わーくに、らいふ、ばーさす。 ~あるいは、ワークライフバランス~
――月曜日・会社の早朝会議
「……という訳で、先週末に政治家の偉い人が『ワークライフバランスを捨てる』という覚悟に満ちた発言をなされたことに感銘を受けたので、我が社でも全面的にその理念を導入していくこととする!!」
突如、脈絡なく告げられた経営者陛下の発言を受けて、全社員一同からいっせいに怒号と悲鳴が飛び交う――!!
「マ、マジかよ……!!これからは"滅死奉光"の理のもと、己自身の存在すら討滅する勢いで働くしかねぇのか~~~ッ!?」
「お、おしめぇだ……労働基準法という秩序の光は完全に潰えた以上、オラ達にこれ以上出来ることはないっぺよ……」
「こうなったら、父祖から受け継いだ田畑を売り払ったお金を会社様に貢ぎましょうね……♡」
オフィスが阿鼻叫喚の地獄絵図と化す中、ただ一人ほくそ笑む経営者。
……このままなす術もなく、不当な労働環境に甘んじるしかないのか、と皆が絶望し諦めかけていた――まさに、そのときである。
「……ヤッタ~~~ッ!!経営者陛下直々の御達しが降ったことだし、これで堂々と"ワークライフバランス"を捨てて全力で生きられるぜ!!」
絶望に覆われたはずの職場に響き渡るあまりにも場違いな歓声。
それを聞いた皆が一瞬静まり返る中、いち早く理性を取り戻した部長が盛大に声を張り上げる!!
「貴様ッ!!皆がこれから始まる大暗黒時代を前に陰鬱たる気分を抱え、悶え苦しみ、涙する只中において、何を不謹慎にはしゃいどるんだッ!!恥を知れ!――一体、何奴ッ!!」
聞いている者の心胆を寒からしめる部長の怒声。
だがそれに対してもまったく怯むことなく、場違いなほどに陽気な青年は堂々と名乗りを上げる。
「冷奴、ってね!……俺の名前は新入社員 一彦。今年の春からここに入社した期待のニューフェイス、ってヤツさ!」
"新入社員 一彦"。
そんな彼の名前を聞いた瞬間、これまでの絶望とは異なるどよめきが一同から沸き立つ――!!
「し、新入社員 一彦、だとぉ~~~!?名前の通り、未だ社会の荒波を知らぬ命知らずな野郎だぜ~~~!!」
「それよりも経営者陛下の御前にも関わらず、何たる不遜な態度!!風通しの良い職場が一転、リストラの嵐が吹き荒れる修羅の港になることは想像に難くなしッッ!!!!」
「フフフッ……でも、案外あぁいうヤツが今の時代に新たな旋風を巻き起こすのかもしれないわね……♡」
あまりにも常軌を逸した一彦の名乗りを前に、それまでの社会人としての常識を粉砕されてしまった歴戦の企業戦士達が耐え切れずに恐慌状態へと陥る事態となっていた。
そんな中でも、平然と――否、これすらも単なる娯楽と言わんばかりに愉悦に満ちた笑みを浮かべながら経営者は狂騒したオフィスの光景を眺めていた。
――このまま行けば、理性なき暴動に発展し大惨事を引き起こしかねない。
にも関わらず、一彦は混乱する社員と悪辣たる経営者を前にしながらも一切動じることなく、堂々と己の意思を告げる。
「みんな、何をそんなに慌ててんだ?――『ワークライフバランスを捨てる』ってのが本当なら、これからはせせこましいバランスなんて気にせずに、仕事よりも自分の生活優先で人生を謳歌出来るってことなんだぜ!!」
一彦の発言を受けた瞬間、一同に衝撃が走る――!!
「た、確かに経営者陛下は『ワークライフバランスを捨てる』と仰ったけれど、『生活ではなく仕事の方を優先しろ』とは明言していない!?社畜根性が骨身に染みすぎていて、こいつぁ盲点だったぜ~~~!!」
「ス、スゲェ!?俺達の固定観念という大和魂はここに潰え、新入社員がもたらす意識改革という黒船を前にむざむざ首を垂れるより他になし!……ってことなのか~~~!?」
「でかした、新入社員!!不都合な真実に気づいたお前はこの後すぐにリストラされるだろうが、そんなお前に託された分まで、俺達が定時退社と有給消化を使いこなしてみせるぜ!!」
――恐怖、絶望、諦念。
それまで場を支配していた空気を、一彦は瞬く間に歓喜と希望へ転換することに成功していた。
さらにそれだけで終わらないと言わんばかりに、余裕の笑みで一彦はオーディエンスへと答える。
「へへっ、心配しなくても俺なら大丈夫だぜ!!――何故なら、今から俺が経営者を倒しちまえば、リストラなんて出来ねぇからさ!」
歓声から一転、今度はいっせいに絶句する企業戦士達。
この短時間の間にあまりにも目まぐるしく感情が激変している社員達だが、それも無理はないだろう。
資本主義という理においては、勝ち残った者こそが正義。
それでも最低限の社会道徳や法律があるものだが、それらは経営者自身が『ワークライフバランスを捨てる』という政治家の発言を悪用することで社員達の人権を剥奪しようとした時点で、自ら放棄したも同然となっていた。
それにより、本来なら許されない一彦による蛮行ともいえる挑戦に対しても、道徳や法律で守られることなく己自身で向き合うことを余儀なくされたのである。
ここに来て初めて、経営者の顔に焦りの表情が色濃く浮かび始める。
「クッ……舐めるなよ、小童がぁッッ!!!!」
瞬時に右手を突き出し、掌からリストラ属性を帯びた不可視の斬撃を解き放つ。
――その間、コンマ二秒。
だがそれよりも早く、接近した一彦の拳が経営者の顔面にめり込む――!!
ミシッ……!!と音を立てる中、一彦がまっすぐ経営者を見据えて口を開く。
「俺達は――かならず、分かり合えるッッ!!!!」
刹那、一彦の両拳による連撃が経営者の肉体へと降り注いでいくッ!!
「グアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」
ドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴドゴッ!
豪快なラッシュ音とともに、一彦が渾身の魂の叫びを上げる。
「俺達は……分かり合えるんだァァァァァァァァァァッ!!」
「グアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
一彦の猛烈な気迫と殴られ続けながらも鬼の形相で絶叫し続ける経営者。
現状、一彦が圧倒的に優勢的に見える。
だが経営者には長年をかけて築き上げてきた人脈と財産、そして老獪さからくる経験側などがあるため、一彦のタフネスが尽きてこの持たざる者としての無軌道さから来る暴力の時間が終わってしまえば、その瞬間に彼の社会的生命は一撃で刈り取られるほどの戦力差が依然として存在していた。
ゆえに、長期戦になるほどに己の死が近づくため、一彦は超短期決戦で決着をつけるしかなかった。
にも関わらず、今の彼は――。
「……駄目だ!新入社員のヤツ、あまりにも時間をかけすぎている!!」
「こ、ここまで来た以上、新入社員が経営者陛下を仕留めきれなかったら、アイツだけじゃなくて直前までそれを支持していた俺達全社員の首が斬られてもおかしくはないぜ!?」
「……もうダメぽ。思考回路を明日からのナマぽライフに切り替えるように心がけなきゃならん段階に来とるんかもしれんね」
激昂する両者とは裏腹に、動揺を隠しきれない周囲の社員達。
かと言って割って入ることも出来ず、このまま手をこまねいているしかないかと思われていた――まさにそのときであった。
「――新入社員のヤツだけに投げっぱなしじゃ指導係の俺の立つ瀬がねぇ!!ここは俺に任せろ!!」
そういうや否や、一彦の先輩にあたる継続 力也が勢いよく社長向けの嘆願書を書き始めていく――!!
「オイ、継続!俺達の進退がかかった状況だってのに、今さらそんなことをしたところで一体何になるってんだ!!」
「いや、待て……こ、これは!?」
すぐさま周囲の社員達は力也の異変に気付く。
それも無理はないだろう。
何故なら力也は、机に座って文章を書く傍らで右足を小刻みに踏み鳴らしていたからである。
一見すると、単なる貧乏ゆすりにしか見えない行為。
だが、これは――
「ま、間違いない!!継続の野郎、"文"と"踏み"を掛け合わせることで見事な"掛詞"を体現しやがったんだッ!!」
自分達の眼前で繰り広げられる衝撃的な光景と、それをたった一人の男が成しているという覆しようのない事実を受けて、社員達がいっせいに沸き立つ――!!
「オゥ!It's fantastic Japanese"KAKEKOTOBA"!サイコーデ~ス!!」
「イマッペイペー!」
「ち、ち、ち~~~んwww」
力也の機転により、阿鼻叫喚の地獄絵図だったはずのオフィスが瞬時に満員御礼のディスコ空間へと早変わりする。
それにより今なお戦い続けている一彦の活力になるだけでなく、"職場"という形ですべての社員達を支配してきた経営者の力場そのものを崩すことにも成功していた。
「――これが、俺達の"相互理解"の力だァァァァァァァァァァッッ!!!!」
一彦がトドメの一撃となる右拳を経営者の顔面へと振り上げる。
これで決着かと思われた――その瞬間。
「――ッ!?クッ、やむを得ん……こうなれば、奥の手を使うまでよッ!!」
「――何ッ!?」
一彦が拳を振り下ろすよりも早く、経営者の両掌から怪しき光が迸っていく――!!
「ウアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
それを受けた瞬間、一彦がオフィス全体に響き渡るほどの絶叫を上げ始める。
断末魔を思わせるほどのけたたましい大声量を前に社員達はみな思わず耳と目をふさぎながらその場に座り込んでしまった。
……そうして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
永劫とも一瞬とも判別がつかぬ中、それでも社員達が恐る恐る目を開くと……そこには信じられない光景が広がっていた。
「――ッ!?か、一彦くん!!」
直前まで生存るか滅亡るか寸前の殺し合いをしていた一彦と経営者。
だが、そんなことがまるで悪い夢だったかのように、一彦は経営者の眼前で呆然とした表情のまま己の両掌を確かめるかのように開閉を繰り返していた。
何が起きてるのか、分からず困惑する一同を前に一彦が呟く。
「一体、どうしちまったんだ俺は……さっきまであれだけ腹の底から漲っていたはずの力が、影も形もなくなっちまった……!?」
一彦の発言を受けて絶句する一同。
超短期決戦で仕留めなければならなかったこの局面において、経営者を前に無防備な姿をさらすとはもはや自殺行為そのもの。
経営者もそれを理解しているの、獲物をなぶる捕食者が如くニヤニヤしており――さらに、彼が告げたのは衝撃的な事実だった。
「クククッ!……ワシはこれまでの経営者としてのノウハウを活かして小童、貴様から暴力を"搾取"してやったのよ!!」
「何ッ!?お、俺から暴力を不当に吸い上げた……ってのか!!」
経営者から告げられた絶望的な真実。
それを前に一彦だけでなく周囲からも「そんな……」と落胆と失望が入り混じった声が漏れ始めていく。
そんな皆にさらに追い討ちをかけるが如く、経営者は言葉を続ける。
「これにより小童は二度と"暴力"を用いることは出来ず、残った搾りカスが如き活力で日々代わり映えのしない労働に従事せざるを得なくなったという訳よ!!……じゃが、ワシの方も代償はデカかったがな」
「……代償、だと?」
経営者の発言に怪訝そうな表情を浮かべる一彦。
そんな彼を見やりながら、経営者がウム、と頷く。
「……ワシが数十年蓄積してきた許容量を上回るほどに貴様の暴力があまりにも凄まじかったせいで、ワシはこれ以上"搾取"を行えば己の存在そのものが破裂する事態に陥ってしまったのじゃよ……!!」
ゆえに、と経営者は告げる。
「このまま"搾取"をし続ければ、ワシは確実に命を落とす羽目になる!!――よって、これからは全社員から毎月徴収してきた控除額15万円をすべて無効とし、手取り倍増、ノー残業並びに有給消化率120%超えの仕事を捨て去った生活最優先の経営方針とするッッ!!!!」
圧倒的な暴威とともに告げられる驚異の『ワークライフバランスを捨てる』発言。
皆が気圧されそうになるものの――それも一瞬のことであり、すぐさまオフィス全体を揺らすほどに歓声が沸き立つ。
「ウオォォォォォォォォォォッ!!流石だぜ、経営者陛下!俺は一生アンタについていくぜ~~~!!」
「灰色の社会人生活にこんな爽やかエンディングまっさかりな神スチルに到達出来るなんて……!一彦くん、本当にありがとう……!!」
「イマッペイペ~~~!!」
そうして、皆に胴上げされながら満々の笑顔でその想いに応える一彦。
"暴力の喪失"というあまりにも大きすぎる代償を払うことになったが――不思議と一彦の胸中には、喪失感よりもこの光景にたどり着くことが出来た"誇り"のようなものに満たされていた。
『わーくに、らいふ、ばーさす。 ~あるいは、ワークライフバランス~』 完
――新しい未来は、己の力で掴み取るんだぜ!
by 新入社員 一彦




