第九話 彼のいない世界
「美和さん、門叶美和さん」
呼ばれる声がしてはっと、美和は目を覚ます。
美和は辺りを見回す。病室に運ばれたのだと、美和は理解する。
看護師が美和の顔色を窺っている。
「目が覚めたのですね! 気分はどうですか?」
「大丈夫そうです」
「無理もないわ。ショックで倒れこんでしまったところを警察が見つけてくれて、ここに搬送されたのよ。丸一日意識がなかったのですよ」
「そうなのですか、ありがとうございます」
美和は段々と自分の身に起きた事を思い出す。
「そうか。私、遼太郎を助けようと電話して」
待って。そう言えば、遼太郎はどうなったのだろうか。
「遼くんは⁉ 大丈夫なんでしょ?」
「彼は、残念ながら……」
「嘘でしょ……」
「気を確かにしてくださいね。お辛いでしょうけれども……」
「りょ、遼くん……。なんでっ、なんでっ」
嘘だ。遼太郎が死んだなんて。きっと悪い夢だ。
「ねぇ、嘘でしょ? 嘘なんだよね? 遼くん……。遼くんを返してよっ‼」
「お気持ちはわかりますが、こればかりは」
どうしようもなく胸に込み上げる感情を抑えきれず、美和は只、その場で泣き崩れるしかなかった。
悲しい。悲しくて仕方がない。このやるせない感情をどこへ向ければいいのだろう。
どれだけ時間が経ったのだろうか。辺りは暗くなっていた。
美和は真っ白なシーツと布団の間でうずくまり、目覚める。
どうやら泣き叫び疲れて、再び眠ってしまったようだ。
ゆっくり体を起こし、美和は辺りをぼうっと眺める。化粧用の折り畳み鏡に自分の顔がうつる。未だに目は赤く、頬には涙の渇いた跡が残っている。
当然、隣に彼はいるはずもなく。
「ああ、そうなのかぁ。やっぱり、そうなんだね」
美和の思考回路は停止してしまった。魂が抜けたような目で口をぽかんと開け、外を眺める。
曇り空。しとしと雨が降っている。ひんやり冷たい病室の空気。外灯の光が仄かに窓際を照らす。
雨音に紛れてドアをノックする音が聞こえる。間もなく、ガラッとドアが開く音と足音がした。
もしかしてと淡い希望を胸に美和は振り返る。が、そこには眼鏡をかけた体格の良いインテリ系の中年男が立っていた。
「失礼します。門叶美和さんでしょうか?」
予想が外れ、意気消沈。
答える気力のない美和は無言で頭をこくりと縦に振って頷く。
「あっと、これは失礼。私は朝霧署の御法川と申します。今回の件につきましてお話を……。お時間を頂けますか?」
自信無さげに御法川は「では」と話始めようとしたが、美和は目を伏せて、俯く。
その様子を見て、
「あの、大変失礼致しました。時期早々ですね。近親者である美和さんに状況報告をしたいと思っていたのですが、日を改めさせて頂きます」
と、御法川は名刺を机に置くと、申し訳なさそうに病室から出て行った。
雨が降り続く。とても静かな病室。空白の時間が過ぎていく。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「おい、御法川。彼女の様子はどうだった?」
少し強面な男が御法川を呼び止めた。
埼玉病院の玄関前で、壁に寄り掛かり、雨降る空を見上げながら煙草を吸っている。
「はい、楠さん。相当落ち込んでいるようで、心ここにあらずといった感じでした」
「そうか」
ふうと、楠は煙を吐き捨てる。
「でも、この状況を早くお話しないと。なんせ報告によると、駆け付けて死体を見つけてから彼女を病院に搬送する手配をしていた一瞬の間に、死体が消えてしまったそうですし。こんな事ってありえるんですか?」
怪奇現象じみた案件に御法川は疑問を抱き、身を乗り出して楠に尋ねる。
「まぁ、落ち着くんだ。現場にいた俺も正直驚いていてな……。何かのトリックか、それとも幻覚だったのか」
楠は煙草を携帯灰皿ケースに詰め、話を続ける。
「今は自殺と見て処理するしか手がない。幸いなのかわからないが調べによると、当事者の家族である祖父母と両親は既に亡くなっているとのこと」
「つまり、彼は独り身だったと」
楠は灰皿ケースをポケットに入れ、腕組みをする。
「どうやら、その様だ。学費を稼ぐために高校生からバイトをして生活していたと伺っている。相当金には苦労していたようだな」
話を聞いて、気まずそうにする御法川。
「それを彼女に伝えるのは、流石に楠さん、酷なのでは?」
「これも仕事だ。然るべきタイミングで話すしかないだろうな」
御法川は目を瞑り、面倒くさそうな表情で頭を掻く。
「彼に合わせてほしいと懇願されたらどうするんですか?」
「彼女には悪いが諦めてもらうしかない。埋葬の偽装もこちらで手を回してある。何とかこの場を凌ぐ他ない」
楠の準備の良さに御法川は驚きながらも、残酷な対応しかできないことを気に病む。
「お気の毒に……。まともなお別れをすることもできないなんて」
楠は目を瞑ると、幾度もの修羅場を潜り抜けて知っているかのような雰囲気を漂わせ、惨い現実を嘆く。
「御法川。思っている以上に現実は理不尽だ。お前もいずれ分かる時がくる。どう足掻いても、どうしようもないものはあるんだ」
楠は再び煙草をくわえ、火を付けようとジッポライターを顔に近づける。
御法川は楠の隣に立つと、すっと手の平を楠の顔へと伸ばす。
「お、気が利くじゃないか」
透かさず御法川が一言。
「警部。ここ、禁煙です」
御法川はくわえ煙草を抜き取り、楠に手渡す。
楠は黙って煙草をしまうと、ポケットに手を突っ込んで傘も差さずに雨の中を歩きだす。
「濡れちゃいますよ!」
御法川は傘を差し、楠の傘を持って後を追いかけた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それから二日が経った。三月六日。
美和は退院することとなり、御付きの者が迎えに来る。午後には家に帰ってきていた。
三日前に家を出た時のままの部屋。どれにしようかと悩んで選んだコートがベッドに置かれたままになっている。小さな机の上にはヘアカタログの本とバッグの雑誌が乱雑に開かれて置かれている。
ハンドバッグから化粧用の鏡を取り出して机の上に置くと、美和はベッドに座り込んだ。
鏡に自分が映る。美和の目は今日も輝きを失っている。
自分を見るのが辛くなり、くしゃくしゃな顔で美和はそのままベッドに寝転がる。
「こんなにも、生きる力が湧いてこないことってあるんだ」
と、美和は独り言をつぶやく。
しばらくして、唐突に呼鈴が鳴る。
美和は無言でゆっくりと起き上がり、インターホンを見る。
先日の御法川と、もう一人上司のようなベテラン感を匂わせる男が玄関前に立っている。
美和は階段を降りて玄関の扉に手を掛ける。大きな洋風の扉を開け、彼らの顔を見上げる。
「お世話になっております。先日お話できなかった続きをと思いまして」
御法川は丁寧に挨拶をする。
「あ、はい。どうぞ、中へ」
美和は中へ招き入れようとするが、
「いや、結構です。手短にここで話しますよ、美和さん」
と、男が口を開く。
「申し遅れました。私は楠と申します。今回の事件を管轄しておりまして……」
と、楠は美和が意識を失った後の状況を語り始める。
彼が独りで生きてきたこと。
お金や仕事で日々苦しんでいたこと。
司法解剖の結果は窒息死。死亡推定時刻は三月二日の夕方頃で。
その後、身寄りや喪主がいないために、和光市によって火葬が行われ、既にお墓へ納骨されたこと。
楠の話は美和にとって、驚くことばかりだった……そのはずなのに。それに驚く反応すらできず、会話が耳から抜け出ていく。美和は弱々しく、只々話を聞いては頷く。
「以上が幻中さんの現状です。突然多くの事が起きたので、お気持ちをお察しいたしますが。どうか、ご無理をなさらずに……。この度は、ご愁傷様です」
「――彼は」
美和は口を開き、
「遼太郎は……。安らかに逝けたのでしょうか」
と、続ける。
「……」
楠は返す言葉が見つからない。
美和は不安げに二人を見つめる。
御法川が空気を察し、「ええ」とだけ答える。
「それでは我々はこれで……」
と、楠は帰りを促す。
「お時間を取らせてしまいました。失礼致します」
御法川は頭を下げる。
そのまま二人は階段を降り、玄関先のロータリーに停めた覆面に乗り込んで去って行った。
美和は見送るまでもなくガチャっと扉を閉め、階段を昇り部屋に入ると、鍵を閉めてベッドに寝転がる。うつ伏せになって、咽び泣いた。まるで心が壊れてしまったかのように。
彼の名前を連呼する。返事が返ってきてほしいと美和は懇願する。
「遼くん、遼くんっ、遼くんっ‼」
当然のことながら、シーンと静まり返る部屋。無残にもその願いは打ち砕かれる。
「あ~ダメだ……ダメだなぁ、私って。もう笑い方すらわからなくなっちゃった。遼くんがいないとこの先、笑えないよ」
もう一度だけでいい。逢いたい。もう一度だけ、やり直せるなら……。
彼を失うくらいなら、自分がどうなったっていい。
「本当にそれでいいの?」
どこからか声が聞こえた気がして飛び上がる。自分の心の声だろうか。それとも幻聴だろうか。
美和は自分の頭が可笑しくなってしまったのではないかと救急車を呼ぼうとスマホを手にする。
「あ~もう! 陰キャラは私の方なんだから、シャキッとしなさいよ!」
「えっ! 何⁉ 何なの⁉」
驚きのあまり、美和はスマホを落とす。
明らかに聞こえる声。聞き覚えのある声。周りを見回すが、誰もいない。
「怖い。怖いよ、遼くん」
美和はガクガクと手足を震えさせ、壁の隅に縮こまる。
「何ビビってんのよ! 鏡をよく見なさい!」
箪笥の辺りから聞こえてくる。姿見からのようだ。
恐る恐る鏡を見ると、涙を溜めつつも、力強い目をした美和が映る。
美和は只の反射だと思った。が、ふと机に置いてある手鏡が目に入って驚く。
そこには、先程まで見ていた弱々しい目の美和が映っているではないか。表情の違いを見比べ、美和は言葉に詰まる。
「えっ……。何?」
再び姿見に近づき目をやると、鏡が口を動かし喋り出す。
「ぐずっている暇なんてないんだからね! 良い? 目の前の私と繋がりたいって意識するの! わかった?」
「えっ、あっ、はい」
驚く間もなく、強引に鏡に誘導された美和は言われる通りにする。
「ほら、さっさとする! 声に出して続けて唱えて!」
「え、どういうこと?」
「いいから早く! さんはい。接続!」
「こ、コネクト~」
次の瞬間、部屋中が光に包まれる。目の前が真っ白になって何も見えなくなった。