第二話 唐突な出会い
間違ったことを言ったつもりはない。
全ては奴らが勝手に奪い、勝手に起こしたことだ。その渦に巻き込まれ、意見したことに反感を買い、悪者として扱われた。そして、議論をされる間もなく、即日で任を解かれた。
何をしたって言うのだろうか。今までの努力は一体何だったのだろうか。
苛立ちと悔しさと無力さを吐き出したい。もういっその事、全て忘れて開き直りたい。
ところが、現実は逃避を許さない。
運悪く五日後は諸々の支払いがある日なのだ。
クビだから給料も支払われないだろう。目の前が真っ白とはこのことを言うのか。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
近くで優しい声がする。愛らしい声がする。このまま天に召されるのだろうか。
「お兄ちゃん、聞こえてますかー?」
お兄ちゃんというこの響き。堪らない。聞きなれていないワードだからだろうか。
二十五歳独身、勿論子供はいない。妹もいない。
お兄ちゃんと言う言葉がこんなにも心を揺さぶるなんて思いもしなかった。
生きてきて良かった。ありがとう……神様。
遼太郎は傾けていた体を起こす。
顔を上げるとピカピカのランドセルを背負った小学校二年生ぐらいの女の子が眉をひそめて遼太郎の様子を伺うように見つめていた。さらさらとした黒髪が風でなびく。髪を耳にかける仕草をすると思いきや、耳に手を当て、首を傾げてこちらの返事を待っているようだ。
遼太郎はその仕草に少しドキッとしてしまった。半面、どこか懐かしい感覚もあった。初めて見る子なのに、懐かしいと感じるのは何故なのかはわからなかった。この動揺、胸の高鳴りは一体何なのだろうか。やはりどこかおかしいのではないか。仮に小学生にときめいているのであれば、ロリ・ショタコン確定で、お縄だろう。ただ、素直に今の感想を述べろと問われたら、「小学生、可愛い、可愛すぎる」と間違いなく答えるだろう。
ランドセルには金龍のお守りがぶら下がっていて、揺れる度に鈴の音が心地よく鳴っていた。シャーンという少し神聖な感じの音色。空気が澄み渡っていくような気がした。龍の手には小さな鏡が付いている。
「う、うん。聞こえているよ」
遼太郎は女の子の姿に見蕩れ、少し返答が遅れてしまった。それ程、神懸った麗しさを感じる。
落ち着こう。平常心、平常心だ。日頃培った営業スマイルの出番だ。
遼太郎はどこか嘘のあるぎこちない微笑みをする。
「あっ! こっちむいてへんじくれた! やったー!」
近頃の子供はこんなことで喜ぶのか。
「落ちこんでいるお兄ちゃんにはこれ! はい!」
突然のことに驚きながらも遼太郎は、女の子の着ていたパーカーのポケットから出てきたものを両手で受け取った。手渡されたのは、温かい缶コーヒーだった。秘密道具かと遼太郎は思った。
「大の大人が子供からこんなもの貰えないよ」
「かごめからのプレゼント、受け取ってくれないの?」
かごめという女の子はぐすんと涙ぐむ。目をウルウルにしてこっちを見つめてくる。
遼太郎はあまりの可愛さに悶絶し、心の中で狂喜の声を上げた。
これはやばい。可愛すぎる。遼太郎は思わず恍惚とした表情になってしまう。
この状況をずっと維持していたいと不覚にも思ってしまった。
しかし、ここでかごめに泣き出された時、社会的な詰みを向かえてしまうだろう。真っ先に奥様方に通報されるかもしれない。ふと遼太郎は後ろを振り返る。やはり奥様方はこちらの様子を注視していた。
「せ、せっかくだし……貰おうかな」
少しグズリながらも、かごめは涙を腕で拭って再度尋ねる。
「ほんと?」
「うん」
「ほんとに、ほんと?」
「本当だよ!」
先程までの涙はどこに行ったのか、かごめの表情に笑みが戻る。
「よかった~!」
「子供にはコーヒーはまだ早いし、苦いからね」
女の子からのコーヒーを断る男がいるのだろうか。否。それは男ではない。
「あ、でも、お金はお兄ちゃんがきちんと払うよ」
「うん、わかったよ、お兄ちゃん」
泣き出さなくて良かったと遼太郎は汗を拭う。
財布から小銭を取り出すと、遼太郎は律儀にかごめに手渡す。
「はい、どうもありがとう」
「まいど~、受けとりました~。へへっ!」
貰った缶コーヒーの口を開けて啜る。黒液が寒さで冷え切っていた身体を温めていく。
飲み始めて気が付いたのだが、無糖ブラックだった。甘くない。
「うっ、ありがとう……」
かごめの気遣いに思わず、目に涙が溜まった。コーヒーを飲み干すように上を向いた。が、雫が頬を伝う。
「あっ! お兄ちゃんないちゃった!」
かごめは慌てふためく。
「えっと、えっと、どうしよー! にがかったのかな?」
遼太郎は涙をスーツで拭うと、かごめの目を見て、優しく返事をする。
「大丈夫だよ。苦くない。美味しいよ」
「そうなの?」
「うん、心配してくれたんだね。ありがとう」
「ほんとうに? どこかいたいとかあったりしない?」
「大丈夫。お兄ちゃん嬉しくて泣いちゃったんだ」
「それなら良かった~」
かごめはニコッと微笑んだ。マジで天使じゃないのかと、遼太郎は自分の今いる世界を疑ってみる。身体をつねってみるが痛い。紛れもなく現実だ。
「あのね、お兄ちゃん、元気なさそうだったから声かけたの」
かごめは遼太郎にお話を聞いてもらいたいかのような口調で話を始める。
「そう見えたのかな?」
「うん、かごめね、しんぱいしたんだよ」
「そうかぁ、心配させてごめんな」
「かごめもね、ときどきここがね、きゅーっていたくなることあるからね」
かごめは胸のあたりを手で押さえて、目を瞑った。
「うん。それで?」
「だからね、そういうときは、いたいのがとんでいくおまじないするんだ~」
「そうなんだ~」
かごめはこくんと頷く。
「うん、いたいのとんでけーって」
「そうすると元気になるの?」
「そうだよ! でね、お母さんがえらいね~ってごほうびにジュース買ってくれるんだよ」
ジュースの味を思い出しているのか、かごめはよだれを垂らしそうになる。とっても嬉しそうにふんふんとハミングして、体を揺らしている。
一方で遼太郎は、かごめのご褒美が飲み物だからコーヒーなのかと、独りで納得する。
「お兄ちゃん元気になった?」
遼太郎が思考を巡らす様子を見て、唐突にかごめが尋ねる。
「うん、おかげで元気になったよ!」
「元気が一番! きっと、いいことあるよ!」
目をキラキラさせて、かごめはサムアップする。
「そう言ってくれると、お兄さん嬉しいな、ありがとう」
遼太郎は深々と頭を下げた。
「えっへへー、どういたしまして。じゃあ元気でねー、お兄ちゃん」
そう言うと、かごめは公園の入り口へと駆けていった。入口手前で振り返り、かごめは大きくぶんぶんと遼太郎に向かって手を振る。遼太郎もかごめに向かって軽く手を振った。
かごめがくるっと振り返えると、ランドセルがキラキラと光る。鈴の音がシャーンと鳴った。きっとあのお守りだろう。かごめはそのまま道に沿って駆けて行く。
まさか二十五歳にもなって、女の子に心を救われるとは思ってもみなかったと、遼太郎は女の子の顔とやり取りを思い出していた。かごめ。良い響きだ。でも、聞きなれない名前だ。だからだろうか。遼太郎には何かが引っ掛かるような感覚があった。こんな状況下で出会ったのは何か意味があるのではないか。
小学生離れした神々しさと言い、不思議な感覚があったが、
「まぁ、いいか」
と、遼太郎は考えるのを辞めにした。
子供を詮索するのは性に合わない。いつもは気が済むまでとことん追求する派だが、今日はどうもそういう気にはなれなかった。
遼太郎は気持ちを入れ替えると、缶コーヒーの最後の一口を惜しみつつ啜り、余韻に浸る。
香ばしいコーヒーの香りと『お兄ちゃん』ワードが蘇り、自然と笑みがこぼれた。
ズキッとまた痛い視線を感じる。かごめとの一部始終を見ていた奥様方が引き気味でこちらを見ているではないか。遼太郎は慌ててカバンと空き缶を手にすると、すぐさま公園から飛び出した。
大通りに出た。車の通りが激しい。普段は下車することもなく通り過ぎる地域だ。当然土地勘はない。適当な道を歩き続けると、偶然にも通勤圏内の小竹向原駅の入り口が目に入る。公園から駅までは約二キロある。上板橋駅から考えれば、相当な距離を歩いていたことになる。
道中、遼太郎は人生の再設計を企てていた。かごめに癒されたとはいえ、無職と化した現実を忘れる程、愚かではない。
初めは景色を見る余裕が遼太郎にはあった。だが、仕事をする人々を見かける内に、思考は再就職の事で一杯になる。それからは景色の事をまるで覚えていない。
遼太郎は改札を通り過ぎて、階段を下る。
「少し疲れたな。座れそうなところは……」
遼太郎は地下ホームにあるベンチを見つけ、腰を掛ける。
リラックスしたからか、ふいに彼女である美和の顔が脳裏に浮かんだ。
彼女に事の顛末を言うべきか。勘が良い美和は、直ぐに何かを察して聞いてくる。心配はさせたくないが、この状況を騙し続けるのは時間の問題だろう。
しばらくすると、ゴーッという地響きが聞こえてくる。真っ暗なトンネルからライトが顔を出す。勢いよく通り過ぎた電車と共に、強風が遼太郎の身体をまとうように吹き付け、通り過ぎる。
だが、髪はびくともしない。ボサボサというか、剛毛というか。モフモフな天パーが揺れたら、それは千年に一度レベルの強風だろう。
目の前に鉄扉と降車する客が現れる。扉が開くと、遼太郎は流れに沿うように電車に乗り込んだ。
結局のところ、人生についてあれこれと考えても結論を見出すのには時間が足りなかった。間違いなく言えること、それは今できるベストを尽くす。ただそれしかなかった。
次第に考えることもしなくなり、地下から地上に出た電車の窓から見えるオレンジ色を遼太郎は呆然と眺めた。