第十九話 鏡人の心
「とりあえず中へ!」
ボロボロになったアパートの扉を開いて、鏡人の美和が手招きをする。直ぐに中へと遼太郎は飛び込む。ここまで戻るのに、三日もかかってしまった。男達を撒くのに物陰に隠れながら夜を明かし、慎重に足を進めていたからだ。
「危なかった……。何とか巻けたみたいだな」
「油断はしていられない。ここも直ぐに足が付く。遼太郎、鏡は持ってきたか? それで、現実と交信するぞ」
遼太郎は、ポケットから手鏡を取り出して見せた。
「持ってきているとも! それで、どうするんだ?」
「アイツからは何も聞いていないのか?」
鏡人の美和は首を傾げる。
「そういう奴だったからね……」
「アイツ、肝心なことを説明せずに交渉したんだな……。ったく」
鏡人の美和は面倒くさそうな表情で頭を掻く。
「えっと、私は鏡界にも現実にも存在しているのはわかるよな?」
「美和と鏡人の美和の二人のことだろ?」
鏡人の美和がムッとする。
「その、鏡人の美和って言う言い方、止めにしない?」
「まぁ、美和と被るし、区別するにはいいかもな。で、何が良いの?」
「それはアンタが考えなさいよ!」
自分から言っておいて何だそれはと、遼太郎は少し苛立つ。
「じゃあ、『鏡の子』だから、キョウコでどうよ?」
「アンタにしては、良い名前じゃない」
まさかの反応に、遼太郎は拍子抜けする。
「気に入ったんだ」
「まあまあね」
キョウコは少し顔を赤くして照れる。
「で、キョウコさん。話を戻すけど、鏡はどう使うの?」
キョウコはコホンと咳払い。
「対象となり得る鏡と対象者二名の接触と同意があれば、行き来できるようになるわ」
「対象となり得る鏡って何か条件があるのか?」
「条件って程ではないけど、関わりが必要よ。要は、『思い入れの深い鏡』ということね。現実の美和にとって大事な鏡が接続先になるわ。後は、繋げた鏡以外から出入りできない事かしら」
鏡人がいなくなった自分の場合はどうなるのだろうかと、ふと、遼太郎に疑問が湧く。
「仮初の存在となってしまった人は?」
「条件に合わず、行き来できないわ。別の人間が契約して、その人を介すれば移動ができるようになる。『入れ替わり』と言われる所以は、二人が揃わないとできないからなの」
「ってことは、今は美和とキョウコが頼りってことになるな」
「そう言うこと。だから私の家に来たのよ」
ふと、遼太郎に新たな疑問が生まれる。
「美和が契約者になるってことは、今後俺の意味ってあるの?」
「ぶっちゃけると、ほぼない」
「え?」
キョウコがニヤッと笑う。
「あると言えば、『契約者』と『所有者』の違いかな?」
「所有者が俺で、契約者が美和?」
「遼太郎のくせに、察しが良いねぇ。そういうこと~。本来は二人とも同じ人が抱えるはずだけど、遼太郎はまだ死んでないから」
「死んでないって、人聞き悪いなぁ」
遼太郎の顔が曇る。
「でも、遼太郎がいないと美和は動けないんだから、一心同体って奴だね」
キョウコのそれを聞いて、俄然元気が出る遼太郎。
「俺がいないと動けないって、頼られている感半端ないなあ」
「ふふふ。ちょろいな、遼太郎」
キョウコはニヤリと笑う。
「では早速、逃げ道を作らないと!」
遼太郎が張り切る。
「落ち着け、遼太郎。先ずはその鏡を対象となる鏡に合わせ鏡をして、不干渉の結界を張るんだ」
「不干渉の結界?」
遼太郎は、首を傾げる。
「規則は聞いているよな?」
「うん、ざっくりと」
キョウコは人差し指を立て、目を瞑り暗唱する。
「規則の二条。『演技時間、及び、鏡界内で鏡の存在を現実者に知られてはならない。上記を破った者は現実者、黙認者をも含み、後日消滅の運命をたどる』この法則は管理者が監視しているというより、監視カメラにその様が映ると、後日、消滅の言霊を記載した手紙が自動的に鏡人の元に送りつけられ、受け取った瞬間消えるんだ」
「なっ……」
遼太郎は言葉に詰まる。
「だから、そこを回避するジャミングを張らないと、お互いの世界を行き来できても、手紙を受け取らなけらばならない運命が訪れて死ぬ」
キョウコは立てた指を遼太郎に向ける。
「それと、真の力。秘術の『マ』の力は言霊や意味合いが違うだけで全く異なる影響を及ぼすの」
「お、おう」
遼太郎はキョウコに押し負かされ、後ずさりする。
「聖なる力を根源として使う『真』と、混沌とした邪気を根源とする『魔』とでは大きく違う。精霊を用いる力は基本『真』の力。真は副作用がないが、清明が故に込められた力以外の特殊効果が付与できず、条件がないと効力が発揮されない。一方、『魔』は大きな代償が要る分、特殊効果を得られ、条件を無視して効力を発揮できるという特徴があるの」
「そ、そうなのか」
「その中でも、鏡は三大神器の内の一つで、とても強力な代物。私たちが使う秘術の中で最も、危険なレベルの高濃度な念が込められていると伝え聞いているわ」
「そんな危険なものだったの?」
遼太郎はおったまげる。
「そうよ! 鏡の偉大さを知らないのは無理もないけど本当に凄いのよ! ランクの上がった聖霊の力を使っても及ばない。どこに現存するのかも不明で、諸説には神様の倉に封印されていると言われる程のものなのよ!」
「マ、マジか。そんなものを俺は扱っていたのか……」
遼太郎は冷や汗をかく。
「凄い鏡にビビっているところ申し訳ないけれど、時間がないわ。兎に角、先ずは鏡で結界を張るのよ」
時計を見て、キョウコは焦る。
「どうやるの?」
「結界を張る言霊は錯視よ! 所有者が行わないといけないの。さぁ早く」
遼太郎は深く呼吸をして祈る。対象となる姿見と入れ替わり鏡とを合わせ鏡にする。
「錯視!」
すると、透明な波動が遼太郎を軸にして、水面に水滴が落ちた時のように広がる。
「これで、こちらの都合の良いように変換されてカメラに映るようになったわ」
「よしっ! 次は、接触だったな。この鏡は繋がりそうか?」
キョウコは指を顎に当てる。
「以前、美和本人に干渉したから、この姿見ならいけると思うわ。通信は私から呼びかけてみる。向こうと繋がったら、鏡へ飛び込むのよ!」
遼太郎は、キョウコの言い方に一抹の不安を覚えた。
「キョウコも行くんでしょ?」
キョウコは黙ってしまった。
「キョウコ?」
すっと息を吸うと、キョウコはゆっくり口を開く。
「ごめんなさい、遼太郎。私はいいの」
「お前まで、ソフィアと同じように庇うのかよ……」
キョウコは首を横に振る。
「違うの。遼太郎。私はそもそも行けないのよ。『入れ替わり』しかできない」
「えっ、どういう……」
「法則を忘れたの?『四、鏡界で起きることは、全ての世界に影響を与える』この法則で、私が現実世界で二人になってしまうことで、色々と問題が起きる。鏡に姿が映らなくなるし、辻褄が合わなくなる。それに、『六、不幸によって幸せを感じ、裕福によって絶望を感じる世界』、この法則で、私はここにいた方が幸せなのよ」
「そんな……」
遼太郎は自分が難を脱していいのかと複雑な気持ちになる。
キョウコは話を続ける。
「詳しくお話しする機会がなかったけど、私、本当に貧乏でも幸福感を感じるのよ! 遼太郎からしてみれば不思議だよね? 幸せを鏡越しで見ているだけで心が満たされていくんだ。一人でも平気だよ」
遼太郎はキョウコの心境を察した。
「キョウコ、初めからわかっていたんだね。こうなることを」
「うん」
「だから、冷たくあしらっていた。でも、段々と関係が親しくなっていくのもわかって、俺の鏡人が危ないって気づいて」
「うん」
キョウコは目を瞑って頷く。
「案の定それは現実になってしまった。ここで別れるのも全部わかっていたんだね。ごめん。悲しい想いをさせてしまって」
「その気持ちだけで私は十分なの」
優しくキョウコはつぶやく。
「キョウコ、強がるなよ。いつものツンデレはどこ行ったんだ?」
「私、そんなひねくれた奴だったかな?」
茶目っ気を含ませてキョウコが訊く。
「そうだよ!」
「そうか……。そうだったよね。私は、アンタなんて別に興味ないんだから……」
「嘘が下手だな、キョウコ」
「私、鏡人なのになぁ。はぁ……演技下手だなぁ」
遼太郎とキョウコの目には涙が溜まっている。
キョウコは泣かないように誤魔化して笑う。
「それでも。私はアンタを嫌いにならなきゃいけないの」
後ろを振り向き、背中側に回した手の指と指を組み合わせて、キョウコは口を開く。
「というか、向こうの世界に行けば、本物の美和との関係が直ぐ良くなって。私はアンタの事を自然と嫌いになる。元に戻って、素で暴言を吐くようになる。それで、丸く収まるの。私がアンタを好きでいると、美和が悲しい想いをしてしまうでしょうし、私の心も本当には満たされないの。だって、不幸が幸せなんだから」
キョウコは涙を上着で拭い、振り返る。遼太郎の手のひらをぐっと握りしめた。
「だから、私は鏡界に残るのっ」
キョウコは、優しく微笑む。
こんな状況にキョウコを追い込んで、世話もかけて。なのに、肝心なところで置いて行くしかないなんて。そんなのありか。 鏡人はそれで幸せかもしれない。でも、置いていける訳がない。
キョウコをよそにしていられるほど無神経ではない。
「キョウコ、お前本当はどうしたい?」
「どうしたの?」
キョウコは突然のセリフに驚く。
「俺はさ、これで脱出して現実の美和といても、きっとキョウコの事を思ってしまう。例え俺の事や美和をお前が嫌いになってもさ、俺らは苦しいままなんだ。それだとさ、きっとお前も鏡界で苦しむ羽目になる。だって、鏡界は現実の写し絵なんだろ?」
「……」
「ツンデレな態度でも、罵倒を浴びさせられても構わない。俺はお前とも一緒にいたい。だからさ、そんな寂しいこと言うなよ」
「遼太郎……」
キョウコは戸惑って、目をきょろきょろさせる。
「よしっ、それなら俺が美和を介して両方の世界を度々行き来するのはどうだ?」
キョウコは手を突き出して横に振る。
「いや、それだと鏡界側にいれば現実側から、現実側にいれば鏡界側から、キャットファイトの板挟みに合うことになるし」
「えっと、それは……」
「悪いことは言わない。それは考え直した方がいいんじゃないか?」
「そうだな……」
遼太郎は頭を掻きむしる。
「あ~、それならせめて。この鏡を介してやり取りをしよう。そうすれば、キョウコを一人にさせない状況は作れる!」
「バカ。無駄に格好つけやがって」
キョウコは遼太郎の好意を突き放す。
「え~。ダメなの?」
「自分に疎く、周りに迷惑をかけるくせに。何言ってんだか」
キョウコはふふっと吹き出し、
「ホント、腹黒なのか、お人好しなのか。はっきりしてよね」
と、続ける。
「酷い言われようだな」
「でも、ありがとう。実現できたら良いわね」
キョウコは目に溜まった涙を拭って、万遍の笑みを見せる。
「キョウコ。美和と見間違えないようにこれを預かってくれ」
「なっ」
遼太郎はマフラーを解き、キョウコの首に回して結ぶ。
「これで、俺たちは繋がっている! 俺の大事な物、お前に託すぞ」
「うん……」
照れくささを誤魔化す子供のように俯き、キョウコは顔を赤くする。
遼太郎から鏡を受け取り、キョウコが姿見と例の鏡とを合わせ鏡にする。
すると、光が満ちて目の前が真っ白に包まれる。美和の叫ぶ声が聞こえてくる。
「遼くん、遼くんっ! 遼くんっ‼」
姿見の奥に見えるベッドに、うつ伏せで叫ぶ美和が見える。心の声も聞こえてくる。言霊が悲しみに満ちている。聞いているだけで、どうかなりそうな叫びだ。
キョウコはいてもたってもいられなくなり、
「本当にそれでいいの?」
と、姿見に向かって叫ぶ。
遼太郎は飛び上がったり、ガクガクと手足を震えさせ、壁の隅に縮こまったりする美和を傍らで見守る。
「何ビビってんのよ! 鏡をよく見なさい!」
キョウコが一喝する。
ビクビク怯える美和。キョウコに言われるがまま従う。まるで、恐喝だ。
「ほら、さっさとする! 声に出して続けて唱えて!」
「え、どういうこと?」
「いいから早く! さんはい。接続!」
「こ、コネクト~」
部屋中が光に包まれ、目の前が真っ白になる。
遼太郎は光の先へと駆けていく。
鏡に吸い込まれた遼太郎の身体は、現実の美和の部屋にふわりと降り立つ。
遼太郎は迷わず、美和をぎゅっと抱きしめた。