2. 噂の海域
噂は、生活のスパイスです?
デヒティネは針路変更をしたあとも、南東の風をつかまえ、快晴のもと順調な帆走を続けていた。
不慣れな海域とはいえ、熟練の乗組員たちだ。すぐに難なく舵も帆も操るようになり、むしろ予定していた航路よりも早く目的地に着けそうだった。
船首像のレイディも、鼻歌まじりでずっと機嫌がいい。
「変な噂ばっかり聞いてたけど、全然そんなことないな」
ピーティーがいつもの世間話のなかで、そう言った。
檣楼に座って、休んでいるときだった。
この日シルフィは、ひとりで仕事を任されていた。
自然の風に任せ、風呼びとしては時折の調整をすればいいような状態のときには、だんだんと任せてもらえるようになっていたからだ。
特に今はすることもなく、あまったロープで、結び方の練習をしているところだった。
そこに、ピーティーもやってきたのだ。
操帆もしばらく放っておいても大丈夫だが、完全に持ち場から離れるわけにもいかないので、檣楼にひと休みしに来ているのだった。
膨らんだ帆はまるで胸を張っているようで、見ているだけでも気分が高揚してくる。
こんなふうになにもかもが順調だと、つい昼寝でもしたくなるような平和さで、不穏な評判は似合わない気がした。
「変な噂って、なにさ」
しかし、気にはなる。
シルフィは、結局、我慢できずに訊いた。
ピーティーはおしゃべり好きで、船内事情にも詳しかったから、いつもいい情報源だった。
必要以上に偉そうにすることもないし、シルフィのような新人には、ありがたい存在だ。
「ここらの海域を通ると、いつのまにか、水夫が何人かいなくなってるんだってさ」
誰が聞いているわけでもないだろうに、ピーティーは声を潜める。
「いなくなる? いつのまにかって、どういうことさ」
さらに訊くと、よりいっそう秘密めいた表情になる。
「いなくなったところを、誰も見てないらしい」
「隠れて海に飛び込んだり、逃げ出したり、そういうこと?」
シルフィが理屈を考えてみるが、ピーティーは首を傾げみせる。
「でも、なんのために? 島も港もない海域だぜ」
「自殺?」
「生死の境を何度も行ったり来たりしてる、熟練の船乗りが? しかも、わざわざ海に飛び込んで? そりゃないだろう」
「うーん、それもそうか」
「とにかく、姿だけが消えて、それっきりだってよ。持ち物もなんもかんも残して」
そこまで話してから、ピーティーはシルフィの顔をじっと見つめた。
こういう態度には覚えがある。
怪談話をして、相手の反応を窺っているのだ。
それにひっかかってたまるか、と、シルフィはわざと冷めた言葉を返した。
「それ、ホントの話なの。病気で死んじゃったヤツのこととか、船が起こした事故のこととか、ごまかそうとして話をでっちあげてるんじゃないの」
ピーティーは反論せず、頷いた。
どうやら、怖がらせるのは無理そうだと諦めたらしい。
「そうそう、なんかごまかしてるんじゃないか、って勘繰りもあったんだよ。船主たちの調査も当然入ったろうが、その結果がどうだったかなんて、聞いてないしなあ」
「ふぅん……」
航海というものは、運任せの部分も多い。
技術や理屈ではどうしようもないことも、当然起こるという前提に、誰もが慣れている。
だからか、こういった不思議な、伝説とも噂ともつかない話はいくらでもあったし、誰もが好んで口にした。
調子が悪くなったらそれを思い出すし、調子が良ければ笑い飛ばす。
そんな種類の話だ。
そう。
そのはずだった。
***
しかし、その三日後のこと。
そのときも、ちょっとした風の調整を任せてもらって、シルフィはひとりで指笛を吹いていた。
ゲイルは安心しているのか、隣で居眠りだ。
なんでもない、ごくあたりまえの日常のはずだった。
だが、急に船の軋む音が大きくなった。
いつもはどこか一定のリズムに従った調子なのに、それとは違い、まるであちこちから不満の唸り声があがっているようだ。
それに自分でも、身体の重心がずれるような、おかしな感覚がある。
シルフィは指笛をやめ、檣楼の端から頭を出し、下を覗いた。
操舵を任されている二等航海士のジェリーが、引っ張られている力とは逆方向に行こうと、ものすごい勢いで操舵輪を回しているのが見える。
甲板では、誰もが走り回っている。
なにか、まずいことが起き始めているのは、たしかなようだ。
帆桁の向きを変えるロープが、何人もの手で懸命に引っ張られている。
ピーティーをはじめ、操帆手たちも、っというまに総動員となっていた。
あちこちで帆を広げたり向きを変えたりの作業に、猛スピードでとりかかっている。
「ゲイル、ゲイル、起きて」
隣に声をかけると、とっくに目を覚ましていた。
いつもよりさらに、厳しい表情だ。
「なんかおかしいよ」
そう言っているあいだにも、操帆手たちが伝言形式で、下からの指示を伝えてきた。
「右舷側に引っ張られてる。このままでは予定航路を外れる。もっと強い風を呼ぶぞ」
引っ張られるなんて表現は、本来、海上ではありえないはずだ。
「どういうことさ、ゲイル」
「わからん。とにかくやるぞ」
「うん」
しかし、二人で懸命に指笛を吹いても、どうにも呼べる風がない。
さっきまで順調に吹いていた豊かな風が、突然、微かなものになってしまっていた。
下ではすべての帆、補助帆まで張ったが、効果はないようだ。
船足は、どんどんと遅くなる。
船首像のレイディが、不満の唸り声をあげているのが、檣楼まで響いてきた。
やがてしばらくすると、とうとう風はすっかりなくなっていた。
そしていつのまにか、船は白い霧にすっぽりと包まれてしまっていた。
さらに、おかしなことに気づく。
さっきまで、あれだけ騒がしかった甲板の人間の声や音が、まったく聞こえなくなっていた。
どうしたのかと下を覗いてみたが、濃い霧が甲板にまで漂っているせいで、なにも見えない。
「ゲイル」
不安を感じて呼ぶ。
しかし、返事がない。
見ると、ゲイルはうつろな目をして、ただ、座っていた。
気がついてみれば、指笛もまったく吹かなくなっている。
「どうしたんだよ、なにが起こってるのか、教えてよ」
身体を揺すってみるが、まるで布人形のように、シルフィの力に合わせてぐにゃぐにゃと動くだけ。
しばらくそうやっていたが、らちがあかないので、結局、あきらめた。
そのうちに、霧の合間から、不思議な音が聞こえてきた。
若い女性たちの、澄んだ歌声のようだった。
惹きつけられる声音だが、どこか不穏さもはらんでいる。
「ああ、そうだな」
急に、ゲイルが口を開いた。
「なにが?」
シルフィは、驚いて聞き返した。。
しかし、シルフィに言ったわけではないようだった。
「ブラストも一緒なのか、いいな。待っていろ、すぐに行く」
意味不明なことを言いながら、マストから飛び降りようとする。
「ちょっと、待ってよ。駄目だよ、なにやってんだ」
止めようとあわてて抱きつくが、とてもじゃないが力ではかなわない。
らちがあかないので、急いで近くにぶら下がっていたロープを取り、ゲイルの身体に巻きつけた。
だがそうやっても、ゲイルは動きを止めない。
飛び降りようとしては、そのたびにロープに引き戻されている。
それを、こりもせずに、何度も何度も繰り返す。
とっさに縛りつけられたロープなんて、普段ならなんなく自分ではずせるはずなのに、今のゲイルは、飛び降りること以外に頭がまったく働いていないようだった。
頼りがいのあるはずの師匠のこんな姿に、シルフィの胸の、いやな動悸が速まっていく。
誰か助けを頼めないかとまわりを見回したが、そこでも驚いた。
さっきまでばたばたと懸命に働いていた操帆手の連中が、我先にと降り始めていた。
ロープも帆も、ほったらかしだ。
そしてその姿も、どんどん濃くなる霧のなかへと、すぐに消えていった。
船足は、いまや完全に止まっていた。
どうにも視界が働かないので、シルフィは状況を誰かに訊くために、視界の悪いなか、とにかく降りてみることにした。
***
甲板は、ふらふらと歩き回る水夫だらけだった。
ちゃんとした意志を持って歩いているのではなく、まるで見えない糸に操られているようだ。
ゲイルと似ている。
船首像のレイディが悪態をついている声がぼんやりと聞こえるが、人間に通じない独自の言葉を使っているせいで、ちゃんとした内容まではわからない。
ふだんはそんなことは絶対にしない。
レイディにさえ、なにかの混乱が起きているのかもしれなかった。
ただ、たしかめようもない。
なにしろ、霧に邪魔され、姿さえ見えないのだ。
そしてあたりに響く不思議な歌声は、さらに大きくなってきているようだった。
ボリュームがあがったというよりは、声の主が増えた、そんな印象だ。
すると、その声に呼応するように、とつぜん、船べりから海へと飛び込もうとする者がいた。
ピーティーだ。
シルフィはあわてて駆け寄り、なんとか押しとどめると、ゲイルのように近くのロープで縛りつけた。
そのあとにも何人かが同じことをしようとしているので、同じようにする。
歌声が、苛立ったように、さらに強まった。
霧に反響し、声の元がどこなのかも定かではない。
水面から聞こえたかと思えば、上空からも響いてくる。
まるで、霧と歌声で、閉じた空間を作り上げているようだった。
そのなかでたったひとり、甲板を駆け回って乗組員たちをロープで縛りつけているうち、ケリーソンの姿を見つけた。
急いで近寄ったが、その姿はいつもとはあまりにも違っていた。
寝ていたところでそのまま出てきたのか、いつも後ろで結んでいる髪はぼさぼさに乱れ、シャツの前はだらしなく開いたまま。
もちろん、上着も身につけていない。
「船長!」
腕をつかみ、思いっきりひっぱる。
すると、一瞬だけ、瞳に生気が戻った。
「ああ、シルフィか」
受け答えができるようなので、安心した。
彼さえしっかりしていれば、この船は大丈夫だ。
そう思い、必死で訴えかけた。
「みんな、どうかしちゃってるんだ! なんとかしないと……」
しかし、返ってきたのは、予想もしていない内容だった。
「俺の妻のジュリアを紹介するよ。ほら、お腹が大きいのがわかるだろ?」
「えっ……?」
どこかうっとりとした表情だ。
いつもみんなに指示を出す厳しい顔とは、似ても似つかない。
「このあいだの稼ぎで、新しい家も買えてな。子供も生まれるんだから、広くないとな……。なかなか、こざっぱりしていい家なんだ。居間には、朝日も射すんだぜ」
「船長、ケリーソン船長。なにを言ってんのか、わかんないよ」
混乱するシルフィの肩を、ケリーソンはぐっと握って、自分から引き離した。
そのまま、船べりへと近づく。
「ああ、ほら、お茶を淹れたって。おまえも一緒にどうだ」
そう言って、波を指さす。
当然、そこに紅茶の用意されたテーブルなど、あるはずもない。
「誰もいないよ! いるわけないだろ! どうしちゃったんだよ、あんたがこんなじゃ、この船は……」
霧のなかの歌声がひときわ大きくなり、喜びの旋律のようなものを奏でた。
その声に惹きつけられるのか、今にも飛びこみそうなケリーソン。
あわてて縛りつけながら、シルフィは泣きたくなった。
結局、今まともな思考をもっていられるのは、どうやら自分だけのようだ。
どうしたものかと悩んでいると、急に足元を駆け抜けるものがあった。
ネズミたちだった。
隠れ住んでいた船倉の底から、一斉に出てきたようだ。そのまま一目散に、海へと飛び込んでいく。
あまりにもあり得ない行動だ。
呆気に取られながらも、その行方、海面を見てぞっとした。
ネズミたちが飛び込んだ場所が、血で真っ赤に染まっていた。
さらに、ばちゃばちゃと水面が泡立つと、細い腕が何本も水中から出てきては、血にまみれたネズミの身体をつかんで、水中へと引きずりこんでいた。
すぐに身を引き、シルフィは急いでありったけのロープをかき集めた。
そしてかたっぱしから、残りのみんなの身体を船に縛りつけ始める。
デヒティネはかなり乗組員を絞っている船なので、二十数人しかいない。
それでも、様子のおかしくなった屈強な男たちを、十代半ばの少女がひとりで縛りつけてまわるには、なかなかの手間と時間が必要だった。
果てには猫のミスター・クラムビーまで出てきたので、あわてて船室に閉じ込め、扉をしっかり閉めた。
デヒティネは積み荷のスペースをすこしでも増やすために、上甲板に一般船員の部屋があるのが功を奏した。
そうやって作業を必死に続けているうちに、日頃の天敵、リッチーも見つけてしまう。
一瞬、頭のなかを不謹慎な考えがよぎった。
(こいつがいなければ、どれだけ船上生活からストレスが減るか)
だが、そう言っても仲間ではある。
それに、ぶつぶつと呟く声を聞いて、さらにその気が失せた。
「ああ、エドナ、戻ってきてくれたんだな。そうだな、俺はわかってたぜ。おまえが心から俺を愛してくれてる、ってな……。あれは、気の迷いだったんだよな……」
きっと例の話に聞いた、リッチーを捨てたという女のことを言っているのだろう。
哀願する表情で、切々と訴えているのを見たら、なんだか、可哀そうに思えてきた。
(ムカつく野郎だけど、別に死んでもいいとまでは思っていないし)
それに気づき、シルフィはやっぱり他の人間と同じように、リッチーをロープで縛った。
歌声は、ますます大きく響いてくる。
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