幸せなおじさん
ほろ酔い気分で家に帰り、リビングの扉を開けると、パジャマ姿のりっちゃんが出迎えてくれた。
薄いピンクのパジャマにくるまって、ソファのそばで片付けの最中みたいだ。
テーブルの上には綾ちゃんのおもちゃの積み木と、食事会の残りのお皿が少し残ってる。
「ただいま、りっちゃん」
「あ、おかえりなさい、まーくん」
パタパタとスリッパの音を立てて近づいてくるりっちゃん。
お風呂上がりなのか、髪が少し湿ってて、頬がほんのり赤い。
「ふふ、まーくん、赤木さんとのデートは楽しかった?」
「デートって、まぁ、楽しかったよ」
「元気になったみたいでよかった」と、にこっと笑うりっちゃんが、綾ちゃんそっくりのにへ〜、とした顔で俺に抱きつこうと腕を広げる。
でも、ふと顔が曇って、俺との距離があと数歩のところでピタッと止まる。
「…まーくんから、美味しそうな匂ひがする」
「あ、うん、赤木くんと焼き鳥屋に行ってたからね」
「え、いいなぁ! 私も焼き鳥食べたい!」
「はは、じゃあ今度3人でどう? それか、テイクアウトでもいいし」
「いいねぇ! お店の焼き鳥なんて久しぶりだよ!」
「肉は正義ー!」なんて言いながら、りっちゃんがその場でくるっと一回転する。
パジャマの裾がふわっと揺れて、楽しそうな笑顔がこっちを向く。
「綾ちゃんが生まれてから外食とかしてなかったからねぇ」
「そろそろ綾ちゃんも外食デビューしようかな?」
綾ちゃんが生まれる前は、二人でよく近所の定食屋や居酒屋に行ったっけ。
「あそこの焼き鳥屋さん、赤ちゃん大丈夫かな?」
「そうか、煙があるか…だめかも」
むむむ、と眉を寄せたりっちゃんが、スマホを手に持って『焼き鳥屋 赤ちゃん』と検索し始める。
その真剣な横顔を見ながら、俺はそっとりっちゃんの頭を撫でる。
「あ、もうお風呂入ったんだよね?」
「うん、先に綾ちゃんと入ったよ」
「ありがとね。ごめんね、一人でさせちゃって」
「ふふ、ワンオペ育児は疲れるぜぃ」
「もっと無でたまへ」と頭をグリグリしてくるりっちゃんを、「ありがたや~」と軽く撫で返す。
湿った髪から甘いシャンプーの香りが漂ってきて、ほろ酔いの頭がじんわり温かくなる。
「ん、いい匂いだね。シャンプー変えたんだっけ?」
「うん、この前美容院で勧められたやつだよ。…ちょっと高かったけど」
「あぁ、『これ一本であやちゃんのオムツ何個分っ!?』って嘆いてたもんね」
「うぅ、大事に使うので許してくださいー」
りっちゃんが笑いながら俺の腰に手を回して、ぎゅっと抱きついてくる。
柔らかい体温が伝わってきて、ほろ酔いの気分がさらにふわっとする。
「あんまりくっつくと焼き鳥の匂いがうつるから、先にお風呂入ってくるね」
「今夜のまーくん、色々な意味で美味そうだなぁ…。ん、はーい、ごゆっくりね」
りっちゃんが背伸びして、唇に軽く触れるだけのキスをしてくる。
ニコッと笑う顔が近すぎて、頬の赤みがよく見える。
俺はそのままお風呂に向かいながら、りっちゃんの笑顔が頭に残るのを感じた
☆★☆★
お風呂から上がって、リビングに戻ると、りっちゃんがソファでスマホを弄っていた。
片付けは終わったみたいで、薄いピンクのパジャマにくるまって、膝に綾ちゃんのクマ柄のクッションを抱え、ソファの背もたれに寄りかかってる。
小さな指がスマホの画面を軽く滑らせると、ブルーライトがりっちゃんの白い頬を淡く照らす。
テレビは消えてて、代わりに綾ちゃんのおもちゃ箱から漏れるオルゴールの音――『キラキラ星』のメロディーが、途切れ途切れに部屋に響いてる。
窓の外からは夜風がカーテンをそっと揺らし、白いレースの裾がチラチラと動くのが目に入る。
「お、早かったね、まーくん。さっぱりした?」
りっちゃんがスマホから目を上げて、にこっと笑う。
テーブルに置いたスマホの音が、コツン、と響く。
「うん、匂いも取れたかな?」
「どれどれ、嗅いであげるから座って座って」
りっちゃんがソファの自分の隣を小さな手でタシタシ叩く。
俺はソファのいつもの定位置――左端の少しへたった部分――にドサッと座り、りっちゃんの隣に体を寄せる。
すかさずりっちゃんが顔を近づけてきて、クンカクンカと鼻を鳴らす。
吐息が耳に当たってくすぐったくて、首を少しすくめると、りっちゃんの髪が俺の耳に触れて余計にくすぐったい。
「どうですかね?」
「うーん、ほのかに香ってますねぇ。シャンプー9、焼き鳥1って感じ」
「強いな焼き鳥」
「うん、焼き鳥は強いのよ」
りっちゃんが目を細めて笑うと、頬に小さなえくぼがちらっと見える。
お肉が大好きで、毎晩のように鶏モモや豚バラをモリモリ食べてるのに、華奢な肩と細い腕がパジャマの中で揺れるのが不思議だ。
「そうだ、綾ちゃんの様子見てきたけど、ぐっすりだね。ほっぺたプニプニしても起きなかった」
「うん、今日はたくさん遊んでたくさん食べて、お疲れかも。あ、ねぇ、聞いて! お風呂の途中でね、突然コテッと寝落ちしちゃったんだよ? ふふ、可愛かったぁ」
「あー、見たかったな、絶対可愛いやつだ。赤ちゃんて体力がゼロになるまで全力で遊ぶから、いきなり落ちるんだよね」
綾ちゃんが湯船でコテッと寝落ちする姿を想像すると、ふふっと自然と顔が緩む。
早いもんで、綾ちゃんが生まれてからもう1年4ヶ月だ。
小さな体でハイハイしてた頃は、ソファの下に潜り込んで出てこなくなったりしてたのに、今じゃ短いアンヨでトテトテ歩いて、リビングの絨毯に足跡みたいなくぼみを残す。
「あー」とか「うー」としか言えなかった小さなお口が、ぷっくり膨らんで「ママ!」「パパ!」って一生懸命叫ぶ声は、毎朝俺を起こしてくれる目覚ましだ。
昨日まで積めなかったブロックが今日は3つも重なってたり、毎日新しい驚きがあって、パパとママは嬉しさで胸が弾けてるよ。
でも、もうハイハイで俺の膝に登ってくる綾ちゃんは見れないのかと思うと、絨毯に残った小さな手形が懐かしくて、少しだけ切なくなる。
……あぁ。
俺、今、間違いなく、人生で一番幸せだ。
毎日、りっちゃんと綾ちゃんがいてくれるだけで、幸せのピークが更新されていく。
リビングの壁に貼った綾ちゃんの落書きや、りっちゃんが置いた観葉植物の緑を見ながら、二人に感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
……あとは、俺が仕事に就ければ完璧なんだけどなぁ。
この幸せを続ける為に、頑張らなきゃいけないな。
二人でダラダラとソファで他愛無いことを話したり、スマホをそれぞれいじったりと思い思いの時間を過ごす。
りっちゃんは俺の膝枕でソファに寝転がり、クマ柄クッションを胸に抱いて、ベビー用品のサイトを眺めてる。
時折「ふぁ…」と小さな欠伸が漏れて、目をこする手がパジャマの袖に隠れる。
膝に置かれた頭の重さが心地よくて、俺は無意識にりっちゃんの髪を指で梳いてしまう。
俺は膝に置いた手を軽く握って、反対の手でスマホをスクロール。
赤木くんとの話を話さなきゃいけないのに、つい探索者のサイトに目が行く。
安心したいのか不安なのか自分でも分からない。
窓の外から吹き込む夜風がカーテンを揺らし、オルゴールの音が途切れると、りっちゃんの小さな寝息だけが耳に届いてる。
りっちゃんが本格的に寝る前に、いい加減そろそろ話さないとって、スマホをテーブルに置く。
ガラス製のテーブルにコツンと軽い音が響いて、りっちゃんが「ん?」と顔を上げる。
「ねぇ、りっちゃん。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「ん? 何、まーくん。そんな真面目な顔してどうしたの?」
りっちゃんが目をパチパチさせて起き上がり、クッションを膝に下ろして俺の方に体を寄せてくる。
膝に置いた小さな手がひんやりしてて、さっきまで握ってたスマホの熱が冷めたのが分かる。
じっと見つめてくる瞳は少し眠そうで、長いまつ毛がチラチラ揺れてる。
俺は緊張で喉が詰まりそうになるのを堪えて、目を逸らさずに続ける。
「…今日さ、美怜ちゃんが遊びに来たんだよね?」
「うん、そうだよ。みーちゃんね、あやちゃんといっぱい遊んでくれてさ。ブロック積んだり、お絵描きしたりしてたの。綾ちゃん、みーちゃんの膝にくっついて離れなくてさ…ふふ、私まで癒されたよ」
りっちゃんが思い出し笑いしながら、ソファの背もたれに寄りかかる。
「そっか、綾ちゃんのこと可愛がってくれたんだね。…赤木くんの姪っ子なんだよね、あの子」
「うん、そうだよ。みーちゃん、私の大事な友達でさ。明るくて優しくて、綾ちゃんも懐いてるから、見ててほっこりするよ。帰る前に赤木くんのこと『叔父さんって適当すぎて笑える』って言ってたけど、今日は楽しそうだったなぁ」
俺が会社勤めしてた時は、時々家に来たりして遊んでいたみたいだけど、俺とはほとんど面識がない。
結婚式のお祝いの席で、みーちゃんが「まーくんさん、お幸せにね!」って笑いながらシャンパンを渡してくれたのを、ぼんやり覚えてるくらいだ。
「美怜ちゃんて、探索者ギルドの受付嬢やってるんだって? 赤木くんから聞いたけど」
「うん、そうだよ。確か隣の市にあるギルドでやってるはずだよ。あの、お城のところの」
「あー、そういやあそこにあったな、ギルド」
お城の近くにできたダンジョンは、灰色の石門が地面から突き出てて、周りにギルドの看板が立ってるのをニュースで見た記憶がある。
「それがどうしたの? 珍しいね、まーくんが私の友達のこと聞くなんて」
「え? そーかな?」
「うん、まーくんて、あんましそういうの聞いてこないじゃん? 興味ないのかなって」
いや、興味ないわけじゃないんですよ?
ただ、少しどうでもいいだけで。
それはそれとして、さて、ちゃんと話さないとな。
俺は少し貯めた息をゆっくり吐いて、膝に置かれたりっちゃんの手をそっと握る。
指先が震えてるのに気付いて、慌てて力を入れると、りっちゃんの冷たい指が俺の熱で温まるのが分かる。
「実はさ、今日、赤木くんと飲んでて。ほら、昨日言った、探索者の話になったんだよ」
「え、探索者って…あれ、やっぱり本気だったんだ?」
俺の手の中で、りっちゃんの小さい手がぎゅっと握られた。
細い指が俺の指に食い込んで、少しだけ痛い。やっぱり、探索者なんて不安にさせてしまっただろうか。
「えっと…本気かも。赤木くんとの話の流れで、明日ギルド行って話聞いてみようか、ってなってさ」
りっちゃんが目を丸くして、今度は俺の手を両手でぎゅっと握ってきて、弾みでソファのクッションが膝から滑り落ちた。
ポスッ、と床に落ちた音が妙に耳に響く。
「それで、赤木くんの姪っ子、美怜ちゃんがギルドで受付やってるって話しになって」
「そっか、それでみーちゃんのこと聞いてきたんだね?」
「うん。今、赤木くんが美怜ちゃんにLINEで色々聞いてるとこらしくてさ、後でまた詳細は伝えるって。『新人試験の調整しといたよ、見学できるかも』って返信来てたよ」
りっちゃんは少しだけ目を伏せて、唇を噛む。
「ねぇ、まーくん。…本気で探索者になるの? あの、まーくんが? え、ダンジョンて危ないんだよ? 知ってるよね?」
りっちゃんの声が少し震えてて、握る手に力がこもる。
ソファの背もたれに寄りかかったまま、目を逸らさずに俺を見つめてくる。
頬がほんのり赤くなってて、さっきのお風呂の熱がまだ残ってるみたいだ。
「危ないのは知ってるよ。今日も昼間に少し調べたし、ネットで分かる大体のことは把握できたと思う」
「それでかぁ、昼間も綾ちゃんと遊びながらちょいちょいスマホ覗いてたもんね」
「あ、ごめん。綾ちゃんにも悪かったかな」
「もう、何か見てるかと思えば。綾ちゃんと遊ぶ時はスマホ禁止だよ?」
「ごめん、探索者の事が気になっちゃってつい。配信動画とか見てたんだよ」
俺が俯くと、りっちゃんが俺の肩にそっと頭を乗せてくる。
サラサラの髪が首筋に触れて冷たくて、シャンプーの甘い香りがほのかに香る。
「ふぅ…まーくんらしいね。1回気になるととことん調べたいんだもんね。でもさ、私、焦らなくていいよって言ったじゃん」
「うん、そうなんだけどさ。それがねぇ…甘えたらそのままダメになっちゃいそうでさ。綾ちゃんもいるし。焦っちゃうよね」
りっちゃんが俺の頬に手を当てて、ぐっと顔を上げさせる。
柔らかい指先が少し湿ってて、触れた頬にひんやりした感触が残る。
目の前でりっちゃんの長いまつ毛が揺れて、瞳が少し潤んでるのが分かる。
「まーくん、聞いて。あのね、ダメになってもいいんだよ。私はまーくんの頑張ってるとこ、ずっと見てきたんだから。まーくんは自分に厳しすぎるよ。もっと楽に生きよ? 少しくらい甘えたって、もう誰もまーくんを怒ったりしないよ?」
「それは…はは、今日、赤木くんにも同じようなことを言われたよ。『生きづらくねぇ? 俺みたいに適当に生きれば?』ってさ」
「赤木くんも心配してくれてるんだよ。親友なんだから。明日ギルド行くなら、心配で赤木くんも来ちゃうかもね?」
「はは、マジか。そしたら賑やかになりそうだな」
りっちゃんがクスクス笑って、俺の肩に寄りかかったまま目を細める。
リビングの暖かいオレンジ色の灯りがりっちゃんの顔を照らして、頬の赤みがより鮮やかに見える。
ソファの背もたれに沈む小さな体が、俺の肩に軽くもたれてくる。
「でもさ、私、昨日も言ったけど、まーくんが何を選んでも受け入れるよ? 探索者でも、別の仕事でも、まーくんが頑張りたいなら応援するから」
「…りっちゃん、ありがとな」
俺は握ってた手をぎゅっと握り返して、りっちゃんの目を見る。
潤んだ瞳が揺れてて、胸が締め付けられる。
指先がりっちゃんの冷たい手に絡まって、少し汗ばんでるのが分かる。
「明日、ギルドで話聞いてくるよ。ちゃんと決める前に、家族で話し合いたいんだ」
「うん、そうして。綾ちゃんのためにも、無理だけはしないでね?」
りっちゃんがそっと微笑んで、俺の頬に触れてた手を下ろす。
クッションを拾って膝に戻しながら、小さく頷く。
クッションの柄のクマの目がこっちを見てて、綾ちゃんの寝顔が頭に浮かぶ。
「赤木くんも『ビールうめぇ!』って笑いながら応援してくれてたよ。適当な奴だけど、俺のこと分かってくれてるんだなって」
「ふふ、赤木くんらしいね。…明日、どんな話になるんだろうね?」
りっちゃんが膝のクッションをぎゅっと抱きしめて、俺の肩に頭を預ける。
窓の外から吹く夜風がカーテンを揺らし、オルゴールの最後の音が消えて、リビングに静かな時間が流れる。
テーブルの上に置かれた綾ちゃんのクレヨンが、灯りに照らされて赤く光ってる。
「そうだな。ちょっとドキドキするけど、りっちゃんと綾ちゃんがいてくれるなら、なんとかやれる気がするよ」
「うん、私も楽しみだよ。まーくんの新しい一歩、応援してるからね」
りっちゃんが顔を上げて、俺の目をじっと見つめる。
唇が小さく開いて、吐息が白く見えるくらい近くて、ほろ酔いの頭がまたふわっとする。
俺はそっとりっちゃんの肩を抱いて、クッションごとぎゅっと引き寄せた。




