ランタナ
「へぇ、これが宿小屋なんだねぇ。」
ナギが興味深そうにマットレスを押している。
私たちはヴァルノワを出て最初の宿小屋に到着した。
「荷台の方が快適なのではない?」
ナギはヴァルノワに行くまで一切荷台から出さなかったので、宿小屋は初めてだった。
「ではナギは荷台で寝ていいですよ。」
「嫌だよ。私もここで寝るに決まっている。」
ナギは肘をついて我が物顔でベットに寝そべった。
トールは黒い微笑みを見せると、キッチンに向かう。
夕食の準備にとりかかるようだ。
「ずっと思っていたことがあるのだけど、私が来る前は夜寝るときどうしていたの?トールは結界魔法を使えないよねぇ。」
ナギが来てからは毎夜、結界の魔法をかけるよう命令している。
そのため私はトールに命令して添い寝してもらうなどという子供じみたことをせずに済んでいた。
「あなたなら薄々気づいているのではないですか?」
トールは鍋をかき混ぜながら言った。
「予想が外れたらいいなと思って聞いたんだよ。トールはずっと主様の隣で眠ることが許されていたのだから、当分私がベットを使ってもいいと思わない?」
ナギは色気たっぷりに聞いてくる。
人間が1人しかいないので、宿をとってもベットは一つしかない。
ベットは2人ならギリギリ寝れるが、3人は無理だ。
そのため、毎回どちらかが床で寝る羽目になっていた。
私は全員がベットで眠れないので、宿の魔族用の部屋を使うか聞いた。
魔族用の部屋は、魔族専用の寝室で追加料金を払えば利用できる。
しかしトールによると、どうせ床か床より硬いベットで眠るハメになるらしい。
そんなわけでいつもなら今日はナギが床で寝る日だったのだ。
「今日は誰も来なそうだし、2階のベットで寝ていいよ。」
宿小屋はいくつか並んで建っているが、人が多いときは1つの小屋を共有することもある。
今夜は他の小屋が空いているので誰か来ることはなさそうだ。
「1人は嫌だよ。」
「じゃあトールが一緒に寝てあげれば?」
私は結界があるなら1人でいい。
「命令でない限り絶対に嫌です。」
トールはそう言って皿にスープを取り分ける。
「それにその理論で言うのなら、私しか持っていなかったミア様の1番近くにいる権利を、私はあなたに分けて差し上げた。これ以上何を譲れと言うのですか?」
そういえば彼は最初、ナギを連れて行くのに否定的だった。
「スープに入ったニンジンとか?」
「それなら私があげるよ。」
別にニンジンは特段好きなわけでもない。
「いけません。ミア様はそれをちゃんと召し上がってください。ナギ、ニンジンが食べたいなら勝手におかわりしてください。」
「トールからもらうから面白いのに。」
ナギはそう言ってくすくす笑った。
ランタナは港町だ。
人生で初めて見る海は他の何とは比べようもない不思議なものに見えた。
深い青が遠くまで広がっている。
外壁に波が当たっては跳ね返り、絶えず白い泡が広がる。
吹き付けるかぜは喉に張り付くような独特な香りだ。
水は風で絶えず波打ち、キラキラと日差しを反射させる。
外を眺めるためにカーテンを開けていると、遠くから楽器の軽やかな音が流れてきた。
「ああ、いい音だねぇ。」
ナギが音楽に合わせて歌い出す。
知っている曲のようだ。
「人魚は歌声で人を惑わすと言います。」
御者台のトールが歌声を邪魔しないよう囁いた。
隣に座った人魚は歌いながら、艶やかに微笑む。
私の傑作は日の光の下で最大限に本領を発揮し、神々しく色とりどりの光を揺らめかせる。
遠い昔、人魚が壁に区切られていない広い海で、誘うように歌うところを想像した。
確かに、どんなに危険だと分かっていても、触れたくなってしまうかもしれないな、と思った。
ランタナには食料の補給のために立ち寄ったが、私とナギは戦力外なので、街を見て回ることにした。
海沿いの道を歩いていると、砂の地面が現れる。
それはしばらく続くと海へと繋がっているようだ。
「歩きにくい。」
柔らかい砂に足がはまって前に進むのが難しい。
「魔法で浮かせてあげようか?」
「大丈夫。面白いから。」
砂の感触が足から伝わってくるのは初めての感覚で楽しかった。
「そうだねぇ。」
私たちはゆっくりと海の方まで歩いていく。
近くで見る海は浅いところと深いところがあるようで、場所によって青の濃淡が違った。
砂の地面に向かって波が近付いたり遠ざかったりしている。
絶えず動く水は近づいたらうっかり濡れそうだ。
「慣れたら魔法で乾かしてあげる。」
ナギがそう言うので、私は恐る恐る海に近づいて触れてみる。
「思ったよりぬるい。」
「そうだねぇ。」
ナギは両方の手を水につけている。
感触が違うのだろうか。
鱗のある方の手が海に浸かるのを見て、私はふと思ったことを言う。
「ナギの足は元々尾ひれだったの?」
あまり詳しくはないが、人魚は元は下半身が魚のような魔族だと知っている。
「生まれた時は足じゃなくて尾ひれが生えていたみたい。けれど物心ついたときからもう足になっていたからねぇ。薬で変えているそうだよ。」
ナギは遠い昔すぎて覚えていないのか、他人事のように言った。
「祖先がこんなところで泳いで暮らしていたなんて信じられない。私は泳ぐこともできないのに。」
おっとりと笑う彼は別にそのことを特段悲しんでもいないようだった。
「外壁の外はどんななんだろう。」
壁の中だけでこれだけ広いのだ。
外に出たらどれだけ広いのだろうか。
私は色々なものを見ているようで、実際は街の中と整備された道しか知らない。
「 行ってみればいいのではない?魔物は多いだろうけど、守ってあげるよ?」
ナギが不思議そうな顔で言った。
「Aランク以上の冒険者になるか、騎士でも連れてない限り行けないよ。」
騎士は王族や領主が所有する魔族だ。
個人が利用できるものではない。
「だからトールはあんなに働いているんだねぇ。まぁ、単純にあの仕事がとても好きというのもあるのだろうけれど。」
「どうだろう。良い宿に泊まるためかもよ?」
私がトールを働かせるのは、生きるためだった。
トールが働くのは彼の利益のためだったはずだ。
あの頃のことを考えると、私たちは王都へ戻っているのに、なんだか随分と遠くへ来た気分になった。




