マレッタ
トールが次の滞在先に勧めたのはマレッタという南の小さな街だった。
私とナギは、行ったことのない街に行ければ満足なので、特に不満はない。
王都から遠く離れたその街へ行くには、再び長い旅程が必要だった。
「田舎に来るほど平和な感じだね。」
王都から離れるほど、人々は誘拐事件が騒がれる前のように穏やかだった。
以前と変わらず訪れる日々に安心したのか、人々は徐々に事件のことなど忘れているようだ。
不安を煽るような解放派の影も薄いので、生まれてから平和を享受し続けてきた人々がこうなるのも当然かもしれない。
「ミア様を煩わせるものがなくて何よりです。」
トールは市場で買った食料を抱えながらほほ笑んだ。
そんな私たちに向けられる視線はほとんどなく、いつも通りナギがほとんどの視線を独り占めしていた。
その視線も探るようなものではなく、ただ珍しいものが通りすぎたので思わず見てしまった、という感じだ。
「新聞は相変わらず不穏な様子だけどねぇ。」
ナギがそう言って、抱いていた私の肩をそっと引き寄せた。
新聞はなんとあの解放派が一面を飾っていた。
これまでは誰も気に留めないような小さな集まりだったのに、それほど人々に注目される存在となったようだ。
彼らが大きくなった果てに何が待っているのだろう。
形だけでも魔族に優しく接する人が増えるのは、私にとっては居心地の悪い話ではない。
けれど、解放派は革命を目論む強硬派を内包している。
なんとなく手放しでは喜べない状況だった。
記事を読み進めていると、見知った人たちのインタビューが載っていて、目を見張る。
「アイザックさんとライラ?」
アイザックさんはともかく、なんで末端のライラが記事に載っているんだろうか。
「見目が良く、孤児という話題性もある。誰から見ても邪気のない彼女は良い広告塔なのでしょう。アイザック様も強硬派を抑えるために精力的に活動しているようですね。」
すでに記事に目を通していたトールは平然とした様子で言った。
私の解放派の知り合いたちは、組織内でかなり幅を利かせているらしい。
そして強硬派のライラがアイザックさんと並べられているところを見る限り、強硬派と穏健派は変わらず力の均衡を保っているようだった。
「ミア様、世の中で何が起ころうとも、私たちはきっとこれまでと変わらず暮らしていくでしょう。私は当然のこと、ナギもずっとミア様お傍にいるでしょうから。」
トールはそう言って、たまに見せるキラキラした笑顔を向けてきた。
「……確かに。」
私の生活はこの二人と共にいれば、どんな場所だろうとそれほど変わらないだろう。
私は綺麗なものを描き続けて、トールは生活を豊かにすることに邁進する。
ナギはその日常を守るためにいくらでも魔法を使う。
周りがどんな状況になろうが、街でも森でも以前と変わらず生きていけそうだ。
私は新聞から顔を上げると、美しい夕焼けに視線を移した。
マレッタは事前に聞いていた通り、小さな田舎町といった様子だった。
あまり有名なものはないが、強いて言えば農業が盛んなようで、街のいたるところに畑が見える。
白壁と赤い屋根の家がぽつぽつと点在し、わずかながら人が住んでいるようだった。
外壁の外には海も森もあり、強い魔物が生息しているらしい。
そのため、冒険者ギルドは小さいもののやたら豪華だった。
高ランクの冒険者を呼び込むために必死なのだろう。
そして、何より贅沢なのは宿だった。
なんと宿屋に行って案内されたのは、小さいながら独立した家だったのだ。
「家一軒、丸ごと貸し切り?」
私の驚いた様子に眉一つ動かさず、受付の魔族は私にカギを渡すと去っていった。
土地が余っている割に人が少ないせいだろうか。
それとも、貴重な高ランク冒険者の長期滞在を促すためだろうか。
「ここまでしても、あんまり人が来ないんだね。いいところなのに。」
「高ランクの冒険者など効率主義の塊です。これほど遠いところに、わざわざ足を運んで仕事をしたりしないのでしょう。」
トールはそう言って肩をすくめた。
王都からマレッタはとてつもなく遠かった。
「こんな辺境の街まで、トールはよく知っているねぇ。」
ナギが感心した様子で言った。
「私はおそらくこの辺りの出身で、幼いころはこの街の畑で働いていたのです。冒険者として大成した暁には、ミア様にこの宿に泊まっていただきたいと思っておりました。」
「そうだったの?」
このトールがこんなのんびりした街で育ったとは不思議な感じがする。
そして最終的に王都まで流れ着いたあたり、さすがだと思う。
意図的にそうなるように仕向けたに違いない。
誘拐事件の後から私たち3人は常に傍を離れることはなかった。
トールとナギがギルドの仕事をするときも、私が街のスケッチをするときもいつも一緒だ。
私も伴わなければいけないためか、トールはいつもより仕事のペースを落としていた。
今日なんて、ナギが二度寝に誘ってきて、思わず私が頷いたせいで、トールまでベッドでダラダラする羽目になっている。
「トールってダラダラできたんだ。」
夜でもないのに隣に広がる茶色のサラサラの髪が珍しすぎて、思わずそう言った。
頼まなくても働いていたような人だ。
彼が何もせずにいる様子は初めて見たかもしれない。
「ミア様が望まれることは何でもいたします。それに……」
「それに?」
トールが不自然に言葉を止めたので続きを促す。
「ミア様に休むよう望まれることは無上の幸せです。おこがましいことに、何もしなくても、傍にいて良いと言われている気がするのです……」
「私、そんなに働いてほしいオーラ出してた?」
「いいえ。決してそのようなことはありません。ただ、働いていないと私が不安だっただけです。私は働くことでしか、自分に価値を感じられなかったので。」
私はトールの頭を撫でた。
ふわふわの耳が触れて気持ちいい。
トールは目を細めて受け入れている。
「ふふ。どうぞ心行くまでご堪能下さい。今日は何もせず、ダラダラしましょうね。」
「うん。」
トールの耳をフニフニと触っても、全く抵抗する様子がない。
お返しとばかりに、頭を撫でられて髪の毛の先をクルクルと弄ばれる。
「ミア様も、こうして何もせずにいるのは苦手でいらっしゃいましたよね?」
確かに私も、暇さえあれば散策をしたり絵を描いたりしていた。
二度寝など以ての外だ。
目が覚めたのに、わざわざ布団にとどまってウトウトするなど、以前の私からは考えられないことだった。
「二度寝なんてする人の気が知れないと思っていたけど、意外といい気持ちだね。」
トールに頭をゆったりと撫でられて、手には暖かくて心地いい感触。
私はいつの間にか夢の世界に引き込まれていった。




