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即興小説シリーズ

不自由な魚

作者: 新良広那奈

 ぷかぷかと水の中をたゆたう熱帯魚たち。

 サーモンピンクのこの柔らかな色合いの魚は、一体なんという名なのだろう。

 長い間この部屋に入り浸っている私だけれど、実は未だにちっともよく分からない。

 多分、私が知ろうとしないからだろう。それを分かった上で、分からないままに見過ごしている。


 子どもの頃は、自分の周りにあるもの全てを知りたいと思った。知り尽くさなければいけないように思えたものだ。

 知らないものがあると気付かされる度に打ちのめされ、知らない自分を恥じた。

 でも、そうしてぼっこぼこに打ちのめされ続ける日々を経て、大人になった私は気付いたのだ。

 別に、世の中のこと全部を知ろうとする必要はないということに。

 というか、そもそも、世の中というのは限りなく広いのだから、全部を知ろうと思っても知ることなんてできないのだ。

 大人になるっていうのは、現実を知るということなんだろう。

 わかってしまえば呆気ない答えなのだけれど、気付くまでには随分と時間がかかってしまった。


 全部を知ろうとしなくていい。

 知らなくてもいいこと、知っても大して意味のないこと、知ってはいけないことなんて、世の中には腐る程あるのだ。


 彼はこの子達をことのほか可愛がっている。

 餌はとても質の良いものを揃え、水草もお高めのを選び、いつも彼らが居心地よく過ごせるように気を配っている。


「幸せ者だねぇ」


 つんつん、と指先で水槽の壁をつつくと、すいすいとこちらに寄ってくる魚たち。


「えさ?」

「えさなの?」

 まるでそんな風に喋っているかのように。

 ぱくぱく、ぱくぱく。

 魚達は、おちょぼ口をゆっくりと開けては閉め、開けては閉めと繰り返している。


 愛されることに慣れている。

 差し出される餌をただ甘受すればいいのだということも、彼らはその体で知っているのだ。

 こんな小さな生き物でさえ、大切にされる悦びを知っている。


「誰が?」


 後ろから抱きすくめてくる熱源に、体の芯まで火照っていくのを止められない。


「この子達」


 体の奥が求める熱を見ないふりをして、私は水槽にそっと触れた。


「愛されてるって感じがする」


 いつ来ても、彼らは当たり前のようにその水槽の中を泳ぎ回る。

 そこにいられるのは、決して当たり前のことではないのに。

 祐希が気まぐれを起こしてその水槽を片付けてしまえば、彼らの居場所はどこにもなくなってしまうのに。

 薄氷の上の綱渡りをしていることにも気付かずに、彼の掌の上をどこまでも自由に泳いでいく。

 その無防備な奔放さが、私には眩しかった。


「それ、お前が言う?」


 私だからこそ言うんだよ。

 ぐっと、喉の奥にその言葉を飲み込んだ。

 口の中に、ほのかな苦味が広がっていく。

 自分の胸の下で握られた掌を、ただじっと見つめた。

 こういう、些細な彼の一言に勝手に落ち込んだり傷ついたりするのも、いい加減やめられたらいいのにと思う。


 当たり前のように熱帯魚に愛を捧げる青年は、当たり前のように愛を無責任に撒き散らしていく。

 知らなければよかった。気付かなければ、愛されているという自負をもてたのに。

 クローゼットの奥に隠されていた、見覚えのないプレゼントの箱。破かれた包装紙の中にあったのは、男の人に人気のブランド物の財布だった。

 段々と減っていく、彼からの誘い。「仕事が忙しくて」という言い訳も、もうすっかり聞き慣れてしまって、もっと別の言い訳を考えてみてよ、と言いたくもなる。

 でも、きっと私は言えない。私からは、何も言えない。

 例えこれが不完全な愛でも、愛される日々なのには違いはないのだから。


 この愛を手放したら、私はどこを泳げばいいのだろう。

 水槽の中の魚達は、きっとその生を終えるまで、彼の元で好きなようにくつろいでいられるだろう。

 でも、私は違う。

 いつ、彼の手から放されるかも知れない身なのだ。

 もう、彼を知らなかった頃には戻れないというのに。

 一度知ってしまった悦びを、失う日々なんて想像もしたくなかった。

 だからこうして、心の臓まで汚泥に飲み込まれないように、がむしゃらに泳いでいる。


 ほとんど見放されていることにも、気付かないふりをして。

 私は今日も、当たり前の顔をして、彼の熱を受け入れる。

 愛してと乞い、愛したいと請い、そうしてままごとのように稚拙な行為に没頭する。

 そうして飢えを凌いで、次に餌を与えられる時まで、静かに待ち続けるしかないのだ。

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