3. 怒りの風
渦巻く怒り
この揺れは、波のせいではない。
というか、そもそも波はずっと穏やかだ。
なにが起こっているのかわからず、シルフィは混乱した。
『ギィィィィエェェェェェェェェーーーーーーッッ』
すると、船首から、奇妙な音が響いてきた。
船の木材が軋む音に、首を絞められた女の悲鳴が混ざったような……。
今まで、聞いたこともない、音。
仰天して立ちあがり、その方向を見る。
船首像のレイディが、まるで船から離れようとでもするように、ガタガタと大きく揺れていた。
それに合わせて、船が揺れる。
影響で船体のあちこちが激しく撓み、悲鳴のように軋む音をたてている。
「まずい」
いつのまにか、隣にいたピーティーが、呟いた。
「なにがまずいの、今のこれ、どうなってるの」
シルフィが訊くと、血の気の引いた顔で答える。
「船長がやられると、船は動揺する。特別な繋がりがあるんだ。デヒティネは今、パニック状態だ。下手すると分解しちまうぞ」
さすがにこうなると、もうどうにもならない、と思ったのだろう。
乗りこんでいた海盗賊たちは、あっけなく、次々に逃げ出していった。
命あっての物種、というやつだ。
いっぽう船尾では、倒れたケリーソンに覆いかぶさるようにして、ニックが必死に声をかけている。
舵輪は、ジェリーが取り戻していた。
しかし、まともに立っていられず、ただしがみついているしかない。
レイディのたてる叫び声はさらに大きくなり、船体は左右に大きく激しく揺れる、
これではもう、振り子のようだ。
甲板にあった板が吹き飛んで、バタバタと騒がしい音をたてながら海へと落ちていく。
ほんのついさっきまでの平和だった時間に、ゲームに使った板だ。
それをまともに見る間もなく、シルフィの小さな身体は、甲板を勢いよく、反対側の右舷まで滑る。
ピーティーが気づき、とっさに腕を伸ばしたが、つかみそこねてしまう。
そして、その勢いのまま、船から飛び出しそうになった。
なんとか必死で舷縁につかまったが、上半身はそのまま、外側へと大きく乗り出した。
そして。
その視界に、映ったのは。
我先にと自分たちの船に乗りこみ、デヒティネから一目散に離れようとする、海盗賊たちの姿だった。
それを見た瞬間、胸のなかに突然、どす黒いものが噴き出したような気がした。
それは、まるで溶岩のようだった。
一気に血管を流れ、まるで、全身が沸騰しているように感じさせる。
そしてその熱は。
思考も、損得も、利害も、なにもかもを……。
一瞬で、蒸発させてしまった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああーーーーーーッッ!」
そして。
身体の内側から、奇妙な音が流れ出していた。
熱の塊が咽喉を焼きながら通り、外に向かって噴き出していた。
もしもそれが目に見えるものなら、滝のようにほとばしり出ているのがわかっただろう。
烈火のなかに囚われたようになっている頭のなか。
記憶が、フラッシュバックする。
裏さびれた路上での、物売り。
買い出しに来た、立派なお屋敷の女中の、不潔な虫を見るような目。
脂ぎったじじいに、下品な冗談を言われても、買ってもらうために愛想笑いを浮かべた。
意地の悪い連中に、わざとぶつかってこられて、ころばされた日。
大切な商品を、泥だらけの道にぶちまけてしまったときは、なにより自分が情けなかった。
それを見ている同業者たちの、感情を失った、虚ろな目。
家にまでおしかけてきた借金取りに、殴られるままの父親。
疲れたため息をつきながら、徹夜で繕い物を仕上げる母親。
強い者が権力や暴力をふりかざせば、弱い者はただただ押しつぶされるしかない。
金も身分もない者は、ただただ、日々をしのいで生きていくしかない、罵声と悪臭に閉じこめられた街。
そんな世界で、ずっと、生きてきた。
そんな世界から、やっと、抜け出せたと思っていた。
明るい空、威勢のいい風、きらきらと光る海。
ここは、シルフィが生まれ育った腐った世界とは、違うのだと思っていた。
どこまでも自由で、努力さえすれば、自分の望みを、かなえられる場所だと。
だが、今の状況はどうだ。
ケリーソンは血だまりのなかに倒れ、レイディは異様な叫び声をあげ続け、船は今にも壊れそうだ。
まさにこの瞬間、シルフィが信じてよかったはずの光満ちる世界が、突然醜く変貌し、崩壊しようとしていた。
(許してはいけない)
(あたしの世界を壊した奴らに、重い罰を)
理由のない確信めいた感情が、足もとから頭のてっぺんまで一気に回り、心は、硬い岩の塊のようになる。
シルフィは叫ぶのをやめ、指を口元まで持っていった。
理不尽な暴力に、泣き寝入りしていた生活はもう終わりだ。
今の自分なら、復讐ができる。
そのための能力は、そう。
とっくに、手に入れているのだ。
***
ミズンマストに縛りつけられていたゲイルは、腰のロープをはずしてもらったところで、ケリーソンが凶刃に倒れた。
船が揺れ始めてしまい、左舷がわの船べりにしがみつくのがせいぜいで、手首のロープをはずす余裕もない。
だが、しゅぅぅぅぅ……という、奇妙な音に顔をあげた。
右舷側で、黒い霧のようなものが立ち昇っている。
よくよく見ると、その中心にはシルフィが立っていた。
これだけ揺れているのに、どこにもつかまらずに直立できていて、それだけでも異様な光景だ。
指を、口に当てている。
指笛を吹いているときと、同じだ。
しかし、音が聞こえない。
かわりに、口元から黒い霧がどんどん出ていた。
それは、いったんシルフィの身体の周りをぐるりと巡ると、上昇していく。
まるで、黒い炎が燃えあがっているようだった。
やがて、空にはまわりの気候とはなんの脈絡もない、ちいさな黒い竜巻ができ始めていた。
その竜巻はぐるぐると回転しながら、くねくねと曲がっている。
気がつくと、それはじわじわと移動し始めた。
海盗賊の船へと。
周囲には、とても不快なにおいが漂っている。
「くそっ」
ゲイルは顔をしかめた。
間違いない。
これは、外律魔法だ。
聞いたことがある。
外律魔法は、魔力を使える人間の、あまりにも強い恨みや怒りといった感情につけこんでくることがあるのだ、と。
そうなると、特別な呪文や儀式を経なくても、発生してしまうのだ。
早く止めないと、このままでは、シルフィが外律の呪縛へと飲み込まれてしまう。
焦る気持ちと船の揺れのせいで苦労しながら、なんとか足のロープをほどく。それから甲板を這うようにして、右舷へと近づいた。
デヒティネの乗組員たちは、必死に手近な索具や出っ張りにしがみつくのが精いっぱいで、ろくに動くことすらできないでいた。
だが、おかしなことが起こっていることには気づいていて、みんな不安げな顔つきで、ゲイルがシルフィの元へと行くのを見守っている。
ゲイルが揺れのせいで後ろに滑りそうになると、できる範囲で手を握ったり、つかまっていないほうの手で身体を押したりして、協力してくれた。
「シルフィ!」
なんとか傍らまで行って、舷縁につかまって立ち上がりながら呼ぶが、反応はない。
腕をつかもうとしたが、周りに立ちこめている霧が熱を持っていて、干渉を阻んだ。
海盗賊の船は、今やすっかり黒い竜巻に飲みこまれてしまっている。
そのせいで、背の高い、前方のマストを軸に、くるくるとまるで独楽のように回っていた。
これでは、乗っている人間たちも、甲板に置かれていた物も、耐えきれない。
みるみるうちに、海面へと吹っ飛ばされている。
いい気味だ、と一瞬ゲイルも思ったが、あわてて首をふり考えを消した。
自分がそんなことを思っていたら、シルフィの外律魔法に巻き込まれかねない。
とにかく、人の暗い感情や、復讐心といったものと親和性が高い魔法なのだ。
盗賊船の回転は、見ているあいだにも、どんどんひどくなる。
やがて、船体がひしゃげ始めた。
まるで見えない大きな手が、紙舟をくしゃくしゃと丸めていくように、割れ、はじけ、形を失っていく。
まわりの海に落ちた連中は、驚愕の表情で、それを見ているしかない。
やがて『船であったもの』が沈んでしまうと、百戦錬磨の荒くれものであるはずの、彼らの表情が強張りだした。
なにしろ、戻る場所を、失ったのだ。
絶望を浮かべ始めた彼らに、さらに追い打ちがかかった。
いまだ勢いのやまない黒い竜巻と、船が沈む勢いの水流で海面が渦巻き、まともに泳いでいられなくなったのだ。
「シルフィ、落ち着け! 指笛をやめるんだ!」
ゲイルは必死に呼びかけた。
しかし、なんの反応もない。
まるで、意識がどこかへ飛んでいってしまっているようだった。
***
そのあいだ、デヒティネも混乱のなかにあった。
レイディの叫びも、船の揺れも、どんどんひどくなっていく。
乗組員たちは、ますます船にしがみつくのがやっとで、なにもできない。
デヒティネの傾きはどんどんひどくなり、水面に触れるまでになっていた。
甲板が波をかぶり、よけいに滑りやすくなる。
意識を失っているケリーソンの身体は、ニックが必死に抱えていた。
しかし片腕で舵輪の足元にしがみつきながら、もう片腕で大人の男の身体を保持しているのは、正直きつい。
大きな揺れに耐えかねて、ついに手が離れてしまった。
ケリーソンの身体が斜めになった甲板を滑っていく。
「船長! 駄目だ!」
舵輪にしがみついていたジェリーが、丸めてあったロープをとっさに投げる。
投げ縄の要領でなんとか両脇の下にひっかかり、船から放り出されるのは防ぐことができた。
その衝撃で、意識が戻ったらしい。
ずっと閉じたままだった、ケリーソンの目が開いた。
「レイディ……、レイ、ディ……、落ち、着け……」
囁いた声は、人間にはほとんど聞こえないほど小さい。
それでも、レイディには通じたのだろう。
劇的に、効果があった。
船体の揺れがおさまり、叫び声がやんだのだ。
すると、それが幸運にも影響したのか、シルフィが、動きをとめた。
指が、唇から離れる。
「シルフィ!」
そこを見逃さず、呼びかけたゲイルの声に、今度はゆっくりと顔を向ける。
周囲を囲んでいた霧が、たじろいだように、すこしだけ薄れた。
「あいつら、殺してやる」
そう訴える瞳は、黒い膜に覆われ、人間ではないようだ。
ゲイルは舷縁にしがみついていた腕を離し、そのまま、シルフィへと手を伸ばす。
霧はぴりぴりと皮膚を刺激したが、さっきまでの耐えきれないほどの熱はなくなっている。
なんとか、自分の弟子の腕を、しっかりと掴むことができた。
闇へと、連れてはいかせない。
そんな想いをこめて、手に力をいれる。
「あいつら、殺してやる」
そう繰り返すシルフィの身体は、細かく震えていた。
「シルフィ、いいんだ。殺す必要があるんなら、みんなでやろう。お前ひとりで、背負う必要はないんだ」
「あいつら……」
「でも、まあ、実際」
ゲイルは、無理におどけた声を出す。
「もう殺す必要はないぞ。あいつら間抜けなことに、結局なんにも奪えずに逃げてった。全部、終わったんだ」
「でも、レイディが……、船長が……」
「レイディは落ち着いた。ほら、もう揺れてないだろ。船長は、まあ……」
それ以上は、言葉を濁すしかなかった。
ただ、それでもシルフィの身体から、強張りがだんだんとなくなってきていた。
それにともなって、竜巻の勢いもどんどん弱まってくる。
船上にあった黒い霧の色も、ゆっくりとだが薄くなってきていた。
下を見ると、溺れかけていた人間たちも、渦がなくなってきた海面に、次々と頭を出している。
「……ひっく」
しゃっくりの音が聞こえた。
シルフィが、泣いている。
あの黒い膜も、いつのまにか消えていた。
ただ、これまで一度も、ゲイルに涙を見せたことはなかったので、正直驚いた。
落ち着かせようと、背中を何度も柔らかく叩く。
「怖かったんだ」
「ああ」
「全部なくなっちゃう、って思ったら……、怖かったんだ」
「ああ、わかるよ」
ゲイルの言葉にようやく落ち着いたのか、シルフィは長いため息をひとつついたあと、赤くなった目をこすった。
「みっともないね、あたし」
ばつが悪そうに呟くのを、そんなことないさ、とだけ返す。
「なんで、こんな気持ちになったんだろ……」
腑に落ちない様子で続ける言葉に、ゲイルは黙って、ただそばに立っていた。
そのときだった。
あたりの海に、警告の大鐘の音が、響き渡った。
「くそっ!」
海盗賊の連中が喚く。
「沿岸警備軍の船が来やがった!」
次回でいったん最終回です。
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