その起源は100年ほど前
歴史書に載るくらい前のこと。 幾度も世界を変えた『奇跡』は、人には扱えない、神の御業であると信じられてきた。
それを扱うごく少数の者は天の使いであり、災いの象徴であった。
人々は 恐れ、怖れ、畏れ、そして 崇める。
天使は 海を割り、地を砕き、天を裂く。 雨を降らせ、病気を治し、皆の悩みを請け負い続ける。
――――――神の行いに関わることは神への反逆である―――――
宗教にまでなったその考え方は奇跡の力の研究の大きな足枷となり、長きにわたり研究は禁断とされてきた。
奇跡の力はいつまでたっても『奇跡』だったのである。
時代は過ぎ、とある国で起きた魔女狩りを機に『奇跡』の存在は次第に陰に埋もれていくことになる。
何十年、何百年。 伝説として語られていく『奇跡』の話。
後の世を生きた人にとって、お伽話でしか知りえないそれは、よもや実在するなど誰も思いはしなかった。
――――――100年前までは。
とある学者が出した論文に、世界はかつてない衝撃が走る。
彼曰く、超常現象は『奇跡』などではなく、使い方や仕組みを理解すれば、人にも扱える可能性がかなり高い、と。
彼曰く、仕組みを理解した『魔法』が大成すれば、世の中は今よりも圧倒的に利便性が増すだろう、と。
その論文を機に世界は一大魔法ブームとなる。
あらゆる企業や団体、個人が魔法の研究を始めた。 民衆はこぞって魔法の恩恵を求めた。
大小様々な情報が飛び交い、デマに騙され職を失う者、怪しい宗教へ入る者。 研究が上手くいき大儲けする者、それにあやかろうと近づく者。
事故も事件も件数は何倍にも膨れ上がった。 しかしそれを補って余りあるほどの利益を人類は獲得していった。
研究が進むにつれて、実生活での実用化には相当の時間がかかる、ということが分かってくると次第に民衆の騒ぎは収束へと向かっていく。
だが期待は常に心にあり、事あるごとに『魔法』について持ち出していた。
そうしている内にかれこれ100年の月日がたち、今に至る。
その間には多くの困難や失敗もあったことだろう。
その結果として、彼らの努力により出来上がった魔法体系は、学校教育にまで組み込まれるようになったのである。
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クラスをぐるりと見渡してみる。
皆はどうして科学科を選んだんだろう、と気になったからなのだが――――――
「ってよく考えたらまだ出会って数週間なんだよな」
入口付近では、女子たちがいくつかのグループを形成し、会話に華を咲かせている。
野郎共は……
教室の端っこで女子の方をみてヒソヒソ、ニヨニヨしている連中、教室のど真ん中でいかがわしい本を読む連中……まともなのが居ない。
ある意味、男としてはまともか……?
科学を選ぼうなどと思う人は必然的に限られてくる。
無類の科学好きか、魔法否定派、経済事情、そして適性があまり良くなく魔法が苦手、もしくは扱えない者。
科学科を選んだ皆はそれぞれ何かしらの理由があってここにいる。 本音を言えば、きっと魔法科へ行きたかった人も多いと思う。 だからこそ気になるわけで。
でも下手に地雷は踏みたくないよな……聞けない……。
彼らには入学前に魔法科へ行くという選択肢は与えられていたのである。 それでも科学科を選んだことには葛藤もあったのかもしれない。
ただ、科学科だから魔法は学べないかと言うと、そんなことはない。 当然学ぶことができる。
が、専門分野となると途端に授業数が減る。 相対的に科学が増える。
もし、本当に魔法を学びたかった人からすれば専門分野の授業を取れないのは、重い決断だったのだろう。
今の世の中、多くの人間は魔法を利用し生きている。
しかしその内魔法を使える人数に目を向けると、大体全体の八割程度。 残りの二割は便利と呼べる程には使うことができない。
二割というとそれなりの数である。
魔法を使ったスポーツはできず、社会的にも否定されやすく、就職の際には当然不利になる。
一体どれほどの人数が本意でなかったかは定かではないが、それを改めて聞くものではないだろう。
隣でいまだに愚痴を言い続けている友人に目をむける。
啓に関していえば、彼は適性がなかった者の一人である。
小さい頃から何度も検査に連れて行かれ、治療を受けたが、それらのほとんどが意味は成さなかったようだ。
榊原啓は魔法ができない―――――。
中学の時に聞いた言葉である。 言った生徒は別段悪意を以て言ったわけではなかった。
しかし悪意が無い故にそれは紛れも無い事実である証にもなった。
そういう経緯から彼にもいろいろと思うところはあったらしい。 魔法への憧れが強いのもそれが影響しているのかもしれない。
そうか、啓みたいな人も居るんだよなぁ。 やっぱり、訊けないなぁ……