5. 出航
ナンパのタイミング
試用期間の一週間は、あっというまに過ぎた。
船や航海に関する用語、風の呼び寄せ方、天候に悪影響を与えないぎりぎりのレベルに収める意識と、程度を見極める目。
そんなものの基礎を叩き込まれ、なんとか食らいついた一週間だった。
おかげで、まだまだ技術は未熟だが見込みがある、と認めてもらえたらしい。
明日には出航という日、ゲイルが懐から出した布袋からコインを三枚出し、シルフィにくれた。
「見習い期間の給料だ。家族に、うまいもんでも買ってやれ。とうぶん会えなくなるからな」
「いいの」
これは今までの路上売りの稼ぎからすると、三倍近い。
今まで手にしたことのない金額に、シルフィは思わず唾をゴクリと飲み込んだ。
「明日は夜が明ける前には、港にちゃんと来いよ。迎えのボートに乗り遅れたら、そのまま置いていくからな」
ゲイルのほうは、こんな金額はどうということもないようで、あっさりしたものだ。
「ああ、それから、これもやる」
そう言って渡されたのは、清潔な、仕立てのしっかりしたシャツとズボンだった。
古着ではあったが、シルフィたちの階層の人間は、服を新品で買うことはない。
繊維も布も貴重品で、もっと悪い状態のものでも、手に入れらるだけでも満足しなければいけない、そんなものなのだ。
「いいのかい」
「ああ。これからはこれを仕事着にしろ」
「ありがとう!」
正直、スカートのあちこちを結んだり挟んだりして修業をずっとしていたので、動きやすい服はありがたかった。
身体にあててみるとすこし大きかったが、ホリーに詰めてもらえば充分着られる。
ゲイルに手を振ると、シルフィは家に向かって駆け出す。
途中で、以前仲間だった路上売りの少年から、温かい肉詰めパイを家族のぶんだけ買った。
いつもだったら、奮発しても買えるのはせいぜいひとつかふたつで、それをなんとか四人でわけるような品物だった。
パイ売りは驚きながらも、わざわざ具の多そうな重いものを選んでくれる。
そして包んでくれながら、景気のいいときにはまた買ってくれよな、と軽口。
シルフィは、喜んで約束した。
それを持って帰ると、母親のホリーは喜んで目を細めた。
しかし、残りのコインも一緒に渡すと、すぐに心配そうな顔つきになる。
「あんたは、大丈夫なのかい」
「どうせ船に乗ったら、金使う場所なんてないよ。それに来週になれば、また貰える」
「そうかい。助かるよ」
「父ちゃんには見せちゃダメだよ」
「ああ、そうだね」
ホリーは頷きボロ布で包むと、ティムが覗くことはまずない、裁縫道具を入れたバスケットの底へとそれを隠す。
しばらくすると、酒臭い息のティムが帰ってきた。
パイを見ると目を丸くし、それがシルフィが買ってきたものだとホリーに教えられると、でかしたな、と言って頭を撫でてきた。
そんなことは珍しいので、シルフィはなんだかくすぐったかった。
もしかしたら、ティムなりに娘がいなくなることを寂しがってくれているのかもしれないと思った。
とにかく、感情表現が不器用な父親なのだ。
ホリーはといえば、食後に、すぐにゲイルにもらった服の丈詰めを始めてくれた。
明日の朝までには仕上げておくから、と言われ、弟と一緒にベッドに入る。
慣れた温かさに、シルフィはすぐに眠りについた。
そしてその晩は、家族全員で檣楼に登ってパイを食べている夢を見た。
***
デヒティネは二日ほどかけて、内海を抜けて、外海へと出る予定になっていた。
幸い、出航後は天候もよく波も穏やかで、すこぶる順調にいくはずだった。
しかし、二日目の午後、不審な船影がこちらに近づいてくるあたりから、様子がおかしくなってきた。
「商船か」
知らせを受けたケリーソンが、船首楼に上がって遠眼鏡を覗く。
「わかりません。船籍の旗すら掲げてない」
二等航海士ジェリーも、同じように自分の遠眼鏡を覗きながら答える。
一等航海士のニックは、船尾楼にいる。
舵輪を握り、指示が出ればいつでも回せるよう待機しているのだ。
「偽装してやがるな……略奪船のフリか。どうせどっかの戦艦が、小競り合いの八つ当たりをしにきたんだろう」
ケリーソンが、ぶつぶつ呟く。
この広い内海では、トライゴッズ認王国、ルコーオヴル王国、イシャファ=ポータ連立王国の沿岸三国の海軍が、制海権を争って四六時中やり合っている。
この三国のあるヴァーイ大陸は、いくつもの高い山脈が縦横無尽に走っていて、陸路での大量輸送は見込めない。
つまり、海運の確保が、国家経済を左右するのだ。
基本的には武装している海軍どうしがやりあっているのだが、時々、商船もこの諍いに、運悪く巻き込まれることがある。
めぼしい船の拿捕や、積み荷を奪うことで、戦績の悪さを補おうとするのだ。
「嫌な予感がする。なんとか逃げ切ろう」
ケリーソンはそう言って、甲板に降りていたゲイルに、檣楼に登るように命じた。
自然の風任せで、文字通り順風満帆だったので、休憩がてら甲板に降りてきていたのだ。
指示を受けると、すぐにシルフィを連れて上へと戻った。
本来のデヒティネなら、速度が売りのクリッパー船だ。
そこらの船なんて、あっという間に振り切ることもできる。
ただ、今の積み荷は、ハイランド産の重い氷だ。
喫水も下がっていて、最高速度を出すのは難しい。
となると、少しでも多くの風を呼びよせる必要があった。
「補助帆も張れ、スピードを上げるぞ!」
その言葉に、甲板長のJBが、操帆手たちにすぐに指示を出す。
ピーティーが、真っ先にロープに手をかけた。
次の指示は、操舵手のニックへだった。
「進行そのまま、ただし頃合いを見て左に抜けるぞ」
「アイ、サー!」
シルフィたちが檣楼に着いたころには、さっきまでは遠眼鏡を使わなくては見えなかった船影が、肉眼でも見えるほどになっていた。
船はすでにスピードに乗り始めていたので、マストの上部では強烈な風に晒され、身体を持っていかれそうになる。
急いで、備えつけの命綱を身体に縛りつけた。
必死に風を呼ぶが、相手の船の風呼びの腕も、相当なもののようだった。
デヒティネの帆に風を集めても、すぐに激しく渦巻く逆風を当てられ、勢いを失ってしまう。
やがて、かなり近くまで追いつかれてしまった。
「ちっ」
近くの帆桁にいたピーティーが、舌打ちをする。
近寄ってくる船は、かなりずんぐりむっくりとしたシルエットだった。
やはり、ケリーソンが言っていたように、戦艦のようだ。
大砲を積んでいると、どうしても横幅のある造りになる。
やがて正体を隠した船は、デヒティネの進行方向に割り込んだ。
右側面が、こちらに向いている。
そして、偽装のためカーテンのようにかけていた布を、一気に取り払った。
「マストに掴まれ!」
それを見たゲイルが、指笛をやめ、叫んだ。
有無を言わせぬ口調に、急いでその通りにする。
そのとたんだった。
どぉん。
とんでもない衝撃が、船を襲った。
デヒティネは、大きく右に傾ぐ。
シルフィは吹っ飛び、腰に結んでいた命綱が、ぴーんと張った。
もしも結んでなかったら、波の上まで放り出されていただろう。
相手の船の側面には、砲門の蓋が一ヵ所開いているのが見えた。
生々しい煙があがっている。
大砲を、撃たれたのだ。
見下ろすと、船尾の近くの甲板の左側がひしゃげていた。
飛んできた、鉄の球にやられたのだろう。
船大工と助手が、応急処置をしようと一目散に駆け寄っている。
「チッ、雄鶏野郎か。あの飾り板は間違いない、ヴイーヴルだ」
雄鶏野郎というのは、ルコーオヴル王国に対する、認王国人の悪口混じりの呼び方だ。
「ヴイーヴル?」
「ルコーオヴルの戦艦だ。丸腰の商船をいたぶろうなんざ、よっぽど本業の戦果が悪かったらしい」
相手の胴を見ると、また別の砲門の蓋が続けて開くところだった。
鉄の砲口が見える。
もう一発、来る。
体勢をなんとか立て直していたシルフィは、震える腕でもう一度、マストにしがみついた。
しかし、予想した衝撃はこない。
かわりに、ぼちゃん、と派手な水音が響く。
砲丸が、手前の水に落ちたのだ。
ヴイーヴルは、突然、デヒティネ側に大きくバランスを崩して傾いていた。
なにごとが起こったのかわからず、目を丸くしていると、その向こうに、別の船の帆が見えた。
「おっと。グロリアス・クラウンのお出ましか。やるな」
ゲイルが、口角を上げる。
「グロリアス……?」
「認王国の最新戦艦だ。ヴイーヴルの相手をしに来てくれたんだろう。シルフィ、ここが勝負時だぞ。できるだけ風を呼べ」
ヴイーヴルは、すでにもうデヒティネの相手をする余裕はないようだった。
甲板の人間たちはすべて左舷に移動し、新たに出現した敵への対応に追われている。
どん、という音がまたして、立て直しかけていたヴイーヴルの傾きがまたひどくなった。
その隙を狙って、デヒティネはスピードを上げる。
大砲を撃ち合う二隻の戦艦の前方を横切るようにして、外海を目指す。
戦艦は、外洋に出ることはできない。
公海を統括するマアアルン、母なる神が、戦闘を嫌うからだ。
今いる内海で戦闘ができるのは、ここの統括は娘神のひとり、アックキュに任されているからだった。
この神は、戦闘を忌避していない。
だから今のような状況の場合、商船であるデヒティネは一刻も早くこの海域を抜け外海に出るのが、一番手っ取り早いうえに確実な方法だった。
外海に出さえすれば、戦艦が追ってくることはできない。
グロリアス・クラウンも、そのために援護攻撃をしているのだった。
その証拠に、船首に立つ者が、『行け』という手旗信号を送ってきている。
その横にいる、乗員に指示を出していた小柄な士官が、一瞬だけ、振り返った。
檣楼を見上げ、シルフィと目を合わせたようにも思える。
そして、こんな場面でも士官の矜持か、被ったままの三角帽に軽く手をやり挨拶を送った。
よく見ると、神殿で会った第三王子、ワイアットだ。
そして両腕を使って、なにかの合図をしてきた。
教わった基本的な信号にはなかったので、シルフィはゲイルに訊く。
「あれ、どういう意味」
ゲイルは、半分笑っているような、半分困っているような、なんともいえない表情になった。
「ああ、あれな……」
なんだか、言いにくそうだ。
「なんだよ」
「『帰ってきたら、お茶でもご一緒にいかが』だとよ」
「はあ!?」
「ありゃまあ、ナンパだな。大っぴらに、よくやるぜ」
結局、ゲイルはニヤニヤすることに決めたらしい。
そうやって、からかってきた。
「へ、へえ……」
シルフィはなんと言っていいのかわからず、そのまま黙り込むしかない。
ただ、みるみる顔が真っ赤になった。
それでも、ついついもう一度だけ、ワイアットの顔を確かめようと目をやる。
しかし。
そのときは、もうすでにデヒティネは速度をあげていた。
そして、あっというまにヴイーヴルとグロリアス・クラウンから離れていく。
だから、もう、視線の先を固定するのは無理だった。
そうなるともう、シルフィは神殿で見た、鼻に皺を寄せた少年っぽいあの表情を、ぼんやり思い出すしかなかった。
そしてすぐに、ゲイルの調子の変わった指笛に気を取られる。
外海へと出始めた今、内海とは比べものにならない、おおらかで激しい風が吹いてきている。
だからゲイルの指笛が、ただ呼び寄せるだけでなく、強さを調整するものに変わったのだ。
さっそく、シルフィも真似をする。
小競り合いも、煤けた空気も関係のない世界へと。
たった今、デヒティネは乗り出した。
目の前に広がっているのは、無限に続いているように見える大空と、大海原の波濤。
それらの雄大さに、さっきまでの恐怖は、あっという間に霧散していく。
足元からは、高らかな笑い声が響いてきた。
ああ。
デヒティネの船首像が、歓喜の声をあげているのだ。
[第一章 風を操る少女 了]
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