第6話:テン
「この話は他言無用だぞ」
そう釘を刺され解放された鳥絵は、家を飛び出てみたものの、容赦なく照り付ける真夏の日差しに負け、すぐにその足を止めた。
そこへ、「鳥絵じゃないか」と声をかける者がいた。
呼びかけられて顔を上げると、笑みをたたえた貴世の姿があった。
「よう、じいさん。悪いけど、今、あんたの相手をしている暇はねえんだ」
一度は「貴世さん」と名前で呼んでいたところを「じいさん」と言われ、貴世の顔が曇る。
「まぁ、そう言うな。話なら聞こうじゃないか。このおいぼれが相手でもよければな」
そう言う貴世に、鳥絵はなんでも吸い込んでくれそうな、海綿のような心地よさを見た。
「さ、すぐそこに神社があるだろう。そこへ行こう」
貴世に肩を抱かれ、鳥絵は泣きたくなるような心持で、その場を後にした。
「実は俺の父上が――」
話し始めると言葉は一気に口をついて出た。
鳥絵が話しているあいだ、貴世は軽く相槌を挟む程度で、だいたいにおいて言葉少なに聞いていた。
「――というわけなんだ。俺、心配で心配で」
最後の方になると、鳥絵はもう泣きだすんじゃないかと思うほどに声が震えていた。
鳥絵の背に腕をまわし背中をさすっていた貴世であったが、話が終わるとその手を止め、遠いどこかを眺めながら、ぽつりと次のようなことを口にした。
「直訴か。なるほどなぁ。そりゃあ、大ごとだ。下手すりゃ死人が出るな」
鳥絵の目がかっと開いた。
「やめてくれよ!」
鳥絵が叫ぶ。
「ごめんねぇ。だが、本当だ」
「のほほんと商いをしてきた貴世さんには分からねえよな!ひもじい思いとかしたことねえんだろ!お気楽でいいよなまったく!」
鳥絵は貴世の前に仁王立ちになって言い放った。
見下ろすかたちとなった鳥絵の顔に、真昼の太陽がこしらえた濃い影が落ちる。
「お気楽、か。これでも苦労してきたんだがねぇ。ただ、人には恵まれたね。いや、人ではないか」
そう言うと貴世は、そばで毛づくろいをしていた猫のテンを持ち上げた。
脇の下に手を入れて、「よっこいしょ」と膝の上に降ろす。
「なに、言ってるんだよ」
貴世の言葉の真意がつかめずにいる鳥絵は、振り上げたこぶしをおろせないでいる。
テンをなでていた貴世の手が止まった。
わずかな沈黙が流れる。
「鳥絵や、このテンを、お前にやろう。この猫は幸運の猫でね、飼っていると幸福がやってくるんだ。私はもう十分生きた。先の長いお前に、テンを託したい」
貴世の言葉が分かってか、テンが貴世と目を合わせた。
二人の――いや、一人と一匹の間に、なんらかの絆が立ち現れたかのように思われた。
「いいのか?幸運の猫なんだろう?」
鳥絵がたずねる。
「ああ、いい。私は十分に幸運な人生を送らせてもらったから」
貴世はそう言うと、鳥絵を見上げてにっと笑った。
テンはそれを見とめると、すっと、貴世の膝の上から鳥絵の足元へと音もなく移動した。
神社の境内では、四方八方から耳が壊れるかと思うほどの蝉の大合唱が続いていた。
テンをもらいうけた鳥絵は、午後になると早速、テンと連れ立って、いつもの丘へと足を運んだ。
琵琶湖を見下ろす小高い場所にあって、この暑さ故か、人気はまったくない。
「どうだ、いい景色だろう。俺はここから見る景色が一等好きなんだ」
あぐらをかいた中で丸まっているテンをなでながら、鳥絵は眼下に広がる近江国を眺め、目を細めた。
その時、どこからともなく声が降ってきた。
「おぬしが次の主か」
鳥絵はあたりをみまわすが、大きな木が一本立っているだけで、まわりには誰もいない。
「私だ、テンだよ」
テン?
思わずなでていた胸元の猫を見る。
するとテンは鳥絵の足元を離れ、しばらく歩いていったかと思うと、その場で丸くなった。
何だというんだ――。
鳥絵が眉根を寄せてテンを見やった、その時であった。
一陣の風がテンを中心に四方に吹いたかと思うと、次の瞬間には、目の前に背の高いキツネ目の男が立っていた。
男は、どこの神の国から出てきたのか、神社の宮の板張りに描かれた天女のような、しゃなりとした豪華な衣服を着ている。
「わたしだ、テンだよ、鳥絵」
男は澄んだ声で言う。
鳥絵は、真夏のこの国の惨状とあまりにかけ離れた目の前の男の風貌に、しばし言葉を失った。
「これから、よろしくだねぇ。それはそうと、話は聞かせてもらったよ。あいさつ代わりにちょっと力をかしてあげよう」
男の言葉がゆっくりと耳から入ってくる。
男の言う「話」というのは、今日の昼に貴世に打ち明けた直訴の話か――。
「あ、ああ、頼んだ」
何やら人ならざる者が、他でもない鳥絵に力を貸してやると言っている。
それを拒む道理はなかった。
「承知」
男――テンはそう短く答えると、ふっとその場から姿を消した。
後に残された鳥絵は、再び明るさを取り戻した背景を、ただぼんやりと眺めていた。




