第一話 失なった日
シリーズとしての掲載を予定しています。
また、誤字脱字、言葉の表現に誤りがあった場合は、作品の趣旨が崩れない程度に修正を試みます。
宜しくお願いいたします。
――光が降り注ぐ。
『救え』と呼ぶ声がして目覚める。
日の光。鳥のさえずり。ベッドのぬくもり。
全てが愛おしい朝が来る。
胸の中で何かを抱きしめている感触に気づく。見覚えのある形だ。
それは――紛れもなく夢で現れた鏡だった。
平成最後の三月三日。いつもと何も変わらない普通の日曜日。道端に立つ桃の木から花が芽吹き、その美しさに人々が見蕩れている。そんな最高な日にも関わらずだ。門叶美和は、一人浮かない顔で足早に彼の家へと足を進めている。
「あぁ~、もう。待ち合わせ場所に五時間待っても来ないなんて。ほんと信じられない!」
こんなことは初めてだ。連絡をしても電話に出ない。SNSも既読にならないなんて。
「いつもは温厚な私も、流石に今日は物申してやるんだから」
と、美和はぶつぶつ文句を連ねる。
きっとデートのことで浮かれて、約束の時間を放って寝過ごしているに違いない。起こしたらお説教、確定。階段を駆け上がり、三階にある彼の部屋の前まで来ると美和は呼鈴を連打した。
「遼くん、私よ! 居るんでしょ! 早く起きなさい!」
沈黙。物音もしない。
「あいつ~、一体私を何だと思っているの!」
と、美和は返事がないことに、つい憤怒の言葉を漏らす。
怒りをドアにぶつける。叩き過ぎて手が痛い。
「遼くん、流石に私怒っているんだからね! わかってる? 今日という今日は……。あれ?」
怒りに気を取られている内に、肩からハンドバッグが滑り落ち、紐がドアノブに引っ掛かって扉が開く。彼が鍵を掛け忘れるなんて。何かあったのではないかと先程までの怒りが一気に醒め、美和に不安が過る。
そう言えばと、美和はデートの内容を決めた二月二十一日からずっと返事がそっけなかったことを思い出した。月末は既読スルーだった。楽観視し過ぎたと美和は反省する。
「遼くん、いる? 入るよ?」
扉を開けて中を覗く。彼からの返事はない。暗くて妙に静かな部屋。
ゆっくり中に入ると、重みで扉が自然と閉まった。光が閉ざされ、部屋が更に暗くなる。
洗わずに水に浸かったままの食器。蛇口からひたひたと零れる滴の音が聞こえる。少し埃臭く籠った空気。だんだんと目が慣れてきた。
静けさで自分の呼吸音が聞こえる。靴を脱いで整えると、ゆっくりと一歩ずつ足を進めた。ひんやりとした床の冷たさがじわじわと足に伝わってくる。
外が改装されていたせいで今まで気がつかなかったが、レトロな内装はそのままにしているらしい。古いフローリングが進む度にミシミシと音を立てる。
角を曲がると、キッチンと部屋とを隔てる扉の隙間から明かりが漏れていた。
美和はほっと胸を撫でおろす。
「なんだ、やっぱり居るじゃない」
と、思わず安堵の言葉をつぶやいた。
「ねぇ、遼くん。そこに居るんでしょ? もう。居るなら返事してよね~」
扉を躊躇いなく開けた。
「えっ?」
ハンドバックが再び落ちる。身体の力が入らず、美和はその場に崩れ落ちた。
目の前にある光景を疑った。思わず両手で口元を覆う。
恐怖に満ちた時、声が出ないと良く聞いていた。が、まさに今その状態に陥った。
息ができない。苦しい。苦しい……。
なんで……。えっ、なんでっ。
どうしてなの……。何が起きたの。
わからない。わからない……。
疑問と困惑と恐怖とをごちゃまぜにした感情が、言葉の波と化して美和の頭の中に襲い掛かる。
直視できない。
胸に手を当て、過呼吸になるのを必死に抑えようとする。
震えが止まらない。涙も止まらない。
手の震えが治まらないまま、美和はなんとかハンドバッグの中からスマホを取り出した。
目線の先には今もなお、彼氏の幻中遼太郎の足が青ざめて揺れている。
早く何とかしないといけないと頭ではわかっている。なのに、身体が硬直して動かない。動けと強く念じるが、震えを抑えるのが精一杯。
かろうじて一一〇番を押すと、美和の身体は極限を迎えた。美和はそのまま、倒れこんでしまった。
呼び出し音が辛うじて耳に届く。
無意識に目を瞑っていた。真っ暗な世界の中、美和は自責の念に押しつぶされそうになる。途切れそうになる意識を必死で保ちながらも、美和は彼の救われを祈った。
――神様。何がいけなかったの。どこで間違えてしまったの。
彼が何をしたっていうの……。
手を伸ばして救いたいのに、それすらもできないなんて。
こんなにも、無力だなんて……。
追い込まれていた彼の心境の変化に、何故気づけなかったのだろう。
彼の苦しみを理解できていたら。少しでも彼の力になれたのに。
やり直せるなら……何でもしたい。
お願いだから、お願いだからっ!
彼を奪わないで。どうか。どうか……。
美和の意識はそこで途絶えてしまった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「努力は報われないのか……」
二月二十日の昼下がり。独り吐き捨てるようにつぶやいた。
幻中遼太郎は想像通りに事が運ばない人生にうんざりしていた。
兎に角、独りになりたい。
遼太郎は池袋から東武東上線に乗って『上板橋』で降りた。普段降りることのない駅。知らないところに行きたい。そんな衝動に駆られたのだ。
見たことのない街並みと空気を肌身で感じてみるが、どうやら歓迎されていないらしい。
温かな日差しとは裏腹に、冷たい風が吹き荒れ、思わず身震いする。
木枯らしで路肩にひっそりと立つボロいカーブミラーが、ガタガタと嘲笑うかのように音を立てて揺れた。ふとミラーを覗くと、知っている顔とは程遠い物体がそこに映っていた。
「これは俺なのか。ああ、なんて日だ」
と、遼太郎はやつれた自分の姿に衝撃を受け嘆くも、
「まぁ、仕方ないか。仕方ないよな」
と、独りで自分を慰めて開き直る。
俯いてとぼとぼと徘徊する。生気を感じられない目、ボサボサの髪。
すれ違う住民は、ゾンビが街に出たかのように驚愕する。キャッと、声を上げてしまう人もいた。あまりのリアクションに、遼太郎は誰かが自分を通報するのではないかとひやひやする。
しばらくして、遼太郎の視界に公園が現れる。
「東京都立城北中央公園……。結構大きな公園があるんだなぁ」
東京で一人暮らしを始めてから二年ぐらい経ったが、存在すら知らなかった。
目的無く、遼太郎は園内を歩き続ける。すると、遊具が視界に入ってきた。
子供たちが和気藹々とした雰囲気で声を上げ、追いかけっこをしている。
「子供はいいなぁ」
悩みもなく、毎日を楽しそうに生きている。
どこで間違えたのだろうか。いつから人生を退屈だと思うようになったのだろうか。
只々、遼太郎はぼうっとその姿を眺めていた。
「何あの人。ちょっと怖い」
「なんか、目が死んでいますよ。気持ち悪いわ」
どこからか声がする。鋭い視線も感じる。
「三時過ぎに何しているのかしら?」
ベンチ付近で井戸端会議をしていた奥様方が怪しげにこちらを見ている。
何も悪いことはしていない。時間と格好、心身がブルーな状況が偶々重なって、相手の気分を害しただけだろう。
遼太郎は冷静に自分の立ち振る舞いを振り返ってみる。
無垢な笑顔。純粋な瞳と容姿。甲高い声。迸る汗。誰だって顔が緩んでしまう要素がここには散りばめられている。疲れきった男が公園で気を晴らす事の何がいけないのだろうか。一息が煙草なのか、子供の戯れる姿なのかの違いだけではないか。
そう、自分は間違ってはいないと遼太郎は言い聞かせる。
が、自信を持ったところで遼太郎への視線は変わらない。
流石の気まずさに、遼太郎は奥様方の視線から逃れようと背を向け、ブランコに腰を掛けることにする。ここならば、子供たちから離れたところにあるから大丈夫だろう。
少しほっとして、遼太郎は前屈み気味に項垂れる。
が、まだ背中から視線をじわじわと感じる。
「俺が何をしたって言うんだよ。ちくしょう……」
遼太郎はイライラを抑えられずに愚痴ると、思わず右手で頭を掻きむしった。
ネガティブな感情が沸き上がり、遼太郎を襲う。
今日起きた全ての出来事にどんどん卑屈になって、絶望に飲み込まれそうになる。
ため息交じりに、最大の不安原因が口からこぼれ出た。
「クビかぁ……。これからどうしたものか……」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
何故、世の中はこんなにも理不尽なのだろうか。
大学を卒業して直ぐに務めた保険会社は、世間で言われる黒い会社というやつだった。
定時というものは、空気を察しない愚かな行為と受け取られる。毎日、サービス残業は当たり前。
先輩から『使えないやつ』とレッテルを貼られ、事ある毎に雑用を押し付けられる。
見事と言って良い程の劣悪環境。事態が発覚すれば、八時のニュース確定だろう。
遼太郎は雑務を断りもせずに請け負う。その結果、時間が無くなり、主業務に支障をきたしていた。
営業成績は伸び悩み、社員でビリの成績だ。おまけに、失敗の連続。
先日、ついに部長からの呼び出しで減給の宣告を受ける。支払いが多い都会生活で減給は痛い。
それでも。我慢して務めていた。大学時代から遼太郎を支えてくれた彼女を心配させたくないという一心で。
そんな状況をよそに、同じ大学で同じ経済学部の友人である美作は、良い仕事に就き、人間関係にも恵まれていて……。一緒に飲んだ席で、彼は酔った勢いで「俺は幸せ者だ~」とか、つぶやいていた。
そんな幸せそうな彼を羨ましくも思った。
でも、この状況を悲観してもしょうがない。
と、気持ちを入れ替え、特に最近は張り切っていた。諦めたらだめだ。仕事ができるようになるんだ。お金も沢山得るんだ。彼女と幸せな家庭を築くんだ。
そう思っていた矢先の出来事だった。
「君の頑張る姿を喫煙所から一目見て、置いていった名刺から連絡した」
と、わざわざ指名で電話を頂戴するという事件が起こったのだった。
その方はナイル・ジャパン社のキャスパーさんと言い、物流業界でその名前を知らない人はいないという程の有名社長だった。
お得意様となれば、各社と交流があるが故に、多くのお取引も夢ではない案件だった。
ただし、彼は不正・汚職等の話は大の嫌いで、お気に召さないことがあれば即、契約打ち切りにするという実直で厳しい方でもあった。
そして今日、偶然にも掴めたそのチャンスを活かせる絶好の日となる『はず』だった。
「遼太郎、ちょっといいか?」
「はい、何ですか? 黒瀬先輩」
雑務を押し付けて、業績ビリのことを散々弄ってくる先輩だ。嫌な予感しかしない。
「お前、あのキャスパーさんから契約取れそうなんだって? ラッキーだなぁ、普段雑務がお似合いなのによぉ。調子乗ってんの?」
「そんなことないですよ。ただ真面目に仕事しているだけです」
「ほぉ、それは俺が普段、真面目に仕事していないって言いたいのか?」
「違います」
黒瀬は睨みつけ、遼太郎を見下ろす。
「いい度胸だなぁ。ろくに仕事もできない癖にさ。お前の身には合わねぇからその仕事、俺が受けてやるよ。課長も経験豊富な黒瀬がやった方が相手の評価も上々だとおっしゃっていたし、丁度良いだろ?」
この先輩は一体何をおっしゃっているのだろうか。
「ちょっと待ってください。自分への依頼で電話があったのですから、私が行かないと案件が通らなくなると……」
遼太郎の話を遮って黒瀬は言い返す。
「忠告か? 余計なお世話だ! これは今後の社運が懸かった重要案件だ! 新米のお前なんかに任せる訳にはいかねぇんだよ。わかるな?」
背後から課長が出てきて、遼太郎に圧力がかった視線を送る。
「幻中君、ここは我々が行くよ」
ここは逆らうわけにはいかないと、遼太郎は泣く泣く手を引くことにする。
「課長がそうおっしゃるのであれば、お任せするしかないかと……」
「君は引き続き、社内業務を片付けてくれたまえ」
「は、はい」
「このカバン、貰っていくぞ」
あまりにも突然の出来事だった。まさか当日に案件を奪われることになるとは。
言い争っても良いレベルの問題だった。裁判を起こせば勝てる自信があった。
しかし、逆らったところで、自分に何のメリットもない。仕事を奪われても現状を保つか。はたまた、仕事を取り返して目の敵にされ、左遷、もしくは、職を失うか。
どちらにしても、この仕事には携われないと遼太郎は瞬時に悟る。
言われる通り、遼太郎は机に向かい、大人しく社内業務をすることにした。
そして、正午過ぎに事件は起きる。
黒瀬と課長が青ざめた顔で帰ってきた。
足早に黒瀬は自分の元に駆け寄ると、胸座を掴んで怒鳴り散らした。
「遼太郎、お前のせいで台無しだ! 何だ、あの準備のできていない荷物は!」
「えっ? 何のことですか?」
課長は眼鏡のズレを直すと、
「とぼけた振りをしやがって」
と、小声で悪態をつき、不快な表情で、遼太郎を睨みつけた。
あたかも遼太郎が悪いかのように、課長は交渉時の状況を説明し始める。
「幻中君、君にはがっかりしたよ、うちのカタログも持たずに、君は今まで何を売っていたのかね? 先程キャスパーさんから、準備もろくにせず、販売する気持ちの入っていない企業との交渉はしない。この話はなかったことにしてくれと言われたよ」
手柄にしようと勝手に動き、資料もろくに確認せず人任せ。自業自得ではないかと遼太郎は思う。
「どうしてくれるんだ?」
どうもこうもない。忠告もした。
不正が嫌いなキャスパーさんの事だ。推測でしかないが、自分が訪れなかったことに腹を立てたのだろう。それにも関わらずだ。先輩方は謝罪もせず、失態を後輩に擦り付けるといった有様だ。
遼太郎は流石に物申せずにはいられなかった。
「先輩方、私はカタログをいつも持っています。仮にそうだとして、荷物の中身を確認しなかった先輩方が悪いではないですか」
「貴様! 俺らのせいだと言いたいのか?」
日頃受けてきた先輩方の言動に我慢の限界が訪れた。
「そうですよ、人の案件奪って勝手に動いた責任も、荷物の責任も、先輩方が悪いですね」
「ああ、良くわかったよ。お前がやらかした失態は、部長、及び取締役会に報告せざるを得ないな。お別れだ」
黒瀬は掴んでいた襟元を振り払って離し、手のひらを遼太郎の胸に強く押しつける。遼太郎はよろめきながらも、倒れないように堪えた。
「幻中君、今までご苦労だった」
課長は味のなくなったガムを吐き捨てるかのように、薄っぺらな惜別の言葉を遼太郎に向けて送った。