手紙の行方その3の2 三階層・四階層の研究者達
忙しい。忙し過ぎる。
~3階~
トントントンと音を鳴らして階段を降りる音に、消えかけていた眠気が三人の背に再度忍び寄る。コアなネタで長時間語られても眠たいだけということを、この研究所に住む者達は知らない。
(うぅ・・・流石に眠たいわね・・・なんで聞いたのかしら)
(ハンマーを工具以外で使おうなんて考える奴がまさかここではそこまで偉いとは・・・な)
(アイゼン。彼なら私のバイクの工具を・・・)
三階、そこは職員の居住地や全職員が閲覧可能なファイルが保存される場所。比較的人道に反しない研究が行われ、小さな研究道具、量産品など、外部に漏れてしまっても世界のバランスが崩れないような物が作られる。
最も多くの研究者がこの階層で働き、新たな発明が日々行われる。新しい魔道具の開発はもちろんのこと、古代級と分類される過去の道具の分析や復元、魔法を使わない一般的な道具もまた、この階層のどこかで作られる。
と、此処まで聞けば真面目なところというイメージを用意に作りだせるこの階で働く者達は、国家転覆を考えた重犯罪者と、既に幾つかの国を滅亡寸前に追い込んだ実績を持つ、歩く危険人物が好みを多分に含んだ審査で選んだ者達だ。
実際のところは変わり者達の中でも異質な研究者達の溜まり場となっているのがこの名もなき研究所であり、大多数派と言えた。もちろん、日頃から真面目に職務を全うする者も少なからず存在する。
しかし、そういった者が何故『このような場所』にやって来るのか。グリエルモのように資金を湯水の如く使いまくる者もまた然り、ジャクリンことジャッキーのように未知の病気を治すためにやって来る者もまた、治療する代わりにこの研究所を辞めることは出来ない。
治療を対価に、この研究所で働き続けることを義務付けられる。それを聞いて諦める者もいれば、喜んで入るというモノもまた然り。そういった者も此処にはいる。
「室長・・・【隠蔽される聖遺物】を引っ張って来ることに成功した模様です。温かみもまだある・・・実験は成功と見て良いでしょう。この魔道具の可能性は無限と言っても過言じゃあない」
魔導具によってどこからか吸い寄せられてきた何者かの私物。ヒラヒラのレースに黒という、その私物の大きさに似合わぬ大胆な装飾の施されたソレは、着用する者の性格を良く表している。
「ブラボーだ、では今頃どこかで【隠蔽される聖遺物】を身に着けていない女児が存在するというわけだな・・・」
「ええ、そうなります。考え深いものです」
「そうだな・・・胸をくすぐられるよ。ありがとう。まさかこの研究所に来て全く同じ物に興味を持つ同士達と巡り会えるとは思わなかった」
「所長・・・」
「その夢を叶えるために邁進できるとは・・・感無量というか、っく・・・望外の喜びだよ」
「泣かないで下さい、私もです室長。次は【隠蔽される聖遺物】を身に着けていた女児の特定を急ぎます」
二人の会話は弾む。それを周りで涙を流して喜ぶ者達や、硬いハグをする者達がいることから、彼らにとってこの研究がどれほど大切なものだったかを物語っている。
「あぁ、しかしその魔道具ではそれが限界だろう。別の類似した効果を持つ魔道具をこちらで申請しておくよ。通るかどうかは分からないがね、グフフヘッ」
「心配なんてそんな、上には莫大な資金がある!私達がパンツの一枚や二枚を取り寄せる道具を作ったとしても誰も文句など言うはずがない!」
「こら君、【隠蔽される聖遺物】と言いたまえ。我々がやっているのはあくまで実験なのだよ?」
「失敬、私としたことが遂興奮して取り乱してしまいました」
室長から、強い言葉が研究員に宛てて発せられる。
「良いのだよ。初の成功だ・・・コレを世に出せばきっと私達に対する周囲の評価はとても高いものとなるだろうにな~。世に公表できない事が残念で仕方がないよ・・・」
「それが、この研究所の掟ですからね・・この研究所内の者達とで共有するとしましょう」
成功を祝う雰囲気から一変、悲しい現実に一同しんみりとしたムードに・・・。
「何をしんみりしていらっしゃいますの!?!早く私のものを返しなさい!」
一方で、パンツを奪われた女児ジーナは、ショートドレスを上から抑えながら瞳は潤ませ、口をへの字に曲げ、本気で怒っていた。眠気という油断から生まれた、パンツを剥ぎ取られるという屈辱が彼女の涙の原因だった。
「おやや?スキールニルさん、そちらの銀髪美少女は一体?ま・・・まさか、新しい仲間・・!?」
室長の言葉に、肩を組んでしくしくとしていた顔がググッと元気を出してグルリと回る。
「ジョージ?」
一人の研究者がどこから出したか分からないような声を出してカサカサとジーナに近づく。
「ジョージ?」
吊られたように目を光らせる研究者達。
『ジョージ!!!』
そんな彼女の涙の理由も知らない研究者たちは、ただただ彼女に興奮の色を示す。
「いえ違います。アレックス所長のご友人のジーナ様です」
「へぇ~ジーナちゃんかぁ・・・お姉さん達とあそばない~?」
「あそぼあそぼ~!」
ジーナに接近しようと、ジリジリと間合いを詰める研究者二人を手で追い払うスキールニル。
階段を降り、一番近くにあるここの部屋には小規模なグループが研究室を構えている。この研究室では、犯罪一歩手前の研究員たちがバレないよう日々新しい研究を重ね、より良く少年少女を愛でることを目的として動く者達が集っている。
このような危ない奴らもこの研究所では重宝され、大切にされる。何といっても、子どもを相手に出来る大人というのがまずこの研究所には少ない。実験動物として見るような輩や、単純に子供を嫌う性格の者が多いからだ。そのため、多少の行為をジャマッパから許可されていた。
「大の大人がなんですか。・・・彼方達は早く研究に戻りなさい」
『はーい』
彼女達には罪を犯すような、そんな度胸はない。しかし、ひたむきにグレーなラインを走る根性はあった。その為一度拒絶されたなら、また別のアプローチを考えようと言うのが、彼女達のポリシーだった。
「そういえば、男性の研究者の方々は・・??」
「あ、今買い出しに行っています。なんか、毎回言って貰って悪いとは思っているんです。でも、彼らが良いって言うので・・・甘えちゃって・・・」
「そうですか。八対三十三というバランスの悪さと聞いていましたが、何とかうまくやっているようですね」
「はい、もちろんです」
ミトレス王国は今に至ってはほぼ平等化したものの、帝国ではいまだに男尊女卑が激しい地域が存在し、魔族地域でもそういった地域は少なくなかった。そのため、自然にこの研究所に雇用されに来る者達の割合は女性がメインとなった。
特にこの少年少女を愛でて研究する研究室には、種族がサキュバスやインキュバスというだけで変態という汚名を着せられた者達が、偏見の目なく活動できる場所として大きな役割を担っていた。
「では、早く彼女の下着を返して下さい。このままというわけにも来ませんから」
「そ、そうですわ!早く返して下さいまし!」
「はい。コレですね。まだ温かいですからそのまま履いてもお腹を痛めないと思います。私達の作ったモノとか他に沢山あるのですが・・・」
「余計なお世話ですわ・・・」
隅でジーナが履き直す間、男のグリエルモだけが彼女の壁となって彼女達、視覚的な悪魔からその【隠蔽されるべき聖域】を守護した。
「グリエルモさん、ありがと」
「んん、・・・大丈夫か?」
「ええ。もう大丈夫ですわ。・・・まったくもう困ったものです」
ジーナは困り顔をする。実際に彼女も、大金とお母さん探しという目的だけで他はどんな場所か、どんな人がいるのかも聞かずに、ただ、目的だけを持ってやって来ていた。
そのため、知らない大人に囲まれ続けるという想像を絶する疎外感をジーナはヒシヒシと感じて、今にもその胸が張り裂けそうなほどに、今彼女は心細かった。
「スキールニルのお嬢、次に行こうぜ。彼女、最後まで見なきゃいけないんだろ?」
婉曲に、このままではジーナが持たないことをスキールニルに伝える優しき男、グリエルモ。その言葉の意味をスキールニルは理解しなかったが、男で一人というのは肩身が狭いのだろうと、別の解釈を取り、その場を後にしたのだった。
そしてその研究室を去った後、彼女達はジーナが美少女ということ以外のことが話題になっていた。
「あの子の名前、ジーナ・〇〇〇〇〇って言うらしいですか・・・」
先ほど実験を成功させた研究員が、三人に見つからぬよう鑑定した結果を室長にコッソリと話す。
「でも○○○〇〇って確か、所長秘書のマイルドさんと同じ家名です。顔のパーツも近いですから案外・・・なんて、事は流石に出来過ぎた話ですかね」
「でもそうしたら私達、マイルドさんにどう弁明するか考えないといけませんね」
「・・・・・」
スゥ・・・っと、色が抜け落ちるかのように顔の色を無くす室長。ポケェーとした顔は一体何を考えているのか・・・神さえも知ることはない。
「わぁ、酷いですよ室長。考えるのを止めないで下さいぃ!」
「知らね・・・・・怖いし・・・」
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「散々な目に会いましたわ・・・」
「申し訳ございません、ジーナ様。こちらからキッチリと言っておきますので」
「頼みますわよ?もうあんなこと絶対に嫌ですからね!」
「はい、承知しております」
スキールニルが日頃相手にしている主は、ジーナよりもずっと機嫌取りの難しい相手でありストレスの溜まる相手であるために、ジーナが例えどれほど怒っていたとしても、彼女には何の苦でもなかった。
(私の主よりも大変な御主人様なんて、いるはずがない)
というのも、アスクレオス・ワイズバッシュは使用人泣かせの生活をするために、大抵の使用人はついて周るだけでも三日で潰れてしまう。移動手段がワープでなければ彼女達の負担も激減するだろうが、予測不明のタイミングで予測不能の場所にワープする彼の使用人は滅多なことでは務まらなかった。
彼を見つける探知スキルの幾つかを所有することは前提に、彼が歩行中不意に立ち止まり、稀に座り込んで書いた紙には、アスクレオスの所有する店の取引先の名前や国家機密に指定されるような危険な毒の調合など、幅広く危険な情報が含まれるため、それを回収する技能が必要だった。
「やっぱりあなた・・・どこかで見た事があるような気がしますわ」
「気のせいですよ。ジーナ様」
「私って結構記憶力良い方なのですけど・・・」
「若い頃からそんなボーっとして、お兄さんぐらいになった時にどうするんだ?ハッハッハ」
「お、お兄さん・・・?」
「こらこら、冗談で言ったんだ。・・・ほんとだよ?」
「お気の毒に」
スキールニルの一言に胸を貫かれるグリエルモ。先ほどから気遣いが全く報われない男だった。
「冗談だって、スキールニルのお嬢!信じてくれぇい!」
「存じています」
「絶対に分かってくれてないぜ・・・」
ご主人様の前以外だとシンリーほどではないにしろ、冷たい一面を見せる。
しかしシンリーと違ったのは、転生前から彼女には戦友と呼べる同志はいたものの、友達は殺されたり、精神的に壊れたりとその数は極端に少なかった。そのため、軽い会話なら出来たものの、国籍の違う男と仲良く話せと言われると少し気が引けたのだった。
「そういえば、次はどこに向かっているんだ?」
「私達は今軸のような部分の周辺を今歩いているので、やがてこうやって真っすぐ歩いて行けば、いずれ階段のある扉の前に着きますよ」
「ほー、それにしても結構広いんだなぁ~。形は分かりにくいが、大きな八角形が縦に一本の棒を軸にして積み重なっているみたいだ」
「基本の構造はそのような感じです。ところによっては、小部屋が新しく増築されるなどと、色々まだ工事の終わっていない場所ではありますが。将来性を考えた形になっていると、アレックス所長は言っておられました」
「所長は大工もやるのかい?」
「解体の方が個人的には好きだと言っていましたが・・・モノづくりは色々されていますよ」
「スキールニル嬢はお付きでもないのに、よく所長のことを知っているんだな」
「・・・・・・・偶々見かけた際にお話を聞いたんです」
ジーナはこめかみに小さな痺れを感じ、ある一つの仮説が小さな稲妻となって脳裏を走った。
「スキールニルさん、もしかしてあなたって」
彼女の脳内で断片として霧散していた情報の数々が、ここに来て一つ、また一つと繋がり始める。上質なメイド服に客人への対応の仕方、雰囲気等々。ジーナは事の真相に一歩踏み込もうとした、その瞬間。
「あ、そういえばジーナ様。飴玉要りますか?この研究所で作られているものでとても美味しいものです。ホラどうぞ」
甘い悪魔がメイドの命令で、少女の口を余計なことを言わないようそっと閉じる。
「・・・美味しいですわ」
一つの飴玉を口内でしっかりと味わい、ころころと転がして彼女は楽しむ。その姿は歳相応の少女に見えた。
「なんかさっき言いたそうだったが・・・どうかしたのか?」
「グリエルモさん。彼方のお部屋はあちらです。覚えましたか?」
グリエルモに余計な邪魔はさせまいと、スキールニルによる介入が二人の会話を隔てる。しかし、グリエルモも気になるようで。
「お、おう。分かった。嬢ちゃんはなんもないか?」
「なんでもありませんわ。ころころころころ・・・むぐむぐ・・・ころころころ・・・」
その答えにスキールニルは危機を脱出したことを確認し、安堵した。
それから階を半周し、下へと続く階段に辿り着いた三人。この間にも様々な研究室や研究員が所属するものの、ジーナの飴玉が噛み砕かれる前にスキールニルは四階を案内する者に交代をしたかったため、二人を急かしてやってきたのだった。
自分など憶えてなどいないという浅はかな考えから生まれた偶然を、彼女は早く取り除きたいと思っていたのだ。
「ではここから下に続く階段になります」
「スキールニルさん。飴玉もう一つあって?」
「はい?・・・ああ、いりま・・すよね。はい、どうぞ」
この時この場所においてジーナはスキールニルに対して無敵だった。
「あら二つも?・・・二つも一度に食べられるかしら・・・」
「あの、一つずつ・・・あ。お二つ・・はい、・・お食べになるんですね・・はい」
「コココココロロロロロ?」
「お嬢ちゃん、リスみたいだな」
「ココロロココロロロ・・・・おいちいですわ」
「喉・・・詰まらすんじゃねえぞ?」
コクコクと頷き、舐めるジーナ。普段ならここで、子供扱いしないで欲しいとキッパリと言うジーナだったが、飴玉が二つも口の中で踊っていれば、それもまた別の話のようだった。
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~四階へ繋がる階段~
「ココから先の階層へはジャマッパさん、彼方はまだ行く事は出来ません。ですから彼方は今から二階の事務の方に向かって自分が何を実験したいのか。などの申請をして来て下さい」
「ぉおおぉ・・なんか見られて不味いものでもあるのか?」
「はい」
「気になるんだが・・・」
「いずれ彼方なら近い未来、四階に来ることになるだろうと思っています」
「ふっ―――それってよう、もしかして俺は期待されているのかい?」
「はい、出来れば彼方のような人が四階に来て貰えると助かります。最近まともな人が極端に減ったので」
「三階じゃあ見たところ見栄えするようなもんを作ってねえみたいだからなぁ・・・、あり得る話かも知れないぜ。案外よ」
「楽しみにしています。それでは」
「おう案内ありがとうな。嬢ちゃんもきーつけて」
飴玉が口に入っている状態で口を開く事を躊躇したジーナは、コクリと頷いて手頸を使って手を振った。
~四階~
上の階のような丁度良い光源とは別の、明るさが二段階ほど暗くなっている通路が続く。ジーナとスキールニルはその道を静かに歩き、途中にある研究室の扉を覗いてはそっとその扉から離れて歩いた。
「色々と実験をしていらっしゃるのね」
「ええ。何か興味を持たれましたか?」
「いいえ。だけど、この階に来てやっと、アレックス所長の研究所に来たのだという実感が持てましたわ。この暗さは彼の好み?」
「いえ、この階層にいる全てのものが強い光や音を嫌うため、このような明るさに設定されているのです」
この階に住む研究者達は・・未来の幹部候補や外部に漏れてはいけない研究を主な題材として活動をする。
「この竜のカギ爪のような跡・・・・」
「それは更にこの階の下に住む者が付けたモノらしいです。私がここに来るよりも前に出来たモノなので私は詳しくは知らないのですが」
かつて、この階で薬を飲んで暴走した化け物がいたという話を、スキールニルは以前ジャマッパから聞いていた。
かの一軒からすぐに、修繕案が提出されたものの、何時までも残しておくべきだというアレックスの言葉から、今日まで修繕されることもなく、過去の遺産として痛々しく残り続けている。
「血がそこら中にある・・・しかもまだ新しい・・・」
「実験に失敗したら当然、そうした処理も必要になりますので。直ぐに清掃班が来るはずですが・・・ああ、来ましたね」
「掃除きたんで・・はい」
「宜しくお願いします」
「うぃ」
清掃班の男は顔を伏せた状態で生返事をすると、モップを持ってゴシゴシと汚れを落とし始めた。腰を常に曲げ、猫背で髪が伸びきって目にかかっている男。しかし、その大きさは猫背にも関わらず、二百センチはある人間にしては大きな部類に入る。
ジーナはそっと肩にかけて持って来ていた弓に手を掛けていた。今までに出会ったことのないタイプの人間に少しばかり警戒心を持っているのだ。
「どうかなさいましたか?ジーナさん」
「いえ、・・・別に」
「あぁ、・・・彼ですか?ヤイナック君、少し手を止めて」
「あ・・・はい。なんでしょうか」
「彼女が彼方について知りたいようです」
「いえ、私は別に・・・」
男は血や死体から出たであろう排泄物の絡まったモップを水の入ったバケツの中につけると、ソレを壁に立てかけた。そして背筋を出来る限り伸ばそうとしているのか、木製のドアが軋むような音を立てながら腰を正し、髪を横に流すのではなく更に上から被せた。
これでは正面からは愚か、下からでさえも彼の目を見る事は出来ないだろう。
「子供が僕に興味を?・・・・ハッ・・・口を開けばノッポか巨人としか言わないような餓鬼は余り相手をしたくない」
「余計なことは言わなくて良いの、自己紹介しなさい。私にもした感じで良いから」
「アレはスキールニルさんだから・・・」
スキールニルに言われ、ヤイナックは渋々目をあちらこちらに泳がせながら、それでも決して人を小馬鹿にするような態度をとることはなく、むしろ丁寧な挨拶をした。
「・・・・っち、俺はヤイナックと言います。あー、ジーナさん。よろしくお願いします」
(何で俺子どもに敬語だよ、本当に・・・腑抜けなヤツだ)
心で思っている事とは違い、体はしっかりと子どものジーナに怯え、斜め四十五度にお辞儀をしている。
「え、ええ・・・。よろしく」
(この人の周囲だけ明かりが消えているように見えるのだけど。コレって気のせい?)
「彼は私と偶々同じ時にこの研究所に入って来たんです。ですが、まあこのような感じでずっと暗い性格の人なので。挨拶程度で余計な気遣いも必要ありません」
「そ、そんな事はないですわ・・・凛々し・・・うぅん・・・何事にも一生懸命な人に見えます」
「ジーナさんは気を遣わないで良いんです。・・・・・・どうせ言い返せないんですから。ね、ヤイナック君」
「俺だ、俺だって――――そんなことない」
「ハイハイ分かっています。やる時はやる人なのは知っていますから。もう掃除に戻って良いですよ」
スキールニルは叩き落としからの叩き上げによって、掌で転がすようにヤイナックを操る。
「おい」
「なんですか?何か用でも?」
「いや・・・」
バケツとモップを持って、今度はピーンと角材のようにその背は伸ばしたまま、遠くにある血だまりまでコツコツと歩いて行った。
「あ、そういえば。ちょっと待って下さい!」
スキールニルが思い出したように既に数百メートル遠くの血だまりで掃除を再開していたヤイナックを呼ぶ。
「・・・んだ!」
ヤイナックの出せる、最大限の声量が絶命寸前の遺言の如くスキールニルの耳に届く。
「―――ここの階を案内するはずだった!――アレックス所長の秘書さんはどこにいるかご存じないですか!?」
「・・・ない!」
二人にはどうしても彼の言葉の全てを聞き取ることが出来なかった。
「分かりました!ありがとうございました!」
「彼の秘書?」
「ええ、その手筈だったんですけどねぇ」
(アスク様の秘書をされているマイルドさん・・・一体どこに行ったのかしら。基本動かない人なのにこんな時に限って・・・)
「今の・・・アスクにソックリですわ。ねぇ、ってやつ」
「・・・・。何方のことを存じ上げているのか知りませんが、とりあえず手筈通りに事が進んでいないようです。少し確認をさせて頂きます」
スキールニルが、折りたたまれた紙を取り出し、その紙と懐中時計と照らし合わせて唸っている。それを横目にジーナはこの階を案内するというアスクの秘書に、少なからず不安を感じずにはいられなかった。
(類は友を呼ぶと言うし。きっと頭の良いだけの頓珍漢のあんぽんたんよね、不安だわ。そうだ、私のスキルでスキールニルさんの過去に秘書さんとの会話がないかのぞき見てみようかしら)
ジーナのユニークスキルは未来と過去の一週間、そして今を見ることが出来るものだ。以前アスクの素顔を偶然に知ったのもこのスキルによるものだった。そして、余りにも危険ということでアスクに目を付けられたのもその時だった。
そして、数多くの小さな積み重ねが巡り巡って現在ジーナは自分の母に王手をかけていた。
・・・スキルを使っている本人でさえ気づかない珍事がこのとき既に起きているとはまだ、当然誰も知るモノはいない。
しかし勘のよく当たる者がコレにいち早く気付き、所定の任務から逃げたしたこともまた、当人以外当然誰も知るモノはいない。
「え、え?なんでいるの!?・・・ジーナ・・・え!?何でこんなとこに!?」
丁度血だまりを掃除していたヤイナックの後ろの扉に、顔を張り付けて外の様子をうかがう影だけがそっと消えた。
早く大会開きたい。




