手放す
「来なさい。」
ヨルの部屋がノックもなしに開けられたと思ったら、お館様に手を取られる。
怒ったような声色におびえた様子を見せると、彼は気を取り直したように微笑みを見せた。
「客の前に出すだけです。安心なさい。」
私に目線を合わせて、羽でそっと私の頬を撫でる。
しかし、意外だ。
もう商品として客前に出されることはないと思っていた。
やはり人というものは見かけだけでは信じられないものである。
「待て。」
向かいのカウチに座っていたヨルが立ち上がる。
机の上に広げてあったスケッチブックを丁寧に閉じて、私の手に持たせた。
ついでのように反対の頬を羽で撫でられる。
「行きますよ。」
お館様はそう言って私の手を引いた。
ほとんど入ったことがない客間は、この屋敷で一番豪華な造りだ。
けれどそんな部屋になど決して負けない、美しく艶やか人魚は、その顔に魅惑の笑みを浮かべていた。
ナギだ。
私の傑作を身にまとい、契約済みの首輪を付ける姿は、以前と全く変わりない。
誰と契約したのだろうか。
私との首輪の契約は切れているはずだ。
どうやら私を知らない体で話を進めるらしく、二言三言よそよそしい会話をする。
そうしてナギが金貨を取り出したのを見て、私は途端に不安になった。
トールはどこにいったのだ。
いや、2人とも私との首輪の契約は切れているので、本当に助けてくれるかは定かではない。
けれど、この状況的にどう考えても私を取り戻そうとしている。
それなのにこの人選はいったいどういうことなのか。
ナギがお金を使ったのはジャガイモを買いに行った一回きりだ。
「それは人間が使っているお金ですね。」
「そう。でも君たちには必要なのではない?」
久しぶりに聞くナギの声は相変わらずくらくらするような魅惑の声だ。
交渉を有利にするためか、いつもよりさらに、その密度が濃い気がする。
「よくお分かりで。確かに私たちはそういったお金も必要です。それも大量に。」
彼らは私の情報をある程度知っていた。
おそらく街の人間とつながりがあるのだろう。
その際に大量にお金が必要ということか。
「そうだろうねぇ。では、どれくらい渡せばその子と交換してもらえるのかな?」
ナギはいかにも分かっていましたよ、という様子で笑った。
この世間知らずがそんなこと予想できていたのだろうか。
私はそう思ったが、お館様は油断ならない者を見るような様子だ。
「残念ながら、これはそう安い値段では売れません。」
「ふふ。ではこれではどう?」
そう言って、ナギはローブの内側からさらに金貨を出した。
量としてはAランクの依頼1回分の報酬くらいだろうか。
実は奴隷の相場は私にもよく分からない。
支払いに人間のお金を使う人はいないので、基本的に魔石や高価な物と物々交換なのだ。
お館様はとくに表情が変わらないので、これが少ないのか多いのかも分からない。
「ふふ、欲張りすぎてしまったね。ではこれでどう?」
ナギは何もかも理解した様子で、金貨を足した。
机の上の金貨は一気に30倍くらいになった。
Aランク冒険者の自分からしてもかなりの大金だ。
「奴隷一人に対しては大層な額ですね。けれどこの奴隷が他とは比べ物にならないことはお分かりでしょう?」
お館様はそう言ってほほ笑んだ。
どうやらナギの提示した額は良い線行ってるらしい。
あのポーカーフェイスからよく分かるものだ。
「ではこれでどう?」
ナギはそう言って平然と大量の金貨を足した。
この大金はどこから出ているのだろう。
もし私の財布からだとしたら、全財産の半分くらい失いそうだ。
「……。」
お館様は黙っている。
「君、この子を売る気がないね。いや、連れてくるまでは手放せる気でいたけれど、いざ手放すとなると、そんなことはとてもできないと気付いたんだね。」
ナギはそう言ってとても美しい笑みを浮かべた。
私はこの人選は完璧だったのだと理解する。
これは単なる売買のやり取りではなかったのだ。
400年人と駆け引きをして生きてきた人魚に、北の地で引きこもっている翼人が勝てるはずもなかった。
「そんな、ことは……」
お館様は言葉を失って、口を手で覆った。
そうして、ナギのそばにいる私を見る。
アイスブルーの瞳が困惑を表すように揺れていた。
「一度知ったら、手放せるはずもない。そばにいるだけで魔法のように世界を変えてしまう、賢くて可愛い人だもの。」
ナギは立ち上がって私を腕の中に仕舞うと、小さく呪文を唱えた。
「その模様。お前、この娘の人魚か。それにその首輪は。」
どうやらお館様には模様も首輪も見えていなかったらしい。
そういえば幻影魔法は人間には効かないのだった。
「遅くなってごめんね、主様。あぁ、泣かないで。」
ナギはそう言って私の頬につたった涙に口付けた。
怖かった。
彼らの気が変われば、いつ死んでもおかしくない状況だったのだ。
機嫌を損ねれば鞭で打たれていたかもしれない。
最後の方は明らかに気に入られていたが、人の気はいつ変わるか分からない。
ナギは泣いている私の顔を隠すように、胸元にそっと押し付ける。
頭をゆっくりと撫でられて、私はさらに涙を流した。
「それで、いくらで売ってくれるのかな?もう彼女が愛しくてたまらないのでしょう?けれど君では彼女を幸せにはできないよ。彼女のためを思えば、手放してくれるね?」
酷く穏やかなその声は、私が一番聞きなじみのある声だった。
「その娘はここを気に入っていた。日々変わる景色に飽きることはないと……」
「だからといってずっとこの雪景色に閉じ込めておくの?君だってこの子の絵を見たのでしょう?外の世界に憧れたはずだ。それは酷く。」
私はナギを荷馬車に閉じ込めていた頃、彼がよくスケッチブックを見ていたことを思い出した。
「屋敷の外にだって、別に連れ出せる。」
「どうせここら一帯だけでしょう。どこまで行っても似たようなもの。」
誰も彼も、ここに住む魔族たちは皆、この場所に飽きていた。
「この羽で空に連れて行くことも、温かく包み込んでやることもできる。」
お館様の言葉に、それは魅力的だな、と思った。
頭を撫でていたナギの手がぴたりと止まる。
「そう。主様は彼の羽がお気に入りなの。では、首輪を付けてあれも連れて行く?でも仕事はすべてトールがやるし、主様の目を楽しませるのも、耳を喜ばせるのも、私で事足りるでしょう?ただのごくつぶしになってしまうから、羽だけもいでしまおうか。」
ナギは私に顔を上げさせて、ニッコリとした笑みをぶつけてくる。
私はブンブンと首を横に振った。
そんなグロテスクなものはいらない。
「……そうまでしてこれの傍にいたいのか。1度外れた首輪を付けてまで。」
お館様はそう言って、ナギの首元をにらんだ。
「この首輪は、私にとって呪縛ではない。付けているだけで、主様が世界で一番信頼を寄せてくれる便利な道具。君には一生分かるまい。この複雑で尊い人が安心して私の隣で眠ってくれる幸福が。」
ナギは首輪に触れて得意そうに言った。
お館様は困惑したようにナギを見ている。
「私の言葉が理解できない?この子の弱いところも、冷たいところも、優しいところも、全然見せてもらえなかったんだね。君は一生信頼なんてされない。君の前で彼女は泣いた?震えた?多分、震えを無理やり止めておしゃべりしてくれたんじゃないかな。君が仲良くなったと思い込んでる、今もね。」
ナギは私の体をくるりとお館様の方に向けて、手を離した。
長髪の翼人を目の前にした私は、ナギに全てバラされてガタガタと震えていた。
「……寒いだけです。ずっと。ここは寒いところだから。」
私はそう言って笑った。
アイスブルーの瞳はしばらく私と目を合わせ、そして悲しそうに伏せられた。




