幸いブーツのため、水は染み込んでこない。わだちのない道を歩くのは想像よりもずっと骨が折れる。重りを足につけて道を進んでいるようだ。一歩一歩雪の中に踏み入れるたびにサクッサクッと刻みの良い音がなる。身震いするほどの寒さも歩くのに集中していいるうちに気にならなくなった。
門を出て街路路に出ると車は一台も通っていなかった。道の所々が踏み固められ汚れで茶色になっている。歩くのは楽になったけれど、次は滑るのに注意しないとならない。
大通りに出ると人がちらほらいたが、街並みがいつもと違う。家はレンガ造りで、レンガの温かみのある色と屋根の濃い緑が目に付く。他の家も壁はペンキで雑に塗られた白色で表面がザラザラし、屋根は黒色だ。均等が取れていない見覚えのある街の景色はどこかに消えてしまった。しばらく歩いたが案の定、いつも使っている駅は見当たらない。駅があるであろう方向を意味もなく見つめたが、そこには大きな松の木が光っていないイルミネーションを巻かれて佇んでいた。途方に暮れた末、ぼくは職場の方向に歩いた。
街のあちこちに電飾やクリスマスの飾り付けがしてあり、店の看板は綿毛やキラキラと光る装飾が施されてる。クリスマスを祝っている街を歩いていると自分まで気分が浮かれてきた。昨日の沈んだ気持ちも少しずつ日が差し込むように晴れてくる。少し歩くと雪がパラパラと降ってきた。歩いているお陰で寒さは感じずむしろ体は温まっている。細かな優しい雪が顔に触れるたびに微笑みが顔から溢れ嬉しくなってきた。空から注いでいる陽の光が降っている雪を照らし、積もっている屋根や街路の雪が光を反射させる。街全体がまるで宝石を散りばめたように輝いていた。ぼくは数カ月ぶりに心から笑ったような気がした。
会社のことも忘れ、クリスマスの街をひたすらに歩いた。素敵な景色を細部まで全て見たかった。道の一つ一つ、装飾の一つ一つを余すとこなく観察したかった。自分が街のどこにいるかもわからなくなった時、すれ違いざまに背丈が同じくらいの灰色のニットを被った青年とぶつかった。辺りを見回すのに夢中になっていたぼくは体が当たるまで気がつかなかった。ぶつかったお詫びをすぐにすると、彼は満面の笑みで謝り返してきた。
「そんなに珍しいかい?」辺りをキョロキョロ見回してるぼくに彼は興味深そうに聞いてきた。
「え、すごいですよ。こんなに綺麗な街を見るのは初めてです。装飾された看板や玄関、電飾を巻かれたツリー、どれをとっても心を打ちます」
「そこまで言われると、なんだかオレまで嬉しくなってくるな。この街は毎年こうやって祝ってるんだぜ。きみはこれから予定でもあるのかい? 今からクリスマスマーケットに行くんだ。きみもどう?」
「クリスマスマーケットやっているんですか? ぼく行ったことないんですよ!特にこれから予定も無いです。ぜひ一緒に行ってもいいですか? 初めて行くので、楽しみです!」会社のことなんてすでに忘れていたぼくは、思ってもみなかった誘いに二つ返事で承諾した。
「そうこなくっちゃ! クリスマスマーケットに行ったことないってのは珍しいな。まぁとりあえず向かおう! そういや、オレはマックスだ。よろしくな」
「ぼくはマキシムって言うんだ。マックス、よろしくね」差し出された手を握りしめ挨拶を交わした。雪の降りしきる季節なのにも関わらず手袋をしてない彼の手は正午の陽のように暖かかった。
マックスと大通りを歩いて5分ほどたち、道を左に曲がると、教会が姿を現した。教会はレンガ造りで創設からかなりの年数が経っているように見える。かつて色のあった外壁は厳しい雨や風を耐え忍んだことによってあせており、今では色が茶色、薄緑、そして象牙色の3色しか残っていない。昔は緑や青色も壁面を染めていたのだろう。しかし、その色合いとは対照的に教会の窓のステンドグラスが冬の弱々しい光に照らされて七色に光り輝く。赤、青、緑、黄色、紫などの色が中世の晩餐会の景色を美しくかたどっていた。教会の屋根は空高くに伸び、全体が厳かさと優美さを同時に映し出していた。
「なんて美しい教会なんだ」ぼくは足を止め、感動のあまり声を意図せず発していた。
「ああ、綺麗だろ。あれは街のシンボルの教会なんだ。ここからは見えないけど、クリスマスマーケットはあの教会の下でやっているんだぜ」
「そりゃ最高だね! でも、どうしてマーケットをやっているの?」
「さぁ、そりゃ俺にもわからないな。何を祝っているのか、何に対して祝っているのか考えたこともなかったよ。訳もなくこの季節になるとやるのさ。実際の話、楽しければ何でもいいだろ?」とマックスは目を丸くして答えた。
「そうだけど、宗教が関係しているって聞いたことがあるけどな。わからないならそれまでだね」
「宗教? 何だいそれは? マキシムはインテリだな。マーケットに行ったことないのに俺よりマーケットを知っているじゃないか」とマックスは目を細めて楽しそうに笑った。
そんな調子で僕らは教会に向けて歩いて行った。教会に近づくにつれて街は栄えていき、飾り付けもさらに細部が凝り綺麗になっていった。窓の枠が電飾で彩られたり、窓にはサンタの小さな靴やツリーの彩られた色付きの丸いボールが吊るされている。街は入り組んでいて、道は狭いが家の壁と反対の壁に向かって街を彩る電飾がかけられており、それは天使の形をしたりダイヤモンドの形をしている。屋根に積もっているふんわりとした白い雪と色とりどりの飾り付けが街を盛り上げている。白い雪はキャンバスのように背景になり街の息を呑む美しさを静かに引き立てていた。
街の美しさにとらわれながら歩いていると、いつの間にか教会の近くに差し掛かっていた。教会の入り口あたりにログハウスが立ち並んでいて、ログハウスのひさしは赤と白で彩られている。店の一つ一つがオレンジ色の暖かな光を発し、店主はニコニコしながらお客さんと話している。雪はライトに反射して星のようにきらめき、マーケット全体を覆っている。統一感が取れた夢のような景色にぼくはしばらく立ち尽くした。まるで絵本の世界に入り込んだようだ。光や色がこんな綺麗に感じられたことは初めてだった。
「ほら! あれがクリスマスマーケットだ。最初に来たらやることは知ってるかい?」口角を上げてニコニコしながらマックスが質問してきた。
「わからないよ。初めて来るんだ。最初は何をやるんだい?」
「へへ、そうだったね。まずはホットワインを飲んで体を温めるんだ。なんてたってこの雪の中じゃ寒いからね。ホットワインを片手にマーケットを練り歩く楽しさは格別だぜ」年端のいかない子供が友達に自慢をするようにマックスは話してくれた。
店主にお金を払いコップ一杯のホットワインをそれぞれ頼んだ。大きな厚底の鍋から湯気が立ち上り、その中から真紅の赤い液体をすくいあげる。それを紙のコップに注いでもらった。紙コップは皮膚がヒリヒリするくらい熱いが、寒さの中だとその熱がとても心地よかった。コップから溢れるワインの香りは鼻をつくような強いアルコールの匂いがした。すぐに一口飲んでみる。口の中に活気が戻り、飲み込む際に食道が毛布に包まれるかのように温まっていった。数口飲むとアルコールが体全体を鼓舞し、寒さは一切感じない。心地の良い刺激によって気分は一層良くなり、マーケットの美しさもボリュームをひねったようにより鮮明に、美しく見えた。
「クリスマスマーケット、良いもんだろ?」
「すごいよ!こんな綺麗だなんて思いもしなかった。マーケットの活気が教会だけじゃなく、街全体を盛り上げてるんだね! 電光のオレンジ色が大聖堂を照らしているのは美しいよ」
「この教会もどういう目的で建てられたかはわからないし、もう使われていないんだぜ。記念品として残しておくために週に一回清掃してるんだ。そもそもこのマーケットも慣習で年に一回やってるものなんだぜ。面白いよな」
マックスの言葉が、ぼくにはすごく不思議に感じた。赤と白のファーがついた三角形の帽子にも意味はなく、ただ寒いから被るのだ。
「二五日の朝にはプレゼントが配られるっていう不思議なこともあるんだぜ。年の最後ってまったく素敵な季節だよ。きっと、一年の頑張りを誰かが見てくれているんだな」ホットワインを美味そうに飲みながらマックスが言った。
ホットチョコレート、マシュマロ、チュロス、プレッツェル、木彫りのクリスマスツリーや花の形をしたキャンドルなど、マーケットにはさまざまな物が売られている。店員はみんな笑顔で話しかけてくれ、お客さんを友達のように扱う。チュロスやチョコレートの甘い匂いが全体を包む。店を一つずつまわりマーケットを心から楽しんだ。どんなものにも大げさに楽しむぼくをマックスは満足そうに笑いながら案内してくれた。周りながらぼくはマックスに仕事のことや私生活を話した。特段面白いことは言ってないが、マックスは熱心に耳を傾けてくれ心の底からぼくの話を楽しんでくれる。ぼくもその反応に悪い気はせず、どんどん日常のことを話していった。
いくらホットワインを飲んでいても体は冷えてくる。ワインを飲み干し冷えを感じるたびにホットワインを嗜んだ。毎回マックスはぼくにホットワインを買ってくれる。もちろん、お金を出そうとしたのだが、止められてしまい、払えずじまいだった。ホットワインを買う際にマックスは店主にぼくの紹介をしてくれた。どんなことをやっていて、どこに住んでいるかなどを要領良く話してくれる。そのためか、ワインを買った後も店主と話しが終わらないことも多々あった。そして、マーケットの商品をいくつも見たが、とても気になった事がひとつあった。それはどの商品にも値段がないのだ。思い返してみればマックスはワインを買うときにお金を一切払ってなかった。ぼくはそれがクリスマスの習わしなんだと考えて納得をした。素晴らしい季節だ。
マーケットを周り終わるとマックスもぼくも歩き疲れていた。大聖堂の周りは予想よりも大きく、マーケットは入り組んでいた。
「マキシム、疲れたし一休みと行こう。近くにいいパブがあるんだ」
「それはいいアイデアだね。ぼくも少し疲れてきた。足を休ませよう」
「よしきた! それじゃ早速向かおう。二百年前からやっている歴史あるパブなんだ。そこのエールは世界一美味いんだ。きっとマキシムも驚くよ」
ぼくらは白く染まった街を再び歩いた。踏み固められた雪は硬くなり、太陽の光によって溶け出している。道の恥の排水溝は雪解け水が土と合わさり黒く濁って流れ出ていた。しばらく歩くとお目当てのパブに着いた。建物は屋根と日差しが黒と緑を合わせたような色で壁はクリーム色に塗られた小さな家のようだった。月日によって建物の均等は崩され、外からみると左側の屋根や壁がへこんで押しつぶされているようだった。台風などの災害があれば崩れそうなその建物は、時の残酷さと儚さを象徴しているようで、とても愛おしく感じた。四角い窓枠からはロウソクの光と暖炉から発せられる自然の光が漏れており、陽気な笑い声が中から聞こえてきた。
ぼくらは木製の厚く重い扉を押して中に入った。中は暖炉と人の体温で温かく、かじかんだ手がほどけるのを感じれた。マックスが一直線にカウンターまで行き、ぼくを読んだ。
「マキシムは何を飲む? おれは地元で作られてるペールエールを飲むよ。グレープフルーツのような香りと程よい苦味がたまらないんだよ! このエールはここだけの限定品なんだぜ」とマックスはウィンクをして話してくれた。
「じゃあ、ぼくも同じのを頼むよ。 お金はどうすればいい?」とぼくは尋ねたが、マックスは片手を横に二回振り、いらないよと信号をぼくに送った。
マックスはエールを頼む際にぼくの自己紹介を熱を込めてカウンターの人に伝えていた。従業員も熱心に頷きながら話を聞き、黄金色のエールをパイントの瓶になみなみと溢れるほど入れてくれた。泡がほとんどないその液体はりんごジュースのように見えた。なみなみと注がれているので、手に持った際に短く一口飲む。杯を口に近づけた時、穀物の香りと柑橘類の匂いが鼻を抜けていった。一口飲むと確かにグレープフルーツの香りが口いっぱいに広がり、その後に心地いい苦味が続いた。席に着くと乾杯をし、すかさず口一杯にエールを飲んだ。喉越しの良さと癖になる味がたまらなく良い。次々に口に運びたくなってしまい気がついたら既に半分なくなっていた。マックスもニコニコしながら飲み物をあおった。
エールを嗜みながら今日の出来事やぼくの過去を話した。暖炉の火と円形の瓶に入って静かで平和なロウソクが気分を和らげる。マックスはぼくの話に耳を傾けてくれるため、ぼくの生まれや育ち、半生を二時間ほどかけて話した。頷きながら、メモを取りながら聞いてくれるマックスは最高の聞き役だった。話していると喉が乾くので、話している間に三杯お代わりをした。マックスは飲み物を頼みに行くたびにぼくの話をカウンターの従業員に話していた。
気がつくと日は暮れて街は暗くなっている。ツマミもなしで飲み続けたこともあり、ひどくお腹が減っていた。マックスも同じようで、パブでご飯を食べることに決めた。ぼくは店員おすすめのローカルフードを頼み、マックスはフィッシュ&チップスを頼んだ。料理を頼む際にマックスがいつもの倍の時間をかけて従業員にぼくの話をしていたのが印象的だった。この街の人はみんな話好きが多いんだと感心をした。しばらくすると、エプロンを着た料理人が料理を持ってきてくれた。ぼくのメニューはウサギのビール煮込みだ。見た目が肉の塊のため説明されるまで何かわからなかった。マックスのフィッシュ&チップスは山盛りのポテトと手のひらサイズの大きな魚のフライがお皿の半分を堂々と占めていた。マックスは全体にお酢と塩をふりかける。振りかけたお酢の量が凄まじく、お皿に酢の溜りができていた。これがこの国の食べ方だそうだ。ぼくはウサギの肉をナイフで切り恐る恐る口に運んだ。これまで豚と鳥、牛しか食べたことないぼくにとってはウサギは挑戦に等しかった。肉はホロホロと柔らかく粘り気のある茶色のソースがよく絡んでいる。甘酸っぱくコクのあるソースが舌の上で踊り、肉は噛めば噛むほど味が口全体に染み渡った。美味い! 食感は鶏肉に似ているが、肉の味が濃い。酸味と甘みが上手く合わさったソースがウサギ肉とよく絡む。それをエールで流し込むと、天にも昇る心地だった。ご飯を食べてからもぼくらはパブに居続けエールをしばらく楽しんだ。店を後にした時には八時を過ぎていた。
外に出るとあたりは暗く街灯が白い雪を照らしていた。街のイルミネーションが光り輝き建物や街路路を彩っていた。昼とはまた違う美しさが街を包む。夜の静けさを光が音もなく照らす。崩れるのことない平和を街にもたらしていた。大聖堂は大きなクリスマスツリーとマーケットの明かりで一層綺麗だった。
街の中心街でぼくらは別れた。雪の積もった街路路はぼくの家の方角だけわだちがなく、こんもりと雪が積もっている。
「マキシム、ここでお別れだな。素晴らしい一日だったぜ。街を案内するのも楽しかったけど、マキシムについて知れたのが一番の収穫だったよ。お前の家の方角はあまり人が歩いてないようだから、帰るの大変だろうが、気をつけろよ。穴に落ちたり、滑ってレール頭をぶつけないようなな! また今度会おう。じゃあな!」
マックスと別れたあと、ぼくは新しく道を開拓するような気持ちだ家路についた。雪は深く、足を掴んでくるので、一歩一歩がなんと疲れることか! それでも歩き続けた。二十分ほど歩いて家の門まで辿り着いた。門の細いヘリにも雪が降り積もり、開ける時に冷んやりと冷たかった。やっとの思いで玄関を開けて、靴を脱いだ。ワークブーツは雪によってずぶ濡れになり、赤い色が濃くなっていた。雪の中を歩いてヘトヘトになったぼくはすぐさまソファに横になる。ホットワインとエールの酔い、そして心地のいい疲れにより、ぼくはたちまち温かい空間にのまれる。そして、ゆっくりと確実に沈んでいく。なんて素晴らしい一日だったのだろう。一日の体験を回想しているうちにぼくの記憶はプツンと切れてしまった。
次起きる時ぼくはどこに居るのだろう。そして、何をするのだろう。それを心配するのは今日のぼくではない。明日のぼくなのだ。心配はいらない。ただ白の街路路を目指して気の向くままに足を運べば良いんだ。