いなくなった子供
両親は私の育児を魔族に任せていて、ほとんど顔を合わせたことはない。
私を育ててくれたのは母の魔族である、リーシャだった。
彼女は妙齢のウサギの獣人で、私のことをよく世話してくれた。
私はほぼ顔を合わせない両親より、リーシャのことを母のように慕っていた。
それは5歳になって教育が始まり、魔族の扱いについて学んでからも変わらないことだった。
ある夜、めったに顔を合わせない母が、私に妙なお願いをしてきた。
「お父様に紅茶を持っていってほしいの。」
母はめずらしく私に笑いかけてそう言った。
「どうして魔族に頼まないの?」
「お父様は、あなたに持ってきてもらった方がうれしいからよ。」
「ふーん。」
私はちっともピンとこなかったが、母が用意した配膳用のカートを押して、父の部屋に向かった。
「どうした、ミア。こんな夜に。」
父は不思議そうに私を迎え入れた。
ソファに座る彼の横には美しい鳥人の魔族がもたれかかっていた。
「お父様に紅茶を淹れにきたの。」
紅茶を淹れたのなど生まれて初めてで、結構めんどうだった。
「おお、そうか。お前も随分と大きくなったものだ。」
父は笑顔でそう言って、一瞬で紅茶をすすった。
「ミア。私はお前にかまう暇はないが、この竜を貸してやろう。お前は私の娘だから特別だ。」
そう言って示されたのは、父が良く連れて歩いている竜人だった。
頭から黒い角が生え、瞳孔は縦長。爪は鋭くとがっている。
背中には蝙蝠のような羽が折りたたまれていた。
「ありがとう、お父様。」
神秘的で美しい生き物を貸してもらえることに、私は喜んだ。
私は竜人を部屋に連れ帰った。
竜人を見たリーシャは顔を引きつらせる。
「な、なぜ竜人がここに?」
「お父様が貸してくれたの。きれーだよね。」
私はそう言ってうっとりと笑った。
黒い髪にルビーのような赤い瞳のとても美しい男だった。
「お名前は?」
私は竜人にそう尋ねた。
彼は首を横に振る。
どうやら名前を言いたくないらしい。
「じゃあ何て呼べばいい?」
また首を横に振る。
「呼ばれたくない?」
首を横に振る。
「しゃべらない遊び?」
竜人は軽く口を開けて、舌を指さした。
彼の舌は切られていて、しゃべることができなかったのだ。
「うわぁ。牙がある。すごーい。」
私は彼がしゃべらない理由が分かると、今度は違うものに興味が湧いていた。
次の日も、紅茶を持っていくように言われた。
父は昨日と同じように竜人を貸してくれた。
「触ったら、怪我しちゃう?」
私は竜人の鋭い爪の生えた手を見て言った。
彼は首を振ると、私の頭を爪が触れないように器用に撫でた。
私は目を見開く。
誰かからこんな風に触れられるのは初めてだったのだ。
「……えへへ。もっと。」
私がふにゃふにゃした顔でそう言うと、竜人はまた私の頭を撫でた。
次の日、私はルンルンでカートを押して、父の部屋に行った。
「飽きないのか?」
父は呆れた様子で、昨日よりゆっくりと紅茶を飲んだ。
「飽きないよ。」
私がそう言って満面の笑みを見せると、父は少し驚いた顔をした後、いつもとは違う笑い方をした。
「そうか。」
父が紅茶を飲み終わると、私は一目散に竜人の方に向かった。
「すっかりお気に入りだな。」
父はまた笑う。
「だめだった?」
そういえば、今日はまだ貸してやると言われていない。
私は断られやしないかとドキドキしながら父を見上げた。
「いや、いずれお前のものになるのだ。好きにするといい。さあ、私は忙しい。お前は部屋に戻りなさい。」
私は部屋を追い出された。
父はいつも遊ぶのに忙しいのだ。
部屋を出てすぐ、ガタン、と大きな音がした。
不審に思って、父の部屋のドアをノックする。
「う、うう……」
扉の近くからうめき声が聞こえて、私はドアを開けた。
父がドアの近くでうずくまっていた。
「お父様?大丈夫?」
私は焦って身を起こさせようとする。
父は私を突き飛ばすと、ベッドに座る鳥人の方に手を伸ばした。
「ううう……」
父は懸命に手を伸ばす。
けれど、鳥人は動かない。
魔族は命令されなければ動きません。
私は付き飛ばされて呆然としながら、お勉強で習ったそんな文言を思い出す。
父が何も言わなくなって、伸ばした手から力が抜ける。
鳥人はぐっと伸びをして、窓から羽を広げて飛んで行った。
私は咄嗟に竜人の首元を確認する。
首輪から模様が消えていた。
「行っちゃうの?」
私はとっさに彼の手を掴んで引き留めた。
竜人はのんびりと私の頭を撫でた。
ひとまず彼が窓から飛んでいかないことが分かって、とりあえず父のことを知らせなければ、と母の下に向かう。
途中で何度も、模様のない首輪をした魔族にすれ違った。
母の部屋の扉は開け放されていて、母の叫ぶ声が聞こえていた。
母と、母をかばうように立つ母の魔族たち。
彼らの前に首輪の契約が切れた父の魔族が対峙している。
「どうして私を襲うのよ?契約から自由になったのだから、どこへなりとも消え失せればいい!」
母はそう言って、じりじりと後退する。
母の前には母の魔族が何人も守るようにして立ちふさがっている。
その首輪はすべて赤く光っていた。
リーシャもこの中にいるのだろうか。
背の低い彼女を、私は目を凝らして探す。
「お前を殺せば同胞が助かる。この機会に、仲間を解放したいと思うのは当たり前だろう?」
トラの獣人はそう言って笑った。
バカにしたような笑みだった。
「……冗談でしょう?そんな高尚なことを、魔族風情が考えられるはずがない!でもいいわ、すべての私の魔族に命令する、夫の魔族をすべて殺せ。」
母はヒステリックに叫んだ。
その瞬間、母の首が飛んだ。
「ああ、ありがとうございます。ありがとうございます。」
口々に礼を言う魔族たち。
これで、この場にいる魔族の首輪の模様は、すべて消えた。
私は驚愕と恐怖の入り混じった視線を、後ろに付いてきていた竜人に向けた。
私の母を殺したのは彼の魔法だったのだ。
部屋にいた魔族たちは次々に窓を抜け出していく。
人の重なりが減って、私はようやく一番大事な人の姿を見つけた。
「リーシャ、あなたも行ってしまうの?私も一緒に連れて行って!」
私は何を捨てても彼女と一緒にいたいと思った。
「ぬるま湯しかしらない愚かな人間。私がお前と一緒に逃げる?何をバカなことを。」
腕に縋りつく私をリーシャは強い力で突き飛ばした。
地面に転がった私は、呆然と見上げる。
彼女の瞳には、何の感情もなかった。
私に向ける、何の情もなかった。
「バカで可哀そうな人間の子供。お前は悪意がないから、きっと上手く毒を盛れると思った。」
父に対して悪意はなかったが、好意もなかった。
毒見もさせずに紅茶を飲んだ父は、それが分からなかったのだろうか。
「リーシャ、何してる。速く行くぞ。」
トラの獣人がそう声をかけた。
「ああ。すぐ行くわ。」
そう言って、リーシャは私に向かってナイフを振りかざした。
私は目を見開いて、その光景を見ていた。
次の瞬間、リーシャの首が飛んだ。
「え」
彼女の目線は、私の横へ向き、そして私を向く。
それが、彼女が初めて私に何かしらの感情を寄せた瞬間だった。
彼女の首は母の首のところまでゴロゴロと転がって、やがて砂のように崩れ落ちた。
その中に、小さな赤い魔石が光っている。
私たちはこんなにも違う生き物だ。
人間が魔族を何をしてもいい低俗な生き物と思うのと同じくらい、魔族も人間を何をしてもいい低俗な生き物だと思っている。
バカな人間の子供は何も気づかなかった。
母に命じられて私の世話をする彼女は、ずっと私のことなどどうでも良かったのだ。
恐ろしく頭の良い彼女は、この屋敷の人間のいびつな感情と、魔族たちの圧倒的な力の差に気付き、利用した。
いや、もしかしたらそのいびつな感情さえ、彼女が作り上げた幻想だった可能性もある。
何も見えていなかった私には分からないことだが。
私は魔族たちが我先にと外へ出て行くのを、床にへたり込んだまま見ていた。
事の顛末を知っている私に、もう襲い掛かる者はいない。
彼らがすべて出て行くまで、私の隣には圧倒的強者がいた。
彼は爪で傷つけないように慎重に私の頭を撫でる。
私はもうそれに安易に喜んだりなどできなかった。
必死に見て、考えていた。
この人は私の味方か、敵か。
そうしている間に、竜人は窓枠に手をかけて、暗い夜の空に消えた。
私は夜が明けるのを待ってから、警備隊に通報した。
駆け付けた警備隊は屋敷の中の状況に絶句する。
「あなたはこの屋敷の子供ですか?何か知っていることはありますか?」
警備隊の獣人がそう言った。
「私はここに捨てられた。何も知らない。本当に、何も。」
嘘ではない。
獣人は私の話をあっさり受け入れると、主人である人間の下に報告に行く。
そうして私は孤児院に送られた。
両親は知人にも身内にも子供のことを話していなかった。
私を見かけたことのある近所の人も、どこかの家に引き取られたのだと思ったことだろう。
子供を公表しなければならない義務はない。
意図的にしろ、偶然にしろ、人に言わなければ子がいることなど案外ばれないものだ。
私は孤児院で成人を迎え、貴族として家督を継ぐ権利は失効した。
いない者のように扱われていた子供は大人になって、本当にいなくなったのだ。




