第十五話 報われない男
「幻中さん、お気の毒よね。まだ、息子さん幼いのに交通事故で他界って」
「その事故、保険が切れていたのか、保険が下りなかったとか何とかで。そのせいで、借金を結構抱えたって噂よ」
「そうなの? まともなご飯を食べているのかしら」
近所のおばさま方が痩せた遼太郎を見て噂話をしている。
不幸でも何でもない。
三歳の時に、じいちゃんの家に預けられ、両親は新婚旅行に出かけた。
預けたその日に両親は死んだ。だから、物心着いたころには既に親はいなかった。
でも、寂しくはない。じいちゃんとばあちゃんがいる。それでいいじゃないか。
生活は周りと比べれば、良いものではないのだろう。でもそれは、努力すれば解決する。頑張ってお金を稼ぐことができれば、じいちゃんだって、ばあちゃんだって、きっと喜んでくれる。
早く一人前にならなくちゃ。そう言い聞かせた小学校三年の夏。
それから二年が過ぎ、小学校五年の夏、ばあちゃんが病気で入院した。
大丈夫だ。じいちゃんと一緒なら、医療費だって、借金だって何とかなる。努力は報われる。
「遼太郎、すまないな。家にお金がないから、苦労ばかりさせてしまって」
「良いんだよ、じいちゃん。俺頑張るから。高校も勉強して公立へ行くし。高校在学中もバイトして、大学の資金貯めるからさ。俺の教育費のことは心配しないで。じいちゃんは家の事を頼む。ご飯食わせてもらってありがとう」
じいちゃんは、頭を下げたまま立ち尽くす。床には雫の跡が残る。少し震えているようにも見えた。
「青春盛りの年頃なのに……本当にすまない」
じいちゃん、謝らないでくれ。じいちゃんのせいじゃないんだよ。頑張るから。お金さえあれば、この状況から変われる。
それから、勉強して公立の高校に入った。高校に入ってからはバイトの許可を得た。
仕事は覚えが悪く、できないことだらけで、クビになることもあった。
安い給料でも、お金が貰えることが嬉しかった。じいちゃんとばあちゃんが元気なら、それでよかった。
「幻中‼ 至急職員室へ‼」
「えっ、どうしたんですか?」
「お宅のおばあさんが……」
「え?」
ばあちゃんの容態が急変したとの連絡だった。病院に着いた時、ばあちゃんは生死の境にいた。
「ばあちゃん! ばあちゃん‼」
「りょう……、りょうたろう。ごめんね、今まで大したこと、してあげられなくて」
「何を言っているんだよ。謝らないでくれよ」
「……」
最後の言葉が、ばあちゃんに届いたのか分からない。
そのまま、眠るように息を引き取った。
受験直前の高三の秋のことだった。大事なものがまた一つ消えた。
当然、受験勉強にも、バイトにも集中できず。受験に失敗し続けた。
そして、最後の希望の綱。
その日、電車が遅延して試験開始時間ギリギリの状態で最寄り駅に着いた。
「こちら、試験会場まで行くシャトルバスの最終便となります! お早めにご乗車下さい!」
試験会場への誘導員が大声で案内している。
これを逃したらもう終わってしまうと、遼太郎は全力疾走した。
急いで階段を下りているその時、ドスっという鈍い音と共に何かが転げ落ちる音がした。
「痛っー!」
振り向くとそこに、膝小僧と手のひらを擦りむいて血を流す女性が、階段の中間でうずくまって動けずにいた。困っている人を放っておけない性分の遼太郎は女性に駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか?」
「え、ええ。派手に転んでしまいまして……」
「凄い血が出てる。止血しないと」
遼太郎はマフラーを解き、彼女の足に縛り付ける。
「顔とかは傷つけてないですか?」
ふと、彼女の顔を遼太郎は覗く。
「はい、大丈夫です。ありがとう」
綺麗な顔を見て、遼太郎は一瞬、思考停止する。
「い、いえいえ、お気になさらず。救急車呼びましょうか?」
彼女は慌てて両手を横に振る。
「そこまでしなくても! 大丈夫です。それよりも、私、受験が……」
「そうだった! 急ぎましょう。立てますか?」
「なんとか」
遼太郎は彼女の腕を肩に回して背負いながら、ようやく下まで辿り着く。
「それでは最終便、出発しまーす!」
プシューという空気圧の音が聞こえた。
「あー‼」
「きゃー‼」
二人はドアが閉まったバスを、呆然として見届けるしかなかった。
終わった。
遼太郎は燃え尽きて壁にもたれ掛かる。
「あーん、えーっと。もう、どうしよう……」
ショックだったのか、彼女は座り込んでしまった。
ふとタクシー乗り場を見たが、受験のせいか、運悪く全て出てしまっている。
こんなことが合って良いのかと、遼太郎は嘆く。
遼太郎はバス停に駆け寄って、時刻表を見る。
大学まで行くバスは、早くても三十分後だ。所要時間は二十分。試験開始から約一時間経過では、一つの科目を落とし、かつ、試験開始三十分後までの入室と言う条件を満たせない。
遼太郎は試験を諦める選択をする。
「とりあえず、近くの病院で手当てしてから、大学の方に掛け合ってみましょう。立てますか?」
「ほんと、ごめんなさい。私のせいですね」
「そ、そんなことないですよ。あなたが無事でよかった」
彼女は遼太郎を見つめると無言で顔を赤らめた。
間もなく、病院行きのバスが停留所に現れた。
「さぁ、行きましょう」
「本当にありがとうございます」
道中、彼女に何度もお礼を言われ、二人してペコペコと頭を下げ合う状況になった。
その流れで話が弾み、彼女も同じ経済学部を受験する予定だったとわかり、盛り上がった。
十分もしない内に病院に着き、救急で治療を受けられるように遼太郎は手配する。
介添えとして、遼太郎は途中まで彼女に付き添う。
松葉杖を看護師から貸して貰ってから、遼太郎は彼女を見送り、病院のロビーにある待合ソファーで診察が終わるのを待つことにした。
人救いできたのは良かったが、運もここまでかと、遼太郎は絶望した。
「速報です。先程、埼玉県所沢市で入試試験生を乗せたシャトルバスとトラックが正面衝突する事故が起きました。これにより、乗客の二十一人が負傷、トラックとバスの運転手二名が重傷となっております」
テレビから流れたニュースに遼太郎は耳を疑った。あれは先程乗るはずだったバスではないか。
「えっ、うそ。これっ、えっ?」
丁度彼女も戻ってきたところだったらしい。突然の事に動揺している。
「門叶さん、会計窓口までお越しください」
「えっ、あっ、はい!」
会計に呼ばれる彼女。動揺したのか門叶は松葉杖を落とす。
すぐさま遼太郎は駆け寄って拾い上げる。
「ありがとう」
「気を付けて」
軽く会釈して、門叶は会計に向かった。
会計が終わると、門叶はぎこちなく松葉杖を使いながら、近づいてきた。
「さっきの見ました? ヤバかったですね。あれに乗ってたら今どうなっていたんですかね。転んでよかったですよ、あはは」
「大丈夫でしたか? 怪我の具合は?」
門叶は足を前後に振って見せる。
「大丈夫。大丈夫。擦り傷と軽く右足首の骨にひびが入ったってさ」
「全然大丈夫じゃないですよ、それ! 無理しないでくださいね?」
遼太郎は心配そうに門叶を見つめる。
「でも、事故よりはマシでしょ?」
門叶はニコッと微笑む。
「そ、そうですね。結構ひどい様子ですけど、大丈夫なんでしょうか?」
「う~ん。私にはわからないけど、何か良くない空気だったんだよね」
意味深なことを門叶はつぶやく。
「えっ? 何がですか?」
「いやね、ちょっと重い空気? みたいなのがあのバスに漂っているな~なんて。そう思って階段駆け下りていたら、このザマというね」
「は、はぁ?」
エスパーなのかと、遼太郎は本気で思う。
「まぁ、私、強運なところあるんで。この状況なら大学も何か対応してくれるんじゃないかな~ってね。無理か~、あはは」
「……どうでしょうね?」
すると、二人の電話に着信が入った。慌てて病院から出て電話をかける。軽やかに動けない彼女も控えめにその場で電話を取った。
「はい、幻中ですが」
「こちら、遅稲田大学学生課の速水と申します。幻中さんの携帯でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「連絡がとれて幸いです。本日は受験会場に到着されておりますか?」
「いえ。バスに乗り遅れまして」
「そうですか。実は先程、大学までのシャトルバスが交通事故を起こしまして、まだ到着を確認できていない受験生、及び関係者に安否確認をさせて頂いております。繋がったということは、無事でしょうか? お怪我等はございませんか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「良かったです。つきまして、今回の試験に関しましては、安否と被害状況が確認でき次第、改めて試験を執り行わせて頂く予定ですので、ご安心ください」
事故に巻き込まれもせず、試験も受けられるようになった幸運に遼太郎は感謝する。いやこれは、門叶の予知のおかげかもしれない。
「それでは安否確認がまだありますので失礼致します。お大事になさってください。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
遼太郎はスマホを切る。
門叶も丁度電話が終わったようで、こちらを振り向くと同時にサムアップしてきた。
予期せぬことの連続で涙が零れた。
門叶は遼太郎に声を掛ける。
「良かったね~! さっき言ったこと、本当になったよ~って、えっ、ちょっと、泣いてるの?」
「ごめん。ちょっと、感極まって」
遼太郎は涙をふき取る。
「ふ~ん。でも、これで私たちの問題は、一件落着だね! どうなるかと思ったけど、何とかなったね!」
「ほんと、ありがとう。こけてくれて」
「え~! そこ~⁉」
「冗談だよ」
「だよね?」
二人は笑って握手する。
「あっそうだ。名前言ってなかったね、私は、門叶美和」
「俺は、幻中遼太郎」
「大学受かろう! 宜しくっ!」
「こちらこそ、宜しく」
あの後、遼太郎は重大なミスに気が付く。門叶の連絡先を聞きそびれてしまったのだ。
門叶のお迎えが黒塗りの高級車だったことに気を取られたのもあるかもしれない。
遼太郎は彼女の名前を忘れまいと、心の中で連呼して帰宅する。
翌朝のニュースで、幸い、あの事故で死者は出なかったことを知った。怪我人が回復するまで試験を延期するとの通知が自宅に届き、それから二か月後、再試となった。
そして、遼太郎は奇跡的に試験を合格した。
入学式当日、あの階段をこけないように、ゆっくり降りた。
もしかしたら、また会えるかもしれない。遼太郎はそんな淡い希望を抱いてしまった。
降りた先に門叶の姿はなく、バスに並ぶ入学生の列があるだけだった。
渋々、遼太郎はバスに乗り込んだ。
バスは大学の構内へと入って行く。
到着すると、学生が運賃支払いの列を作りはじめ、遼太郎もそれに沿って降りる。
校舎前のバス停に降り立つと、春の温かい風とともに桜が吹雪くのが見えた。雨上がりの土のにおいが風に混じって香る。入学式に相応しい日だ。
「あの~」
後ろから声がしたような気がしたが、気のせいだと思い、遼太郎は足を進める。
「あの~、すみません!」
肩を突かれ、遼太郎は後ろを振り返る。
そこに、見覚えのある、待ち望んでいた笑顔があった。
「また、会えましたね」
風に舞う髪をかき分け、少し恥ずかしそうにこちらを見つめる。
コロンの甘い香りが遼太郎の鼻に届く。
素直に彼女が美しいと思った瞬間だった。
「まさか、また会えるとは。お久しぶりです」
驚きと緊張で、何か変な事言っていないかと、遼太郎は頭の中でセリフを繰り返し、確認する。
「なんだかとても驚いているようだけど……。緊張してるの?」
「いえ、そんなことは」
「ほら、敬語使ってるし! 宜しくって言ったじゃん? もう、そんなに畏まらくて良いんだから! 遼太郎君って呼んでいい?」
「ええ」
「ええ、じゃないよ! 本当に」
クスッと、門叶は笑う。
「遼太郎君って面白い人ね」
「う、うん。俺は、門叶さんって呼べばいいのかな?」
門叶は少し不満そうにして言った。
「え~。それはちょっとなぁ。下の名前で呼んでよ」
「えっと、それは恥ずかしいというか……」
遼太郎は戸惑う。
「私が許しているんだから気にしなくて良いのっ!」
門叶はムッとしてふてくされる。
「というか、周りの反応がね……。そういう関係なのかと……」
「どういう関係?」
門叶は首を傾げる。
「その、付き合っているんじゃないかってさ、ははは」
「良いじゃん。付き合おうよ、私たち」
門叶はさらっと告げる。
「えっ……、うそ、マジ?」
「え? うん。それとも、私じゃダメ?」
「そんな、ダメな訳ないじゃないか!」
「じゃあ、宜しくね! 私の彼氏さんっ!」
こんな可愛い子に、急に告白のセリフを言われ、動揺しない男はいないだろう。
遼太郎は落ち着こうと試みる。言葉の真意を確かめる。本当に付き合うのだろうか。冗談ではないのだろうか。 遼太郎は顔を引っ張るなり、体をつねるなりした。
「痛い。痛いだと……」
遼太郎は痛みが生じることにとても喜びを感じる。こんなの初めてだった。
決して変態という意味ではない。でも、彼女の為なら何でもできる気がした。
だからだ。あの時、あの場所で、美和に出会わなければ。
こんな幸せを手にするなんて、ありえなかっただろう。
寧ろ、バスの事故で重傷を負って、死ぬ間際までいったのかもしれない。
試験も万全な状態で受けられず、途方に暮れていたのかもしれない。
大学が全てではなかったが、お金をより多く稼ぐためには、経済を学び、良い就職、良い給料をもらう必要があった。そのチャンスを逃してしまうことだけは、避けなければならなかった。
借金だってある。じいちゃんだっている。
最近はめっきり体力が落ちてきて、じいちゃんにも医療費がかかるようになってきた。
年金だけじゃ賄えない。だから、稼がなくちゃいけない。
幸せを手に入れるには、何としてもお金が必要だ。
素敵な大学生活はあっという間に過ぎた。その間、遼太郎はバイト付けの日々だった。
そして、あの日がやってくる。
大学四回生の夏、内定をもらった日の事。
朝起きて、内定のメールを見て、喜びのあまり病院にいるじいちゃんの所へ報告しようと駆け出したあの日。病院に着くと、そこは炎の海と化していた。
ごおごおと燃え盛る建物。焼け焦げた匂い。逃げ出す人々。火傷をした患者。点滴とベッドをガラガラと引き回す音があちこちで聞こえる。救急車とパトカーのサイレンが轟く。
「何が起きたんだ。どうして……。どうして。何で俺だけこんな目に合うんだ」
いつもそうだ。ずっとそうだったじゃないか。
幸せは掴もうと手を伸ばしても、いつも指の隙間からすり抜けていく。
そういうものだったじゃないか。わかっていたはずじゃないか。
そう、遼太郎は自分に言い聞かす。
今まで何をしていたんだろう。
努力しても、頑張っても、報われはしないのに。
夢を追いかけて、支えるからって無理をして。
もう、疲れた。今日はお家に帰りたい。
悲しい。はずなのに。
もう涙も出ない。
遺体は跡形もなく焼けてしまったようで、出てこなかった。
その他、諸々の相続をして。というか、殆どが借金だった。
じいちゃんからどのくらいお金があるのかは聞いていなかった。
が、借金の理由とその額を見て、驚きつつも納得した。
勿論、こんなことを彼女には言えるはずもなかった。
美和は唯一の救いだ。今、彼女を失ったら、本当に何も残らない。
なんとしてでも、金を稼ぐ。結婚するためにも、幸せになるためにも。
今圧倒的に足りないものはお金だ。
これを何とかしないと、一生幸せにはなれない。
折角、掴みかけた光を失いたくない。
幸せになるためには、お金。
お金を何としてでも手に入れないといけないんだ。
こんな苦しい想いをせずに生きられる。一族も報われる。
欲しい物を何だって手に入る。満たされる。恐怖なんてない世界に行けるんだ。
誰かの幸せを妬まなくても良いんだ。その為に、何をしても。金が欲しい。
鏡人の声が遼太郎の頭に響き渡る。
『これほどまでに良い条件が揃っているんだぞ? 遼ちゃんが望んでいる、お金も地位も権力も時間も人望も暮らしも全て手に入る。こんなことは、一生ないだろ? 断る理由がどこにあるんだよ?』
その通りだ。美和を我が物にしたい。手放したくない。
その為には金が要る。金があれば、何もかも手に入る。
こんな幸せを手に入れるチャンスを棒に振って、他に何があるのだろう。
現実世界にどうすれば、このお金持って帰れるのか。そればかりを考えていた。
その為に、仕組みを知ろうとした。面倒でも、足を運んだ。
なのに、鏡人は『入れ替わり』を終わりにしようとしている。鏡人だけが満喫しているではないか。せめてお金だけでも増やして、欲しいものは貰ってからでないと、割には合わない。
脅威が無くなったから帰りますという程、お人好しではない。
仕事も、お金も現実に戻ったところで、何も変わらない。
ならば、鏡人の都合なんて知ったこっちゃない。
欲しい物をもっと手に入れる。
この鏡界を知って、お金に換えられる術を知る。
世の中は金だ。金が全てだ。金さえ手に入れば、全て変わるんだ。