3. 白い霧のなかで
不思議な相手との邂逅
たぶん、タイミングがタイミングなら、笑えさえする情景だと思う。
船のあちこちで、ふだんは怖いもの知らずの屈強な男たちが、海に飛び込もうとしてはロープに引き戻され、子供のように何度も転げまわっている。
そんななか、正気でいるのはシルフィただひとりだけで、もちろん、笑う余裕なんてない。
やがて周りを取り囲む歌声が、ふいにやんだ。
どうしたのかと、舷縁から波間に目をこらす。
さっき見た多数の手は、とうに消えてしまっている。
首をかしげていると、ふいに背後に気配を感じた。
振り返り、ギョッとした。
突然、甲板の中央に立っている、見知らぬ者がいたからだ。
歌が、また、響き始める。
「だ……、誰」
問いかけたが、返事はない。
人間……に似てはいたが、明らかに違う。
なぜなら、身体の作りは同じように見えるが、皮膚にあたる大部分が、虹色の鱗に覆われているからだ。
衣類はまったく身に着けていないので、その鱗ははっきりと見えた。
相手は、ずっと黙っている。
ただ、濡れた大きな瞳で、じっとシルフィを見つめていた。
それはまるで、初めて見た生き物を、用心深く観察しているようだった。
とは言っても、シルフィにとっても、相手は初めて見る姿だ。
黒い長い巻き毛や、身体の膨らみから女性に見えるが、正直なところ、確信は持てない。
「ナゼ、メスガ、イル」
話しかけられ、さらに驚いた。
たどたどしいものではあるが、たしかに通じる。
使われたのは、船乗り語と呼ばれる、海に携わる者たちの万国共通語だった。
シルフィもまだ習い始めたところなので、あまり上手とは言えないが、聞き取りならまあまあできる。
ただ、まさか海の魔物にまで、リッチーみたいなことを訊かれるとは。
しかも、メス、なんていう失礼な言い方は、さすがに使われたことはなかった。
しかし、女が乗っているということが想定外だったおかげで、相手の思い通りになるのはなんとか避けられたようだ。
(これなら、なんとかなるかもしれない)
相手と意思疎通の方法があるのなら、交渉の余地もあるというものだ。
思いきって、話しかけてみる。
「コロス、ヤメロ」
それを聞いて、相手は魚臭い息を長く吐いた。
もしかしたら、ため息だったのかもしれない。
つたない船乗り語とはいえ、なんとか相手には通じたようではある。
「ニク、ヒツヨウ」
そう、返してきた。
「フタリ、クレル。ヨシ。ノコリ、イラナイ」
肉が必要?
そして、二人差し出せば残りは見逃がしてくれる、ということだろうか。
だがそれは、あっさりと受け入れられる提案ではない。
さらに言えば、そもそもそんな権限はシルフィにはない。
「ニク、ナゼ、ヒツヨウ?」
苦し紛れに、そう質問した。
相手はしばらく悩んだあと、言葉が見つからなかったのか、手の動きで自分の腹の膨らみを示してきた。
そうされて、気づいた。
どうやら、妊娠しているようだ。
となると、言葉に困ったのにも、納得した。
たしかに、航海の便宜と商売ごとに特化した船乗り語に、そんな単語はないだろう。
相手は、何度も目をしばたたかせている。
鳥のような、上下にまぶたのある目だ。
そうしていると、涙が頬にこぼれ落ちた。
それが人間と同じように感情からくる反応なのか、生理的なものなのか、シルフィには判断がつかなかった。
それでも、相手に感情を寄せるきっかけにはなってしまう。
「コドモ、クル。ニク、ヒツヨウ」
そこを突いてくるように、訴えてくる。
シルフィは、母親のホリーが、弟のウィルを産んだときのことを思い出した。
『妊娠してるあいだは、たくさん栄養を取れ』
あのだらしない父親のティムがそう言って、食費をまともに家に入れていた。
賭け事までも、その期間はやめていた。
かつて見たこともなかった父の姿に、それだけ大変なことが起きているのだと、実感した出来事だった。
そう考えると、相手の必死さもわかる。
どうしたものかと懸命に考えているうちに、急に思いついたことがあった。
「ホカ、ニク、タメス?」
そう問いかけると、相手は不思議そうな表情をする。
待ってろ、と身振り手振りで示してから、シルフィは船倉の備蓄室へと、全力疾走した。
窓のない暗い部屋のなかで、入り口の近くに設置してあるランプに火を入れると、封のしてある木箱に、近づいた。
匂いを嗅ぎながら見当をつけ、開けていくと、三箱めにようやく目当てのものがあった。
油紙で厳重に包んであるそれを、両手で抱え、甲板へと駆けあがる。
鱗の女性の足元にそれを置くと、すぐに紙包みを開いて見せた。
なかには、大きなベーコンの塊が入っていた。
シルフィの頭くらいの重量はありそうだ。
先日のケンカの罰のとき、ブルーノが愚痴っていた品物だ。
備品管理担当のトバイアスが隠している、と。
鱗の女性は、鼻らしくものを動かしている。
匂いをかいでいるようだ。
しかも、いい匂いと判断しているように見える。
シルフィは包みのそばにしゃがんだ。
それから、腰の短剣をあまりしっかりとは握らず、ゆっくりとはずしてみせる。
それで攻撃するつもりはないことを、示すためだ。
その意図を汲んだらしい相手もおとなしく動きを見守っているので、やはり、交渉はできる相手なのだと確信した。
表面を薄く削ぎ、すぐに短剣はしまう。
切りとったものを差し出して、食べてみるよう促した。
ただ、相手は受け取りはしたが、用心深く触ってみているだけで、口にはしない。
それで、同じようにもうひとつ削いだものを作ると、自分で食べてみせた。
そうすれば、毒ではないことを示せると思ったのだ。
すると、相手は警戒しシルフィから視線をはずさないままではあったが、端をすこしだけ噛んだ。
それが、おいしかったらしい。
すぐに、残りもパクパクと一気に食べてしまった。
「ウマイ?」
訊くと頷き、さらにはおかわりが欲しいのか、手を差し出した。
さっきよりすこし厚めに削いで、渡す前に確かめる。
「コレ、アゲル。ニンゲン、タベナイ、デキル?」
相手は、迷っているようだった。
ただ、シルフィの手のなかのものを、よだれでも垂らしそうな様子で見つめているのをみると、もっと押せば交渉成立しそうだ。
シルフィはさらに新しい切れはしを渡し、相手がそれを食べているあいだに、また船倉へと急いで戻った。
箱には、まだふたつのベーコンの包みが残っている。
トバイアスに後でしこたま文句を言われるだろうが、乗組員が食べられて死ぬよりはマシだと説得すれば、さすがに黙るだろう。
シルフィは迷わず、それを順に抱えて運び、全部を甲板に出した。
その量を見て、相手は満足そうな表情になる。
そして、海に向かって歌い始めた。
つまり、さっきから聞こえているのは、この生き物の歌だったわけだ。
ただ、これまでのものとは、調子がまったく違う。
それは、仲間への合図だったらしい。
ずっと響いていた周囲の歌声は、すこしずつ弱まり、最後には消えた。
どうやら、取引は無事成立したようだ。
すっかり歌がやむと、相手はベーコンの包みを両手でつかみ、海へと思いきり投げ込んだ。
水面から、また何本もの細い手が伸びてくる。
さらには、安心しているのか、身体を現した者もいる。
みな、甲板にいる者と似た、鱗だらけの姿をしていた。
だが、下半身が足ではなく、魚の尾になっている。
その姿を見てようやく、この生き物たちの正体がわかった。
人魚、またはセイレーン。
そう呼ばれる、伝説の魔物たちだ。
歌声で水夫たちを惑わし、海へと引きずり込み、食べてしまう。
そういう話を、不思議な海の物語として、何度も聞いた。
まさか、本物に出逢うとは思わなかったが、ベーコンのおかげで今回は見逃してくれそうだ。
いつのまにか、白い霧も薄れてきている。
「アリガトウ」
相手はそう言うと、人間で言う、泣き笑いのような表情をした。
なぜ感謝されたのか、シルフィにはわからない。
さらにはなにを思ったか、腕から虹色の鱗を三枚剥がし、シルフィにくれた。
お礼か、記念品のつもりなのだろうか。
シルフィは、なにかお返ししようと、あわててポケットをまさぐった。
そこには、初めてデヒティネに乗る日に、ホリーが急いで作ってくれたリボンがある。
長かった髪の毛は、どうしても仕事の邪魔になるので、外海に出た次の日に、ピーティーに切ってもらった。
だから、もう、結ぶためには必要はない。
それでも、家のことを思い出して寂しくなったとき、お守り代わりに指で触れるために、入れておいたものだ。
それを取り出し、相手の手首に蝶結びで結んでみせた。
はじめは不思議そうな表情をしていたが、頬ずりしたので、どうやら気に入ってもらえたらしい。
惜しむ気持ちもあるが、なにより、これで友好の気持ちを示せるのならそれに越したことはない。
そして相手は一度だけ頷いてみせたあと、舷縁へと入ると、そのまま一気に海へと飛びこんだ。
あわてて追いかけ、落下した海面を見つめていると、すぐに水面に顔を出した。
そして、リボンのついたほうの手をこちらにあげてみせた。
他の仲間たちも、海面に現れる。
何十もの人間に似た顔を持つ生き物が波間に浮いてくる光景は、不気味ではある。
しかし同時に、この世界には色々な生き物が存在しているという、可能性の広がりのようなものを感じさせて、シルフィは自分の血が沸き立つように感じた。
甲板に来た人魚は、勢いづいた魚のように、一度空中へと跳ねあがってみせると、頭から水のなかに突っこみ、姿を消した。
ほとんど波がたたないほどの、スムーズな動きは見事だ。
そして最後に見えたその下半身は、もう人間のような二本足ではなく、仲間たちと同じ、魚の尾になっていた。
人魚は変身できるのだと、ここで、初めて知った。
他の仲間たちも、次々と、海中へ消えていく。
あの歌は、もう、とっくにやんでいた。
そしてずっと周囲を覆うようにしていた霧までもが、すっかり消え去っている。
あとにはただ、まるでさっきまで起きていたことが嘘のように、陽の光を受けてきらきらと輝く海原が、のどかに広がっていた。
(なんだか、まるで夢を見てたみたいだ)
しだいに、自分がロープに結ばれていることに気づいた乗組員たちが上げ始めている驚きの声でさわがしくなる甲板を眺めながら、シルフィは感覚がおかしくなってくる。
必死で目の前の脅威を取り払ったのはいい。
でも、あの話の通じる人魚はどういう存在だったのか、理由もなにも全然わからない。
それが妙に収まりが悪くてしかたない。
そのせいで、みんなの無事をめいっぱい喜びたいのに、どこか割り切れない感情が残ってしまった。
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