30 初恋、失恋、恋敵(1)
世界各国、その国それぞれの習慣がある。
エルズバーグは多国籍国家として名が知れているだけでなく、人口も然り。
『職人と商人の国』と言う別名があるだけに人口の流れがあり読みにくいが、推定として十万人はエルズバーグで生活をしていると言う。
それだけ大きければ、宮廷で全ての地域を執政ことは不可能で、東西南北に分け、そこから更に細かく分け行政を行っている。
そして──やはり、と言うか、習慣なども大きく四つに分かれていた。
その分かれた習慣の一つに『風呂』がある。
「エルズバーグは、朝にお風呂に入るのね~」
「エマさんの育った国は違うんですか?」
「うちはね~夕方から夜が多いわねえ。でもぉ、一日何回も入る人、結構いるわよ~」
「綺麗好きな方が多いんですね。エマさんを見れば分かります」
「きゃー!やだぁ~! 恥ずかしいけどぉ……嬉しい~!」
ポッと顔を赤らめ、恥じらうエマの隣に並び歩くハインは──
そのすれていない初々しい彼女の姿に
湯上がりの、ほのかに香る女の匂いに
鼻の下が伸びそうになるのを、顔の全筋肉を使い阻止し、爽やかな好青年を必死に演じていた。
(いい香りだ~ぁあ……)
抱き締めたいと悶えて震える手足を押さえ込み、エマの横にいる。
ハインは魔法を扱う者の中では珍しいタイプだ。
言えば、生前のコンラート師のような……。
英雄色を好むと言うどこかの国の謂れを信じ、そのままに実行にうつして、女性経験値は魔法実践経験値より遥かに上回っていた。
──しかし
(この気持ちは何なんだろうか?)
彼女を初めて見た時から続いている、この、胸の奥のくすぐったさ。
彼女とこうして他愛の無い会話をしているだけなのに、魔法の呪文を口ずさむより弾む気持ち。
彼女の行動・言動・仕草の全てを見ていたい。
触れたいのに──触れてしまったばかりに嫌われはしないか?と言う―自信の無い不安。
いつでも彼女を目で追っていたい。
自分の視界から消えるのが怖くて仕方ない。
閉じ込めて自分のものにしたい。
──でも、欲望のままにしたらきっと嫌われる。
今までに経験したことの無い、不安と期待に入り交じった気持ち。
でも、何故だろう?
ちっとも不快じゃあない。
初めてだ。こんな感情。
(これが恋)
これが──
恋──
生まれて初めて女性を好きになったハインであった。
*
「いけません! お入りになって下さい!」
逃げようとするロジオンの襟首をひっ掴まえ、問答無用に引きずり風呂場へ向かうアデラ。
「一日二日位、入らなくても大丈夫なのに……」
「昨日、運動して汗をかかれたでしょう! 本当はすぐに汗を流すべきなんです!」
「そんなの……濡らしたタオルで身体拭けば良いじゃない」
「それすらもされておりませんよね?」
アデラはキッと、自分が首根っこをひっ掴んでいる主を振り替え様に睨んだが──ルーカスだった。
「ひゃあああ! ルーカス殿!?」
慌てて手を離した途端、ロジオンの姿に戻り唖然とするアデラだ。
「えっ? えっ? 何? 一体何が?」
「『成りすまし』って言う幻術だよ……」
じゃあ! と、アデラの手が離れたことを良いことに、ロジオンは駆け足で逃げていったが
「マッサージ! 今夜はやりませんよー! 臭すぎて倒れるのはごめんですから―!」
とアデラが駆け足で去っていく主に大声で呼び掛けたら──
「やだ」
と速攻で戻ってきた……。
*
「手間を取らせないで下さいよ」
設置式の風呂桶には、湯気が煌々と立ち上ぼり丁度良い湯加減のようだ。
「嫌いじゃないけど……面倒なんだ。ここに来る前までは……毎日入らなかったし」
「国から国への旅と聞いておりますから、それは当たり前でございましょう? 今は定住されているのですからね。しかも育ち盛りで新陳代謝の激しい年代に……」
次々に自分の服を脱がしにかかるアデラに、流石にロジオンは慌てふためいて逃げだした。
壁にへばりつき、キョトンとした顔でこちらを見ているアデラに言った。
「自分で脱ぐから……!」
「──あ……!す、す、す、すすすすいません!」
上半身が裸の主を見て、ようやく事の重大さに気付いたアデラは同じく、ロジオンから慌てふためいて逃げた。
ひしゃげるほど、思いっきり閉めた扉の向こうでアデラは
「も、申し訳ありません! 自分の弟と錯覚してしまいました! 弟も風呂に入るのが苦手で、いつも服をひっぺがしていたものですから!」
と、慌て食っている口調で弁明した。
「……うん、そう……弟ね……ちなみに弟さんは幾つ?」
「? 十二ですが」
──十二のガキと同じ扱い……。
──来年で成人なのに……。
胸がシクシクする。
──もしかして失恋かしら?
壁に頭をぶつけ、一人落ち込むロジオンであった。
*
「手伝って貰って助かりました。ありがとうございます」
アデラは朝食後のテーブルを片付けながら、同じく片付けをしているサマンサに礼を言うと
「いいえ、押し掛け同然で滞在しているのですから、このくらい当然ですよ。どうぞ遠慮無くお申し付けください」
サマンサはゆるりとアデラに微笑みながら言葉を返した。
物静かでおっとりな魔導師の老婦人と言う印象のサマンサであったが、意外にも家事は手際が良いし、特に料理は大した腕前だった。
宮廷料理人が置いていってくれた食材と調理済みの食べ物を上手く組み合わせ、飽きない工夫をしてくれた。
「わたしね……手を動かすものが好きなのよ。料理とか手芸とか」
アデラに向ける笑顔は、本当に嬉しそうでアデラも顔が綻ぶ。
「普段からもやっていらっしゃるんですか?」
「一人でしょ?面倒で宮廷の食堂とかで適当に済ませてきたけど。……今はリシェルがいるから作っているのよ」
重ねた皿を大きな盆の上に乗せ、二人で流しまで持っていく。
自分ができる労力は魔法に頼らない──魔法を扱う者達の生活基準である。
「リシェルは何時から一緒に?」
「まだ短いのよ。一年も経っていないわ。あの子、わたしがまだエルズバーグに来る前に親しくしていた方の娘でね……。一人になって、私を頼って来たのよ……初めて会った時は、ガリガリで肌に血色は無いし髪は荒れてボサボサだしで……栄養の整った食事をさせなくては──と思って作り始めたのよ」
「そうでしたか……」
「歳月が経って、国の様子も大分変わっていたようだし、ここに辿り着くまで苦労したのは一目見て分かりました……それなのに、ひねくれた様子も見せずに懸命に私に尽くしてくれて……」
「良い子ですね」
涙を浮かべ頷くサマンサを見て、昨日見たリシェルの変貌の一片を話すのは止そうと思った。
エルズバーグに来るまでに辛い思いをし、どこか歪んでしまったのかもしれない。
(サマンサ殿と生活していくうちに、きっとリシェルの心の軌道修正がされていくだろう)
──この方の側で過ごすなら、きっと大丈夫──
アデラは穏やかな物腰の、優しい老魔導師と共に微笑んだ。
「──そう言えば……」
調理場に続く洗い場まで盆を持っていき、一息付くと思い出したのかサマンサが首を傾げた。
「ロジオン様のご様子がおかしくございませんでした? こう……常に消沈なさっていたようにお見えでしたけど……」
何かございました? ──そうアデラに尋ねられても、アデラも首を傾げるばかり。
「私も気にはなっていたのですけど……はっきりとお言いにならないのです」
「かたやハイン様は気が落ち着かぬご様子でしたし……」
「それは原因は分かっておりますから問題がありません」
鈍いアデラもそれだけは、サマンサの問いにさらりと答えた。
目下、気にするところは自分の主であるロジオンの落ち込みっぷりだ。
ドレイクに叱咤された時とは違う秋波を感じる。
(風呂に入った後なのよねえ……)
思い出してハッと気付きアデラの顔が青くなった。
(わざとではないにしろ、お年頃のロジオン様の上半身を見てしまったから羞恥で……?)
──繊細な年頃に何て事をしてしまったのか──!
(これはすぐに再度ロジオン様にきちんとお詫び申し上げねば!)
あたふたとし出したアデラにサマンサは、ますます首を傾げていると、玄関の呼び鈴の音が響いた。
「来客……?」
アデラとサマンサは顔を見合わせた。
一昨日の前夜祭のイベント扱いされたロジオンとハインの一騎討ちの後、ロジオンの父である陛下に頼み、この辺り一帯は出入り禁止にしてもらっていたのだ。
──そのはずなのに何故
揉め事の予感にアデラの胸中は大いにざわめいた。
こう言う予感は良く当たる──。
玄関に出向いたアデラは、その来客の姿を見て頭を抱えた。
「……やっぱり……。どうして嫌な予感は当たるのか……」
忌々しそうに呟いた先にはアデラの顔を見つめ、神妙な顔付きで立っているエイルマーがいた。




