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3. 誉れ高き船

この誉れ高き船に、おまえは乗るのか

 ボートが、デヒティネが停泊している沖合へと向かううちに、もやは少しずつ薄れてきていた。

 そして、目的の場所に着いた頃、ちょうど劇的に晴れた。

 現れた姿に、シルフィは息を飲む。

 彫刻で装飾があちこちに施された、細身の優美なカーヴを描く船体。

 あちこちに張られたロープでさえ、美しい首飾りのように見えるほど。

 そして、背の高い三本マストが、堂々と空に向かってそそり立つ。

 その姿はまるで、尖塔を抱えた城のようですらあった。

 今は白く大きな帆を畳んであるが、すべてを展げた姿は、さぞかし壮観だろう。

 遠距離を航海する船としては、決して巨大ではなかったが、その機能性からくる美しさで、存在感を充分に示していた。

 ボートを漕いでいた船頭が、手を止め、上に向かって口笛を吹いた。

 シルフィもつられて、はるか上部の船の縁板を見上げる。

 すると、塀のようになっているそこから、ひょい、と顔が覗いた。

 ゲイルだ。


「おっ、来たな。逃げたかと思ったぜ」


 それだけ言うとすぐに引っ込み、今度はするすると、縄梯子がおりてきた。


「これを登れ、ってこと?」


 ボート乗りに訊くが、首をかしげるだけ。

 やがて、それを伝ってゲイルが降りてきた。


「まあ、まずはなによりレイディに挨拶だ。船首に回してくれ」


 そう指示する。

 ボートはまたゆっくりと動き始めた。

 そのあいだに、シルフィは例の金属片を見せる。

 ゲイルは驚いたようだったが、すぐに頷いた。


「そいつぁ災難だったな。まあ、それは記念にでも取っておけ」


 どうやらちゃんと納得してもらえたようで、ほっとしていると、ボートが止まった。

 見上げると、そこには、木彫りの船首像(フィギュアヘッド)が取りつけられていた。

 チュニックを着た若い女性の姿で、両腕を前方に差し伸べ、注がれる水を受けているような形に手のひらを広げている。


「レイディ・デヒティネだ。頭を下げろ」


 そう言われ、揺れるボートの上でなんとか立ち上がり、長身のゲイルの横に並ぶ。


「レイディ、俺の新しい弟子だ」


 そう紹介すると、女性像は横目でシルフィを見た。

 どうやら、そこだけ動くらしい。


『ずいぶんな小娘を連れてきたじゃないか、ゲイル』


 そんなことを言われた。

 しかし驚くより先に、気がついたら、勝手に言葉を返していた。


「あたしが小娘なら、あんたは大娘だ」


『おやおや。世界一速いと誉高い船に、ずいぶんな口をきくね』


「だってあんた、いいとこの娘さんみたいに綺麗だもん」


『は』


 女性像は虚を突かれた声を上げたあと、笑いだした。

 軽やかさと豪快さが入り混じった、不思議な笑い声だった。


『気に入ったよ。よく仕込むんだね、ゲイル』


「ありがとうございます、レイディ」


 ゲイルは貴婦人にするような丁寧なお辞儀をする。

 シルフィも、それを精いっぱい真似した。

 それで挨拶は済んだらしい。

 ボートがゆっくりと離れる。

 しばらくすると、ゲイルが安堵のため息をついた。


「よかったな。第一試験は合格だ」


「えっ、試験だったの」


「そうだ。船に嫌われたら、どんなに優秀な風呼びでも終わりだ。そもそも、乗り込むことができないんだからな」


「先に言ってよ。もっとお上品に振る舞ったのに」


「それじゃ駄目だな。取り繕ったってなんの得にもならん」


「へえ」


 そういうものなのか。

 だがどっちにしろ、気の利いた上品なお行儀など、教えてもらったこともない。

 それでいいなら、余計なことに気を遣う必要なさそうだ。

 それで、シルフィも安堵のため息をついた。

 ボートさっきの、デヒティネの左舷側面に戻る。

 そこには、縄梯子がぶら下がったままだ。


「登れ。俺は下からついていく。万が一、落っこちたときに掴めるようにな」


 脅されてるのか心配されているのかわからない口調だった。

 シルフィは言われるまま、おっかなびっくり一番下の部分を掴んだ。

 不安定に揺れるそれを、なんとか登る。

 ようやく甲板にあがると、すでに何人もの人間が働いていた。

 マストには帆桁(ほげた)が何本も取りつけられている。

 そこに帆をぶら下げるのだが、今はたたんである。

 そうしていると、まるで大木の枝のようにも見えた。

 そしてそこには、ふたりの若者が取りついて索具の点検をしていたのだが、それがまるで、実がなっているようだった。

 いっぽう甲板では、積み込む備品や食料を数えあげ台帳に記入する者、それが済んだら順に貯蔵場所に運んでいく者たちが、せわしなく行き交っている。

 そしてそのあいだをぬうようにして、填隙工(コーカー)が動き回っている。

 熱い液体が入ったバケツを手にした助手を連れ、船体のあちこちにできた隙間を、ひとつずつ埋めているのだ。

 シルフィたちのところまで、焦げ臭い匂いが漂ってくる。

 さらには猫までいて、長い尻尾をピンとたてながら、すぐそばを我が物顔で通っていった。


「猫だ」


 思わず叫ぶと、ゲイルはああ、と頷いた。


「ミスター・クラムビーか。ネズミ捕りの名人さ」


「そんな大層な名前なんだ」


「あれで、なかなかの熟練船乗り猫だからな。斃した獲物の数なら、そこらの軍人も顔負けだろう」


 そんなことを話しながら船尾に回る。

 最後尾に着くと、そこには下へと続く、短い階段があった。

 五段あるそれを降りると、すぐに扉があった。

 開いたままのそこから、船の横幅をいっぱいに使った、わりと広めの部屋が見える。

 船室、というよりは、ちょっとした応接室のようでもあった。

 家具や食器といった調度品なども、見るからに質のいいものが並んでいる。

 ここが船長室で、船のなかでも特に格の違う部屋だというのは、後で知った。

 そして、奥にある大きなテーブルでは、窓から差し込む光を頼りに、男がひとり、書き物をしていた。


「船長」


 ゲイルが声をかけると、待てという合図をしたあと続きを書き終わり、たたんで封蝋を施すと、控えていた青年に渡した。彼はゲイルに軽く会釈をすると、そのまま部屋を出ていく。

 そこでようやく、ゲイルに向き、話を促すように顔をわずかに傾げた。

 ブラウンヘアーの、よく日に焼けた肌をした三十代前半に見える男だった。

 野性味に溢れてはいるが下卑たところはなく、頭の回転の速そうなはしばみ色の目をしている。


「これから出航までの一週間、こいつを見習いにします。物になりそうなら、航海に連れていきたい。許可をもらえますか」


「なんだ。女の見習いか? 聞いたことないぞ」


 揶揄するような言葉に、ゲイルは肩を竦めた。


「息子は、軍艦の風呼びになって戦死した。長年かけて教え込んだ事が全部パァだ。女なら、よっぽどのことがなけりゃ徴兵なんかされないですからね」


「確かにな」


 船長は苦く笑い、立ち上がる。

 壁に掛けてあったベルトから短剣を抜き、シルフィに向かっていきなり投げた。

 とっさに手を出し、なんとか落とさずに済んだ。


「やるよ。なにしろ男所帯だ、襲われそうになったらそれで身を護れ。生き延びて船上裁判にまで持ち込めれば、船にとって大切な風呼びだ、相手は確実に罰を受ける。だが、それまでに取り返しのつかないことをされちゃ目も当てられねえ。肌身離さず持ってろ」


 シルフィは目を白黒させながら、鞘から刃を抜いてみた。

 よく研がれた銀色の刃が、窓から差し込む光を反射して、冷たく輝いている。

 しかし、初めて武器というものを手にしたのだ。見とれる間もなく、怪我でもしたらと怖れて、すぐにまた慌てて刃をしまった。


「使い方はピーティーに教われ。この船じゃ一番のナイフ使いだ」


「アイ、サー」


 ゲイルはそう言うと、シルフィを連れて甲板に戻った。


「あれがケリーソン船長だ。第二試験、合格」


「ピーティーって誰さ」


「操帆手の若いヤツだな。今日はまだ乗り込んでないだろう。見たら話つけといてやるよ」


「うん」


「よし、それじゃ、檣楼に登ってみるか」


「檣楼?」


「マストのてっぺんにある物見台だ。俺たち風呼びの持ち場だな。ついてこい」


 ゲイルは三本マストの真ん中、メインマストの根元で立ち止まった。


「自力で、あの檣楼まで行くんだ」


 ゲイルの指さす先に、ここから見るとかなりちっぽけな丸いものが見えた。

 丸い板のうえに、手すり代わりの木の板が張り巡らされた、形でいえばコップをひっくり返したようなものだ。


「高いところがダメなヤツもいる。もしそうなら、船の風呼びになるのは無理だ。これが最後の試験だ。やってみろ」


 マストに登るのは、ロープを網目状に組み合わせたものを伝うしかないようだった。

 実際、それを使って上下に移動している水夫たちがいる。

 とにもかくにもやってみようと、シルフィは、一番下に取りついてみた。

 さっき船にあがってきた縄梯子でのコツを思い出しながら、登り始める。

 最初のうちは、なんということもなかった。

 スイスイと進む。

 しかし中ごろになってくると、様子がだんだん違ってきた。

 遮るものがほとんどなくなったので、まず、風の直撃を受ける。

 しかも、これまでの勢いとは段違いだ。

 さっきまでの風なら、髪がバサバサになったり、スカートの裾が足に絡まったりする心配をするだけでよかった。

 しかし、今は違う。

 何度も何度も、身体ごと持っていかれそうになる。

 さっきまでは優しく身体を撫でた髪や布地も、今では凶器にでもなりかねない厳しさで皮膚を殴るようにぶつかってくる。

 まるで、常に平手打ちをくらっているようだ。

 それでも、まだ。

 そこまでは、マシだったのだ。

 深く考えもせず、つい、下を見てしまった。

 とたん、身体のすべての部分が、硬い石のように動きを止めた。

 自分は今、くらくらするような高さにいた。

 塔にも登ったことのないシルフィには、初めて体験する高さだった。

 視界が急に狭まった気がして、何度もまばたきを繰り返す。

 こわばった身体にも容赦なく風はぶつかってくる。

 まるで、嵐のなか、木の枝から実をもぎ取ろうとしているようだ。

 いつか見た、落ちてぺしゃりと潰れたリンゴを思い出し、シルフィは奥歯を噛みしめる。

 あと一歩だけ。右手を伸ばすだけ。

 わかっているのに、身体が動かない。

 下から続いていたゲイルは、しばらく待ったあと、言った。


「今はちょうど真ん中だ。さあ、下に降りるか、それとも登り切るか。どうする?」


「うぅ……」


「どっちを選んだって、俺はお前を責めねぇよ」


 ゲイルの声は、あくまでも穏やかだった。


「よく考えればいい」


 シルフィは生唾を飲みこむ。


「降りるなら、船の風呼びになる話は終わりだ。そのかわり、危険な目には合わずに済む一生を送れる。登れば、それと逆の未来が待ってる。どっちが賢い選択かなんて、俺にだってわからん」


 シルフィは麻痺したような頭のなかで、必死にその言葉を考える。

 生まれ育った街。

 澱んだ空気と()えた匂い、工場の煙でできたピリピリする霧がいつもたちこめ、陽がろくに射さないせいでいつも湿っている石畳の、陰鬱な狭い路地。

 二束三文の商材をカゴに入れ、一日じゅう声を枯らして売り歩いて、ようやく手に入れたわずかばかりの売り上げで、その日をなんとか乗り切るだけが精一杯の暮らし。

 あの世界から抜け出せるのだと、初めて、夢を見た。

 今ここで震えている瞬間だって、あそこに戻りたいとはこれっぽっちだって思わない。

 そう。

 それなら、今やるべきことは、決まっている。

 シルフィは震える右手を、ゆっくりと伸ばした。


「いいぞ。焦らなくていい。落ち着いて、慎重に」


 下からゲイルの力強い声が聞こえる。

 右手を固定させたら、今度は左足。

 怖くても、無理な力が必要でも。

 それでも、登っていきたい。

 その意志だけを力に、シルフィはじりじりと上へ進む。

 ひどく間延びして感じる時間をたっぷり使って、ようやく、……ようやく、檣楼へ手がかかった。

 台の上に登りきると、そのままへなへなと座り込んでしまう。

 すぐに、ゲイルも乗った。

 その拍子にガタンと揺れたが、びくつく余裕すら、もう残っていなかった。


「よくやった。根性はあるな」


 それからしばらくのあいだ、なにも言わずにただ隣に座っていてくれた。

 風が吹いてくる。

 やはり、強い。

 でもさっきまで敵のように思えたそれは、今では、登るあいだにかいた嫌な汗を吹き飛ばしてくれる味方のように思えた。


「ほら、見てみろ」


 シルフィが落ち着いたころ、ゲイルが沖合の空を指さした。


「大海原の風は、こんな港のちまちました風とは違う。わかるか。あれが、帆船乗りの俺たちが呼ぶ風だ」


 シルフィは目をこらす。

 どこまでも続く広い海、空。

 そのあいだを吹く風は、今まで自分が知っていた、建物と建物のあいだの狭い路地を吹いていたものとは、明らかに違う。

 閉じられた空間で、同じ場所で、ただぐるぐると回っていたそれ。

 だが今遥か向こうに吹く風は、より広い場所、より遠い場所、ここではないどこかへと導くものだと、そう感じる。

 それと共に生きる。

 その生活を予見しただけで、鼓動が高まってくる。


「よし、まずは、港の風を集めるところから始めようか……」


 だから、そう言ってゲイルが手本に吹き始めた指笛を、シルフィはなにも疑わず、熱心に真似し始めた。

お読みいただきありがとうございます。

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