2. 桟橋の少年
彼はいったい、誰だったのか
その後の話は、あっと言う間に決まった。
ゲイルと名乗ったその男は、シルフィについて酒場へと向かい、まずは父親のティムに話をつけようとした。
しかし酔っぱらっているので、まともな返事がこない。
それで結局は家へとやってきて、ホリーと話を固めた。
「一週間後に船が出る。それまでにモノになりそうだったら、そのまま連れていく。それでいいか」
「そりゃあ、風呼びなんてのになれるんなら、ふたつ返事で頷きたいけどさ……。あんたの身元もわかりゃしない。簡単に娘を預けるのは、ちょっとね」
ホリーは慎重だ。
しかし、ゲイルは不機嫌になることもなく、頷く。
「そりゃそうだ。俺たちが乗る船は、『デヒティネ』だ。知ってるだろ。心配なら、停泊しているあいだに、見学なりなんなりにくればいい」
「デヒティネ!? 本当か!?」
とろんとした目つきでふたりの会話を聞いていたティムが、急に大声をあげた。
「一昨年のティーレース、俺、あんた達に賭けたんだよ! あんときゃ儲けたぜ。速かったよなあ!」
たぶんティムは褒めたくてその話をしたのだが、日頃から、賭けに対していい印象を持っていないホリーに思いきり睨まれて、首をすくめて黙った。
「ティーレースって、なに?」
ウィルが無邪気に訊く。
シルフィはホリーの顔色をうかがいながら、説明した。
「秋に、東の国から、お茶を運んでくる快速帆船がいるだろ。どれが一番乗りするか競争してるのを、賭けにしてるんだ」
「よく知ってるじゃねえか」
ゲイルが感心している。
シルフィはちょっとだけ鼻が高かった。
「茶葉ってのは、新鮮なら新鮮なほどいいんだ。だから、一番最初に着いた荷には、ご祝儀も兼ねて桁違いの高値がつく。そして、デヒティネは優勝争いの常連ってわけさ」
説明するゲイルは、自慢そうだ。
そんなふうに自分の仕事を誇りに思う人間がいるなんて、シルフィは思ってもみなかった。
少なくとも、身近にはいない。
「明日の朝、神殿の鐘が鳴ったら、五番桟橋に来い。ボートを迎えによこす。寝坊するなよ」
ゲイルは最後にそう告げると、さっさと帰っていった。
家じゅうが大騒ぎになったのは、むしろ、その後だ。
「風呼びだってよ! シルフィ、おまえいつの間にそんなすごいこと、できるようになってたんだ!」
まずはしゃぎだしたのはティムで、ホリーのほうはと言えば、それどころではないようだった。
「ちょっと、あんた、共同井戸から水を汲んできて。お湯をたくさん沸かすよ」
「え、なんでだよ」
「シルフィを風呂に入れるんだ。あたしはこれからひとっ走り、洗濯屋のアニーんところに大きい盥を借りてくる。さあ、急いで!」
「なんで風呂だよ?」
「バカだね、あんた。あたしらにゃ、シルフィの晴れの門出を祝う方法がそれくらいしかないんだよ。それに雇い主にだって、きれいにしといたほうが覚えがいいだろう」
「そ……、そうか。おまえ本当に機転がきくなあ」
のどかに言う夫に軽く微笑みかけ、ホリーは急いで家を出ていった。
「よし、おまえ達も手伝え」
ティムはそう言うと、バケツや水差し以外にも、鍋や果てにはコップまで引っ張り出して、子供達に持たせた。
戻ってくると、床にはすでに盥と、タオル代わりのぼろ布が用意されていた。
テーブルには、湯気の立つシチューがすでに器に盛られている。
空いた大鍋を洗い、そこに汲んだ水を入れ、暖炉の火にかける。
「さあ、お湯を沸かしてるあいだに、夕食だよ。今日はいいことばっかりだね」
久しぶりに家族四人揃っての食事は、それだけでも特別感がある。
将来が開けそうな見込みに、誰もが機嫌がよく、シルフィはそれが嬉しかった。
食後の風呂は、慣れないせいもあってどうにも気恥ずかしかったが。
あげくに着たきりだったドレスも下着も、一式全部洗われてしまったので、ホリーから借りたチクチクする生地のショールを身体に巻き、震えながらウィルと一緒にベッドに入った。
***
次の日、濃い朝もやのなかを、シルフィは桟橋に向かった。
乾かしたばかりの清潔なドレスを着ていると、気持ちがしゃっきりとするような気がする。
さらには、ホリーは手元にあった余り布で、リボンまで作ってくれた。
それを、梳かした亜麻色の髪に結んでいると、なんだかとても誇らしい気分になる。
まるで、勲章をもらったみたいだ。
弾む足取りで路地を抜けながら、隣を見る。
父親のティムが、一緒なのだ。
一応、付き添いということらしい。
道すがらに行きあう、顔見知りの港湾労働者たちと、しきりにあいさつを交わす。
こうして素面でいるぶんには、なかなか気のいい男なのだ。
初めての場所、しかも明らかに今までの路上売りとは比べ物にならないほどの好条件であろう職場への初訪問とあって、緊張が高まっているシルフィには、初めて父が頼もしく見えた。
こんな時間からでも、すでに作業を始めている人間たちのあいだをぬって、目的の桟橋に着く。
ここには、ひと気がない。
しばらく待っていると、やがて、白いもやの向こうから、オールを漕ぐ音が聞こえてきた。
ゆっくりと、小さなボートが見えてくる。
迎えによこす、と言っていたのはこれだろう。
いよいよ、新しい世界へと連れていかれるのだ。
ごくり、と唾を飲みこんだ、その時だった。
「すまない、それを使わせてくれ!」
突然現れた人影が、そう叫びながら、シルフィたちを差し置いて、岸に寄せたボートに飛び乗った。
「おい!」
ティムが不満げに声をあげる。
「急いでるんだ。済んだら、すぐに引き返させるから」
そう答えたのは、シルフィとあまり年齢が変わらないように見える少年だ。
シャツにズボンというシンプルきわまりないいでたちではあったが、生地も仕立ても、見るからに一級品。
脇には、ジャケットらしきものを丸めて抱えている。
その、上流階級らしい雰囲気の相手に、ティムが引いたのがわかった。
シルフィは苛立ち、怒鳴る。
この状況だけではなく、さっきまで頼もしかった父親が、急激に卑屈な態度に変わったことに、神経を逆なでされたからだ。
「ふざけるな、こっちは遅刻だよ! あたしの人生かかってんだ。あんたの都合で潰されてたまるか!」
しかし、相手はとっくに、船を岸から離させていた。
当然、引き返すつもりはないだろう。
ただ、シルフィの態度に驚いたのか、突っ立ったまま目を見開いていた。
「おい!」
もう一度叫ぶと、急に、懐からなにかを取り出した。
そのまま、シルフィに放り投げる。
思わず受け取ると、コインのような金属片だ。
表面には、見たことのない刻印が彫ってある。
「相手に、それを見せろ。遅刻ぐらいなら、許してもらえるから!」
すでにもやのなかに入ってしまい、姿は見えなくなっていたが、少年のその言葉だけが聞こえてきた。
「なんだよ、あいつ……」
ぶつぶつ呟いていると、ティムがその金属片を取りあげた。
しげしげと眺め、息を飲む。
「おいおい、シルフィ、これ……」
「うん?」
「この刻印、王家御用達についてるやつだぞ。積み荷にこれがついてるの、一回だけ見たことがある」
「はあ!?」
ふたりは、しばらく黙りこんだ。
このトライゴッズ認王国は、王制ではある。
ただ、シルフィたちのような階層からすれば、縁が遠いどころかほぼ目先の生活に関係ないので、王室というものに対して、知識も興味も持っていない。
それが急に、自分たちの日常に割りこんできたので、ただただ戸惑うしかなかった。
「王室直属の積み荷業者ってことか。それならまあ、言い訳はたちそうだ」
「そうなの?」
「まあ、たぶんだけどな」
結局、ボートが戻ってきたのは、かなり経ってからだった。
春先とはいえ、海風にずっとさらされているとさすがに寒い。
せっかくの門出だというのに、冷え切った身体でボートに乗りこむ羽目になってしまった。
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