4. 歌姫たち
色々な場所で、色々な時に、色々な歌姫が
霧が晴れたあとのデヒティネの航海は、また順調なものに戻った。
最初は自分たちの状態に驚いた乗組員たちも、二、三日もすると、何ごともなかったかのように通常業務に戻った。
シルフィからすれば、なんだか肩透かしをくらったような気分だ。
しかし、しかたのないことなのかもしれない。
あの異様な状態のあいだ、当の本人たちは意識がなかったのだ。
そのせいで、現実味がいまいちないのだろう。
前にピーティーが怪談めかして言っていた話を思い出す。
『いつのまにかいなくなっている』というやつだ。
今回のデヒティネには、たまたま女であるシルフィが乗っていた。
どうもあの歌は男にしか魔力を発揮できなかったようだから、普通は男しかいない船なら、全員が意識を操られるのだろう。
だから、人魚たちに連れ去られた男たちの記憶が、誰にも残らないのだ。
怪談めいたあの話の真相は、たぶん、そういうことなのだろう。
まさに今、ぴんと来てないらしい乗員たちの態度を見ていると、それもわかる気がした。
ただ、ケリーソンだけは違った。
最初にまず、シルフィの報告を真剣に受け取った。
いつのまにか時間が経っていたこと、何人かはロープに繋がれたまま、船の側面に意識もなくぶら下がっていたことなどを合わせて考えると、嘘を報告しているとは思えない、と判断してくれた。
それになにより、シルフィがそんなウソをつく人間ではない、ということも。
最後の決め手は、船首像のレイディだった。
人魚たちの歌声に惑わされていたのは彼女も同じだったが、どうやら人間が意識を取り戻すよりすこしだけ早く、その魔力から抜け出せたらしい。
『たしかに、ベーコン抱えた人魚たちが、はしゃぎながら離れていったのを見たよ』
そう、証言してくれたのだ。
レイディは、この船と言う小さく完結した世界の、船長に並ぶ柱の存在だ。
彼女の言葉を、疑う者などいなかった。
そして。
シルフィの話が真実のものだと認められた、そのとたん。
突然、船を救った英雄として、みんなにやたらと大物扱いされるようになってしまった。
それまでは、いくら貴重な風呼びとはいえ、しょせん経験不足の下っ端ふぜい、という扱いだった。
それが一気に変わり、正直、照れくさいうえにくすぐったい。
さらには、現実的というか、仕事上での待遇も変わった。
褒美として今後の給料の三割増しと、週に一度、船長と同じ特別メニューの食事をしていいことになったのだ。
これは、素直に嬉しかった。
***
そんな風に過ごして三日め、デヒティネは目的だったグゥリシア大陸の中西部、鮫牙湾に着いた。
湾を代表する港カプ・ゥキャンに補給のため二泊することが決まると、水夫たちは久しぶりの陸の時間を満喫しようと、大はしゃぎで下船する。
シルフィも、ゲイルに連れられて降りた。
初めての国外の港に、戸惑いつつも興味津々だ。
久しぶりの微動だにしない地面に、なんだか平衡感覚がつかめない。
そう考えると、下船した水夫たちが街をふらふらと歩き回っているのも、もしかしたら、酔っ払っていることだけが原因ではないのかもしれない。
カプ・ゥキャンそのものは、こぢんまりとした港だった。
そもそも、鮫牙湾じたいもあまり大きくない。
周辺の海流が複雑なせいか、立ち寄る外国船はあまり多くはないのだろう。
停泊している船も、近海向きの中型から小型のものがほとんどで、地元の利用が中心に見える。
そういった事情からか、シルフィの住んでいたアーンバラに比べると、かなり素朴で、親し気な雰囲気だった。
建物の造りにしても、そうだ。
内部の見えない、四角いレンガの建物だらけだったウィロウ地区に比べ、この港の周辺にある建築物は、かなり開放的な造りのものだった。
木の柱に、編んだ草をかぶせた屋根、壁も同じように草を編んだものを壁にしているか、細い棒を隙間を開けて並べたものが多い。
蒸し蒸しする暖かい土地では、そうやって風を通りやすくすることが優先されるのだろう。
生活の知恵、というやつだ。
宿も三軒ほどしかなく、ようやく最後に空いている部屋を見つけたのは、一階が飲み屋と食事処を兼ねている、騒がしくてしかたがないところだった。
ここにしたって、部屋の壁は他と同じような造りなので、防音にはなんの役にもたたない。
とにかく、地面にじかに寝るよりはましだ、と割り切るしかなかった。
取った個室に荷物を置き、置いてあった水差しとたらいを使って、海風の塩がこびりついた顔を洗うと、すこしはマシな気分になる。
食事を取ろうと階下に降りると、食堂はすっかり、気分よく酔っぱらったデヒティネの連中で大騒ぎになっていた。
船ではほとんど酒を口にしないゲイルも、さすがに陸地では羽目をはずすようで、珍しく加わっている。
酒のなみなみと注がれたカップを手に、いつになく真っ赤な顔だ。
さらには、外からも勝手にどんどん人が入ってきて、ちょっとした市のようになっていた。
商売女や、商魂たくましい売り子たちが、これ幸いと売りこみにきているのだ。
なにしろ、長い航海のあと陸にあがって財布の紐が緩んでいる水夫たちは、彼らにとっては上々のカモだ。
水夫たちにしたって長い船上生活で溜まったストレスを一気に発散しようと、かなりの前のめりになっている。
そのせいで、普段だったら目もくれないような、子供だましのおもちゃや安っぽいアクセサリーなんかでも、口のうまさにのっかって、まんまと買わされている。
シルフィは、そういったにぎやかに盛り上がっているポーチそばの席は避け、奥まった位置にある隅の席を取った。
すこしだけでも、ゆったりとした気分で食事をしたかったからだ。
そうやって、地元野菜を煮込んだシチューと、ひさしぶりの柔らかいパンをひとり堪能していると、目ざとい売り子が近づいてきた。
シルフィの弟のウィルと、同じくらいの年齢の少女だった。
アーンバラにいた頃は、シルフィも同じような仕事をやっていた身だ。
仲間意識を感じて、なにか買ってやるものはないかと、首から吊るしている盆に載った小物を覗き込んだ。
噛みタバコの包みや酒の瓶がほとんどだったが、そのなかに砂糖菓子の袋をみつけたので、それを選ぶ。
ほとんどが男向けの品揃えのなかにあったのが不思議だったが、売り子が別のテーブルにいったのを見て、納得した。
一晩の相手をしてくれる女の機嫌を取るのに、買ってやるものらしい。
そんな姿をなんとなく眺めていると、ふいに視界を遮るようにして立った者がいた。
リッチーだ。
「よう、シルフィ」
またなにか因縁をつけにきたのか、と、シルフィは身構えた。
こういうリラックスしている状態のときにまで、自分に敵意を持つ人間の相手をしなければならないのは、正直、おっくうではある。
でも、無視したらしたで、調子に乗らせるだけだろう。
めんどうでも、いちいち立ち向かわざるをえない。
それが、これまでの航海生活で学んだ、世渡りの知恵だった。
「なんだよ、リッチー」
いつでも攻撃できるように、シチューのスプーンを拳で握り直しながら答える。
いざとなったら、これを武器代わりにするしかない。
だが、リッチーはいつものようなケンカ腰ではなかった。
両手を開いてあげて見せ、戦意がないことを示してくる。
「おまえのおかげで、俺らは助かったんだってな。船長に聞いたよ」
「ああ……、人魚たちのことか」
「そうだ」
「あんたなんて、あいつらに食わせればよかったよ。あたしが甘くて、よかったね」
「なあ、おい、そんなにつっかかるなよ。おまえにひどい態度だったこと、反省したから、謝りにきたんだ」
そう申し訳なさそうにするので、今までの暴言は許してやることにした。
いくら頑固なリッチーでも、さすがに命に関わることで助けられたら、意識も変わったのだろう。
有能か無能かで人間の価値を計る、現場主義の水夫らしいと言えばらしい考え方だ。
「わかったよ。ただし次になにか文句つけてきたら、マジで、海に突き落とすから」
「おいおい、お手柔らかに頼むぜ」
実際のところ、力勝負になったらシルフィのほうが負けるだろう。
だがそうは言い返してこないことに、相手の休戦の意志を改めて感じた。
「詫びに、酒、奢るぜ」
「いいよ。あたしが飲まないって知ってるだろ」
「じゃあ、かわりになにか……」
そこでちょうど通りがかった果物売りを呼び止め、適当に見つくろっていくつかを買うと、テーブルに置いた。
「これでいいか」
「……ありがとう」
意外なサービス精神に面食らったが、ここは素直に好意を受けとることにする。
やり取りを済ませたリッチーが、仲間たちが騒いでいるテーブルに戻ったあと、シルフィは食事を平らげ、果物に手を出した。
異国の見知らぬ甘い果肉を楽しんでいると、ポーチでわぁっと歓声があがる。
視線をやってみると、流しの楽器弾きと歌唄いの女が、陽気な曲を演奏していた。
それに合わせて、何組かの男女が踊っている。
何曲かそれが続いたあと、心得たもので、今度は甘くゆったりしたメロディーに変わった。
男女は、それに合わせて寄り添いながらゆらゆらと揺れるように踊る。
一気に親密さが増す動きだ。
踊らない者でも、近くの席へと移動し、身体をくっつけ合いながら、うっとりとした表情で耳を傾けている。
シルフィには、なんだか不思議だった。
こうやって見ていると、彼らはまるで永遠の恋人たちのようだ。
出港の朝には別れて、おそらくもう二度とは会わない相手なのに。
それに、甘いメロディーに心を預けるようにしてる姿は、あの白い霧のなかでの水夫たちの陶酔したような状態を思い出させた。
効果の程度こそ違え、意外と、根の部分は同じことが今起きているのかもしれない。
そんなことを考えていると、酒灼けをした顔のみすぼらしい服を着た老人が、突然、テーブルの脇に立った。
「おまえ、人魚に会ったというのは、本当か?」
突然聞かれ驚いたが、頷いた。
すると老人は、断りもせずに向かいの席に座る。
「そのなかに、黒い巻き毛の人魚はいなかったか」
「いたけど……。じいさん、なんでそんなこと知ってるの」
ぎらぎらとした目つきが異様だったし、最初は追い払おうかと思った。
しかし、そうやってなにやら事情通らしきことを言い始めたので、とりあえず話を聞いてみることにする。
目の前に並んでいた果物のいくつかをを勧めると、腹が減っていたらしく、遠慮もせずにがつがつと食べ始めた。
そしてひとしきり食べると満足したのか、果汁のついた口元を拭い、ようやく話し始めた。
「それはきっと、俺の恋人か、娘なんだ……」
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