序
アハハ、アハハ。
どこからともなく子供の笑い声がする。幼い子供。
アハハ、アハハ。
姿は見えないのになぜだろう、すぐそばにいるような気がする。そう、そこに。手を伸ばせば届きそうなほど近くに。だがどれだけ手を伸ばそうとも何にも触れられなかった。子供どころか木の一つ、草の一つも無いようで、おまけに辺り一面濃い霧に覆われていた。
遊ぼうよ、遊ぼうよ。
子供は姿がないまま呼んだ。どこにいるの。思わず声に出し一歩踏み出す。遊んであげる、どこにいるの?
こっち、こっち。
子供の声を頼りに歩き出す。右、左……いや、後ろか?
振り返ると霧の向こうに一瞬人影が見えた気がした。小さな子供の姿。考えるより先に走り出す。上も下も無いようなこの場所で。
こっち、こっち。遊ぼう、歌を教えてあげる。
いる。確信とともに伸ばした手が何かにあたって足を止めた。もう一度歩き出そうとしてもこれ以上先に進めない。まるで見えない壁に邪魔をされているようだ。
大丈夫?
声は聞こえる。聞こえるのに届かない。あと一歩もないほど近くにいるはずなのにもどかしい。ごめんね、先に進めないの。
そっか、そっか。いいよ、そこで聞いてて。
松が一本ありまして
毬を突くお子二人
三度闇夜に華が咲き
死から逃れた蝶が舞う
不思議な歌。数え歌?
どうだろう?あなたならわかるはず。
いつかの月に願いをかけて
紅い呪いを解きやんと
七つの光は天地を返す――
切りの悪いところで子供は歌うのを止めた。もう終わり?七までしかないのかい?
……ここから先はあなたがつくるの、ちゃんと助けてあげてね。期待してるよ、『リク』。
それだけ言って子供は消えた。元から姿形は見えなかったが、はっきり消えたのだと分かった。辺りの霧が一段と濃くなった。
「……ク……リク……リク!」
はっとして目を覚ます。どうやら眠っていたらしい。それにしてもここは……
「何ボケっとしてるんですか。まさか『ここはどこ?あたしは誰?』なんて言うんじゃないでしょうね」
……この地味に腹の立つ言い方……さては
「シキか。さすがにあたしは誰とは言わないけど、ここはどことは聞きたいかな」
シキ。初対面のほぼ全ての者が抱く第一印象はまず間違いなく美青年。例えるなら平安貴族だろうか。烏帽子はないし雅要素も持っていない平安貴族。見た目だけ。だが切れ長なのに大きい青い目はそんじょそこらの娘達を落とすには十分だ。追加で長い髪を高く結っている。袴のようで袴ではないややこしい服はこの世で彼一人しか似合わないだろう。
「ここはどこと言われましてもねえ、私は知りません。あなたなら周り見ればわかるんじゃないですか?」
無責任な奴め。よく知らない家に上がり込めたね。
たが確かにここはあたしの知っている場所だった。昔ながらの建築。広い部屋には囲炉裏が一つのみ。本当に何も無い。外は相変わらず夜のままで物音の一つもしない。ということは……
「西側の万屋だね」
「万屋、ですか。にしてはすっからかんですけど」
シキがちらっと部屋を見て最もな指摘をした。
「そりゃそうさ、西側なんだから。栄えてるのは東だけ。何とは言わないけどいろんな欲が渦巻いて結果派手になる。西は真逆だ」
東と西。栄える街と廃れた街。万屋は東西にあるが西は名ばかり、万どころか一つも物が無い。
「お詳しいこと」
「褒められてることにしとくよ」
シキの皮肉に適当に答えつつ意識は先程の子供が歌った歌に向いていた。松が一本ありまして。この始まり、どこかで聞いたことがあるような気がする。でも、どこで?……自力では思い出せないほど深いところ。水の底に沈めた、燃やせない記憶――。
「リク?」
「ん……あぁ…ごめん、何だって?」
危なかったかもしれない。シキが連れ戻してくれなければ自分の中に沈んでいっていた気がする。だが良かったと思う一方であと少しで思い出せていたと少し腹が立ってもいた。
「いい加減目覚ましてくださいよ。何の夢見てたんです?」
「…………夢……そっか、夢か……夢……。うん、夢。子供の夢」
なぜか言われるまであのことを夢だとは思えなかった。夢、か……。夢ねえ……嫌な予感がする。
「子供?どんな」
「知らない。声しか聞こえなかった」
あたしは教えてもらった歌をシキに歌ってやった。一言歌う度に全身に鳥肌が立つようだったが我慢してなんとか歌い終えると、シキはいつの間にか銅剣(文字通り銅銭を弾くことで剣になる)を手の上で弄んでいた。
「それ久しぶりに見た」
シキは何やら考え事をしているようで何も言わなかったが、しばらくしてからやっと聞こえるような小声で呟いた。
「これから嫌というほど使う羽目になりそうですけどね」