深淵と奈落
どこまでも続く、何もない空間。
常ならばひたすらに白く広がる空間と静寂しか存在しないそんな場所。
今そこで二人の人物が対峙していた。
片方は黒衣。黒髪の青年が身に纏った、まるで暗闇で染めたような漆黒の服は要所を金糸の刺繍で装飾されている。
手袋、靴に至るまで隙無く真っ黒で、しかし、首に巻かれた長いマフラーだけは黒白の格子模様だった。
対するは白衣。まわりの白い空間に溶け込んでしまいそうな純白のローブは要所を銀糸の刺繍で装飾されている。
袖口から覗く手の肌までもがまるで白磁のように白く、しかし、目深に被ったフードの前から突き出る捻じくれた角だけは血のように赤かった。
先に動いたのは黒衣の青年だった。右手を天に掲げ、朗々と呪文を唱える。掲げた手を前に降り下ろすと同時。
七芒星の結界。黄金の三角錐。虹の結び目。罅の迷宮。箒星の鍵。
黒衣の青年の魔法が次々と白衣の人物に向かって放たれる。
閃光、轟音、爆煙。
そして、静寂。
ゆっくりと煙が晴れて行くその後には、消耗した様子で肩で息をする黒衣の青年と、傷付き満身創痍といった風体ながらしかし、攻撃を受ける前と変わらない様子で立つ白衣の姿があった。
荒い息を吐きながら汗を拭う黒衣の青年と。
肩をすくめながら己の身体を見回す白衣。
純白だったローブは裂け、破れ、千切れ、煤と血に染まり、辛うじて体に引っ掛かっているだけの状態だ。
全身、余さずボロボロになっている中、何故だか目深に被ったフードだけはほとんど無傷で残っている為に表情を窺うことは出来ない。
乱れた息を整えて、黒衣の青年は再び呪文を唱える。目の前に現れた魔法陣の中央に手を差し入れると、何かを掴んで引き出した。
現れたのは、粗雑な作りの短槍。加工もされていない木の枝の先端に水晶のような石が穂先として括りつけられている。
果たして、武器として役に立つのか怪しいような代物だが。
黒衣の青年が槍を構える。そして―――。
素晴らしい。
呟く声は白衣が発したものだ。
その身体は捻れ、抉れ、磨り潰され。最早、辛うじて人の形を保っているだけという有り様なのにも関わらず、白衣は傷を負う前と何ら変わらない様子で言葉を紡ぐ。
これ程の力を持つ存在は当代に於いて君しかいないだろう。
歴代に於いても比肩しうるものは片手で足りる。
魔導における頂点。至高。極致。天上。
人の身でありながら。
遂には最強まで練り上げた。
故に。
君は負ける。君は敗れる。君は死ぬ。
足りないからだ。僕を殺しきるには僅かに足りない。
肉体の、精神の、そして何よりも魂の強度が足りない。
それが人間という器の限界。終着。行き止まり。
それ以上の力を振るうには、人で在ることを捨てなければならないが。
―――君が戦うのはそうならない為だろう?
黒衣の青年は答えない。答えるだけの力すらも残っていない。
顔色は最早、蒼白を通り越して死人のそれと同様だ。
白衣の言う通り、己の力が肉体を、精神を、魂を削っているのだろう。
だがそれでも。
彼の決意は揺らがない。瞳に宿る覚悟に陰りはない。口許には笑みすら浮かべていた。
ふらつく身体を必死で支え、震える腕を懸命に持ち上げ、掠れる声を無理矢理に張り上げ呪文を紡ぎ―――。
これは、かつての勇者と魔王の戦いの物語。しかし未だ結末は記されていない。




