第八話 絶望の演技
入れ替わり鏡も洗面所の鏡へと変形する。が、明らかに鏡だけ異様な気配を感じる。
鏡の本質を保つとはそういうことかと、遼太郎はこの現象を理解する。
歪みが収まり、見慣れた風景が現れる。遼太郎の住んでいるアパートの洗面所だ。
鏡界側に現れた空間は、現実の間取りとは逆になっていた。慣れないと間違えそうだ。
鏡人が鏡前に現れる前に少し練習をと思い、遼太郎は近場のものを触ってみる。
ドアを持つ手も普段の癖で右手が先に出てしまう。扉の開く方向も逆で混乱する。
癖がついている方向に進もうとすると目の前に壁が出てきて顔をぶつける。
「あいったー。もう嫌だ……。早くお家に帰りたい……」
遼太郎は情けなくも、泣きそうになる。が、辛抱する。失敗はできない。
間違えれば消滅してしまうことに遼太郎は怯える。
先程見た台本を必死に思い出して、ブツブツと独り言。整理する。
「予言時間は、八時十三分十五秒。洗面所。セリフはない。左手でドアを開け、左足から前に出る。そのままの流れで左を向いて鏡に映り、右手でコップを掴みとる。コップに入った歯ブラシを左手で手に取る。歯ブラシを持ったまま、上下式の蛇口を左手で上にあげて、それから水に歯ブラシを当てて濡らし、コップにも水を入れて、そのまま蛇口脇右側にコップを置き、その隣に置いてある歯磨き粉を右手で取って……。あーもう。何で歯磨きごときにこんな苦戦しているんだ、俺は。右利きだから、左手でブラシ持つのスゲー不便だし!」
時計を見る。勿論逆向きだ。何時を指しているのか、わからない。
「もう嫌だ。お家帰りたい」
丁度、数字の二のところに長針がある。後三分は時間がある。
こんなに緊張する三分は人生で初めてだ。
遼太郎はブラッシングの練習をしているかのように見せかけて、震える手を誤魔化す。
そうこうしている内に、三分があっという間に過ぎ、カウントダウンが始まった。
映像撮影の前にカウントするような感じで、機械的な声のアナウンスが流れる。急いで持ち場に移動する。
「本番五秒前。——三、二、一」
ガチャっと扉の音。遼太郎も合わせて左手で扉を開く。
足音がしたのに合わせて、左足を前に出す。少し出遅れたが、大丈夫のようだ。
扉が閉まり、鏡の方向に足を進め、鏡人が鏡を見つめる。
一瞬、間取りの癖で右側を向き、背を向けそうになる。何とか堪えた遼太郎は左を向き、同じように鏡を見つめる。鏡人は鏡前で吹き出しそうになるのを誤魔化し、微笑んだ。
こんなの台本にないぞと、アドリブをぶっ込んで来た鏡人に遼太郎は苛立つ。
鏡人はどんどん動き始める。遼太郎は頭の中でつぶやきながら、真似をする。
右手でコップ、歯ブラシ左手。そのまま左で蛇口、水を出して濡らす。
コップに水を入れ、脇に置き、左……ではなく、右で歯磨き粉。チューブから出して左手でそのまま磨く。
鏡人はぎこちない遼太郎の動きに笑いを抑えているのか、プルプルと震えながら歯磨きをする。
後で覚えていろよと、遼太郎は更にイライラする。
右の下奥歯から前歯への流れで、ぐるっと一周。今度は、前歯から奥歯への流れでぐるっと一周して歯を磨き、吐き出す予定。
そう思った時、鏡人がいきなり顔を下げた。
このタイミングで吐き出すのかよと、遼太郎は焦って吐き出す。
少し飲み込んでしまった。完全に出遅れた。
「只今の動きは現実者が鏡を見ていないので、セーフとします。ご注意ください」
管理者からのアナウンスが入る。
遼太郎は胸を撫で降ろしたい状況だったが、心の中でその行動を消化する。
吐き出して間もなく、鏡人は顔を上げそうになった。が、こちらが遅れたのを察したのか、少し頭を上げるのを抑えていた。それに気づき、遼太郎は鏡人に合わせる。
コップを手に取り……。右手だ。口に含んでガラガラとうがい。これを二回。
吐き出したら、コップを手にしたまま蛇口を上げる。
コップをゆすいでこぼし、歯ブラシを左手でゆすいで、コップの中に入れる。
そのまま右手で、蛇口脇にコップを置いて、最後にニッと歯をむき出しにしてチェック。
外開きのドアなので、少し後ろに下がって、右手でドアを開けて中に入る。
遼太郎は最後、ドアへの入り方が若干飛び込み気味になってしまった。
「以上で終了です。お疲れ様でした」
アナウンスの声が聞こえると、周りが歪み始める。鏡が元の形へと戻る。
「お、終わった」
「あら、お帰りなさいませ、ご主人様」
ソフィアが着替えを持ち、出迎える。
「ありがとう、ソフィアさん」
「ソフィアさん? 他人行儀ですわねぇ」
「そ、そうかな……。ソフィア」
「やっぱり、どこかお身体が優れないのでは? ご主人様らしくありませんわ。それと今日の結果ですが……」
「けっ、結果?」
評価されているとは知らず、遼太郎は先程の出来具合を案じて、固唾を呑んで待つ。
監視用ドローンがソフィアの傍に降りてきた。空間に馴染んでいたせいか、遼太郎はそれが浮遊していたことに、今まで気がつかなかった。ドローンにはポラロイドカメラのような取り出し口がついている。そこから成績表が出てきた。
ソフィアはそれを片手で受け取って、内容を見るなり、咳払い。内申点が悪い子供を叱る母親のような目でこちらを見る。
これはヤバいと、遼太郎は瞬時に察知して後ずさりする。
「本当にご主人様らしくありませんわ。生活態度は不真面目でも、真似だけはいつもフルスコアで、きっちり仕事はなさるのに。今日は、遅れが目立っておりますの。下手をしたら、鏡の存在が現実側にバレてしまう程に……。これは一大事ですわよ!」
ソフィアは青ざめた顔で、スコア票をプルプル震わせて見ている。いや、これは見ているのだろうか。ソフィアの目の色はくすみ、焦点が合っていない。
「だ、大丈夫だよ。きっと今日は調子が悪かっただけだよ。寝ればきっと治るさ!」
「そうかしら……。何か私にできることがありましたら、何なりとお申し付けくださいまし。私が直ぐにでも駆け付けますの!」
「お、おう。わかった、わかった。少し休むから、席を外しておくれ」
「畏まりましたわ。それでは」
ソフィアは成績表を凝視しながら、「どうしましょ、どうしましょ」と独り言を言いながら、大広間を後にする。
「……危なかった」
遼太郎は安堵の声を吐き出す。
失敗したら即ゲームオーバーみたいなこの世界の仕組みに遼太郎はうんざりして、ソファーにもたれ掛かる。成績表を見せて貰っていないので、点数は定かではないが、ソフィアの表情から察して、真似具合は危険レベルだろう。
しかも、ソフィアの感じから察して、自分が現実の人間だと鏡人は話していないようだ。迂闊に、自分の存在を明らかにしてしまうのは危険だろう。
気が抜けないのですがと、遼太郎はため息をつく。
「はぁ……、早くお家帰りたい」
「あははは。やっぱ傑作だわ~」
鏡から声がする。鏡人だ。
「下手くそすぎるだろ、あはははは。大丈夫か? 遼ちゃんこのまま行けば、消滅するぞ」
「演技台本にない動きしただろ。危ないところだったんだぞ」
「はて、何のことやら」
鏡人は遼太郎から目線を反らし、知らないふりをする。
が、途中で耐え切れなくなったのか、表情が緩みだし、愉快げにクスクスと笑う。
「だって、面白いんだもん。突然予定にないことをした時の困った遼ちゃん素振りや表情がさ。鏡の気持ちが少しはわかっただろ?」
おちょくられていることに遼太郎は腹を立てる。
「こっちは生死が関わっているんだぞ!」
「まぁまぁ、バレない程度に上手くやったんだから堪忍してくれ。俺のフォローで死ななくて済んだんだぜ。良かったじゃん。次回はヘマしない様にな。頑張れよ、新人」
「誰のせいだ。まったく……」
鏡人はまるで今思い出したかのような素振りで、口を開く。
「ああ、それと言い忘れたけど、ソフィアっていうメイドが家にはいてね……」
「知ってるよ! 『入れ替わり』の事を何も話していないだろ!」
話を遮って、遼太郎は入れ替わりの準備が杜撰なまま行動を起こした鏡人に感情的になって吼える。
「そりゃあそうさ。話せるわけないよ。法則の二を忘れたのかい?」
「法則の二。演技時間、及び、鏡界内で鏡の存在を現実者に知られてはならない。上記を破った者は現実者、黙認者をも含み、後日消滅の運命をたどる。だったか?」
「よく覚えました!」
鏡人は少し馬鹿にして、遼太郎に拍手を送る。
遼太郎の怒りは更に高まるが、お構いなしに鏡人は話を続ける。
「それに、法則三。鏡人は世界の橋渡し的存在でもある。何人も公正な立場でなくてはならないのだよ。彼女がもし事実を知ってしまったら、間違いなく管理者に報告するだろうね。真面目ちゃんだし」
遼太郎は頭を抱える。容赦なく鏡人は、遼太郎を追い込む。
「干渉がNGなのはもちろんのこと、法則四も影響する。鏡界での異変が起きるとバランスを保とうとして様々な世界に大きく影響を与えてしまう。その原因が目の前にあるのに黙っているってことは、自ら命を絶つのと等しい行為だ。法則二に『黙認者』ってのもあるしね」
「なっ……んだと……」
「まぁ、俺は最初から排除されることを前提で動いているんだから関係ないけど? そうまでしても、不幸になりたいんだよ」
「……」
遼太郎は血の気が引き、怒りは冷め、言葉を失う。一方で、鏡人はお気楽に現実の感想を述べる。
「数時間しかまだこの世界に居座っていないけどさぁ? 実にいいね! 皆死んだ目をしているよ、ははは。まるで、今の遼ちゃんみたいだよ」
相当ヤバい状況に陥ったと、今更ながら遼太郎は悟る。
「誰にもバレちゃいけないのか? そんなのできるわけないだろ! 来たばかりで右も左もわからないのに、お前のせいだろ?」
鏡人は正論で切り返す。
「分かりきったことだね。ここに来る前に命を賭ける交渉だと言ったはずだが? まぁどちらにせよ、全力で生きなければ、遼ちゃんには自分の死か、彼女の死のどちらかの運命が訪れるということだ。だけどよぉ、全力で生きるのは現実と何も変わらないと思うが? どうなんだい?」
ああ、なんてこった。こんなことになるなんて。
一方的に遼太郎を追い込んだ鏡人は、気楽に不幸を楽しんでいる。その一方で、幸福な暮らしができると提案されたはずなのに、バレないよう肩身の狭い思いをしながら生き伸びなければいけない状況に遼太郎は悲観する。
『彼女の為』とか、『受け入れる』とか、『俺には何も残っていない』とか。それらは全部、格好つけしただけだ。いざ自分の死が目前に迫ると、こんなにもちっぽけなのかと、遼太郎は自分の意志の弱さに情けなくなる。
「まぁ、動揺するってことは、余程舐めて人生やってたってことだよ、遼ちゃん。どこの世も、生きるか死ぬかの真剣勝負だ。生きることが当然すぎる世界で平和に生き過ぎてるんだよ。そういう状況下に陥って、遼ちゃんは何を見つけ、何のために全力で生きるんだろうな? 見ものだな」
鏡人は冷淡無常な声色と表情で遼太郎に言い放つ。
「うるさーい‼ 黙ってろ、このクソ鏡‼」
遼太郎は感情を抑えきれなくなって大声で怒鳴る。
やり場のない感情を吐き捨てたところで不安は拭えず、鏡人の言葉が重くのしかかる。
毎日生死が隣り合わせの生活。これじゃ戦時中と変わらない。想像しただけで吐き気がする。
油断とかの世界ではない。気を張り詰めなければ死ぬ。
汗が噴き出て止まらない。そわそわして、手足は常時震え、落ち着かない。
バクバクと心音が聞こえる程、脈打つ心臓。目をキョロキョロと動かし、明らかに挙動不審になる。遼太郎はプレッシャーに押しつぶされ、精神を病みそうになる。
どう生きれば切り開けるのだろうか。わからない。
遼太郎は目を瞑って、震える手を組み、祈る。誰か助けてくれと。
当然ながら、誰からの返事はない。もういっその事、死んだ方がいいのか。
「そういうことでしたの。通りで……」
背後からキィっと、ドアの軋む音と共に声が聞こえた。
絶対に聞かれてはいけない人の声と口調。
遼太郎は耳を疑う。嘘であってほしいと願わずにはいられない。
先程より心拍数が更に上がったのがわかる。バクバクと跳ね上がりそうな心音が聞かれてしまうのではないかと遼太郎は焦る。お願いだから静かになってくれと、息をひそめる。
後ろから鋭く突き刺さるような視線を感じ、恐怖で振り向けない。
顔までが恐怖でガクガク揺れ始めた。どうやら詰んでしまったようだ。
鏡を見る。鏡人が冷や汗をかき、目を瞑って顔を横に振る。
「いやぁ、まいったなぁ。どうやらここまでのようだな。悪いな、遼ちゃん」
鏡の角度を変えてドアの方を映すと、そこにソフィアの姿があった。
右手にスマホを持っている。そのまま、耳に当てる。
「あ、どうも。ソフィアですわ。緊急事態ですの。今直ぐに来てもらえるかしら」
スマホを切って、惰性でそのままだらりと手を下ろすと、目に留まらぬ速さで遼太郎の背後に迫る。
一瞬だった。鈍い衝撃が後頭部に伝わると、遼太郎の体は大きな音を立てて床に叩きつけられる。
遼太郎の視界は、真っ暗闇に包まれた。