第1章 COVID-19軽症事件
あれは流行が一度落ち着いた頃のことだった。
街からあの独特の緊張感が消え、マスクを外して歩く人もちらほら見かけるようになっていた。私は職場でも「もう峠は越えたね」という会話を何度か耳にしていたし、自分もこのまま落ち着いていくのだろうと思っていた。
それでも、ある朝の喉のざらつきが、じわじわと体温計の数字を押し上げたとき、あのウイルスの名前が脳裏に浮かぶのを止められなかった。
37.6℃。検査キットの赤いラインは、あまりにあっけなく現れた。
医師に連絡し、オンライン診療で症状を伝える。相手は慣れた口調で「軽症ですね、数日で下がると思いますよ」と言った。
その言葉どおり、熱は二日目の朝には平熱に戻り、体のだるさもほとんどなかった。職場の規定で数日は自宅待機を余儀なくされたが、私はソファでアニメを見ながら時間を持て余していた。
だが、その1か月前、兄が感染したときはまるで違っていた。
同じ家で育ち、年齢も近く、生活習慣だって大差ない兄は、高熱が何日も続き、味覚と嗅覚が失われたまましばらく戻らなかった。ワクチン接種の回数も同じだったのに、二人の症状はまるで別の病気のようだった。
なんとなく……運や体力では片付けられない何かがある気がした。
保健所からの聞き取り電話で「症状には個人差があります」と説明された。もちろんそうなのだろう、と頭ではわかっている。けれど、あの回復の速さと、兄の苦しみの対比は、どうしても単なる偶然だけとは思えなかった。
そんなモヤモヤを抱えたまま過ごしていたある日、大学の公開講座で耳にした言葉が引っかかった。
「ネアンデルタール人の遺伝子が、COVID-19の重症化リスクに関係している」
スライドに浮かび上がった『ネアンデルタール人』という文字は、会場の蛍光灯の白さと相まって異様に冷たく見えた。
講師はその研究結果をスライドに示し、少しジョークを交えつつ続けていた。
もしそれが本当なら——私と兄の症状の差は、数万年前の遺伝子の違いにまで遡ることになる。
そして、心の奥にもう一つの声が囁いた。
これは偶然ではなく、“選別”の痕跡なのではないか。