あり得ない
べちゃ、と水っぽい握り潰したような音。 それと同時に眼下に零れる赤色。
ひんやりとした感覚。 液体が頬を滴り落ちる不快感。
はじめ、何が起きたのか全く分からなかった。
突如として視界に入ってきたものは一見すると血のようにも見える。
しばらく思考が停止する。
―――――でも、すぐに分かった。
理由も原理も分からないけど、今自分の顔にトマトがぶつけられたんだ。
また嫌がらせの類だろうか。 最近は方法や規模が大きくなってきている気がする。
「ぶっ……けほ……」
数秒前まではにぎやかだった教室内も、伝播するように事態に気づいたのか、次第に会話の音が小さくなる。
やがて全員何かに縛られたように静かになった。
皆、驚いた顔でこっちを見ている。
そう、見てるだけ。 近づいて声を掛ける人はいない。
ともすれば不自然と言えるほどに。
何を思い、そこに立つのか。
会話の途切れる数秒、彼らは何をしようと思うのか。
……自分が人より容姿に優れているという自覚はある。 はじめは無くとも、これだけ散々褒められ続ければいやでもその認識になる。
そして、その認識になったがために気づくこともある。
男子からはガラスのように扱われ、女子からは羨望交じりに疎まれる。
最初に気づいたのは中学生の頃。
次第に他の分野まで引きずられた評価を受けるようになって。
自分には無理な事も任されるようになっていった。
時にできないことを主張したこともあった。
しかしそれはただ心配され、気を引く行為だと蔑まれ。
そうして最終的にやってきたのは『皆の味方』の先生だった。
誰も近づこうとしない。 近づかないから、誰も近寄ろうとしてこない。
次第にそれは、近づいてはいけないに変わった。
仲の良かった子も段々と会話が減っていき、気づけばいつも独りだった。
……ああ、でも最近、久しぶりに話しかけてくれた人がいたわね。
話しかけちゃいけない、そんな暗黙の了解の中、笑って話しかけてくれた人。
……いつ以来かな。
高校に上がってからは飯塚さんと彼だけ……ううん、はじめの内は皆話しかけてくれたわね。
二人とも暫くしたら疎遠になっちゃうのかな。
今この状況を見て、心配してくれるかな。 話しかけてくれるかな。
二宮は教室内を見渡す。
しかし、その中に探していた人はちょうど席を外していたようで見当たらなかった。
「……馬鹿みたい」
自嘲気味に笑って見せた後、顔を洗いに席を立った。
――――
――――――――――――
顔を洗っていた時。
「二宮さん、大丈夫?」
はっとして横を振り向く。
そこには心配そうに顔を覗き込む一人の少女がいた。
小牧鏡子。
それが彼女の名前である。
クラスでよく女子同士の会話の中心となっているのを見かける。
二宮からしてみたら彼女は羨ましい限りだった。
常に友人に囲まれ、男子とも気さくに会話ができる。
広い交友関係を生かし、恋愛経験も豊富だと聞く。
容姿だって卑下することは無い。 化粧をバッチリ決め、とてもかわいい。
そんな彼女に心配されたこともそうだが、また話しかけられたことに得も言われぬ喜びを覚える。
心配そうな瞳をじっと見つめているうち、自分が固まってしまっていたことに気づき、慌てて応答する。
「だっ、大丈夫よ」
それを聞いて安心したのか、小牧は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
「あー良かった元気そうで安心したー。 いきなり顔真っ赤になってるんだもん。 ま、血じゃなくてよかったけど。 ……しかし、トマトが独りでに飛んでくるわきゃないし? 何か心当たりない?」
二宮はその問いに「ない」と答える。
しかし、これがいつもの嫌がらせと関係が無いとは思えなかった。
「最近さ、色々嫌がらせしてるって噂、よく聞くんだけど……もしかして……」
二宮は身の潔白を示すようにかぶりを振る。
「ああ、違う、疑ってるわけじゃなくて。 もしかして二宮さんも被害者なのかなー、って……ごめん、ちょっと言い方アレだけどさ」
身を案じるように小牧は自分の意見を述べる。
そこまで考えてくれていることが嬉しいと思うと同時、大きな不安と恐怖を感じる。
「絶対誰にも言わないで……!」
味方のいない中で、苦痛を訴えることに意味は無い。
見て見ぬ振り。 もしくは状況の悪化。
二宮はどちらかしか思い当たるものは無かった。
二宮の心情を察したのか、小牧は笑顔で了承した。
「ただね、確信じゃないんだけどさ、犯人ぽいかなーって奴を見たのがいて……。 そいつが……」
小牧はそこで躊躇うように口ごもる。
同時、元凶の名が唐突に出てきそうなことに二宮は激しく緊張する。
嫌な汗が滲む。
「そのー、言いにくいんだけどさ……」
――――――その名前を聞かされた時、とっさに否定していた。
驚いたように目を見開く小牧。 でもそれを意識している余裕は無かった。
「そんなわけ―――――」
だって、あり得ない。
あり得ちゃいけない。
「でも、見た奴がいるって……」
「だって……!!」
その言葉を振り払うようにただ否定する。
しかし反論するに足りる根拠も、理由も、全部私的なものでしかない。
信じたいから。
「だって、三上は……!」
あり得て欲しくなんて無かったから。




