1. 見知らぬ船影
目的地は、近いのだけれど
グゥリシア大陸を離れたデヒティネは、それまでのペースのほぼ倍の速さで、東へと進んだ。
ライバル船レッドヘアーの存在がわかった以上、急ぐ必要があるからだ。
実は去年、デヒティネは先を越されている。
その際、目ぼしい茶商の品物を洗いざらい、買い占められてしまったのだ。
そのおかげで、買いつけに奔走するはめになり、その時間のぶん本国へ帰るのが遅れ、結果、名誉(そしてもちろん実益も)ある一番乗りを、譲ることになってしまったのだ。
それは、まだ生々しい苦みを伴って、みんなの記憶に残っている。
今回、レオマヤで氷を先に売られたことは、そのトラウマをまざまざと蘇らせた。
あの轍は、二度と踏みたくない。
それが、全員の統一意識となるのも、自然な流れと言えた。
そんなわけで、次の寄港地、フーミダーラ大陸の最南端の港オリ・トゥレイムカンにようやく着いても、落ち着く余裕などない。
さいわい、ジェラニの縁で仕入れた染料はかなり質が良く、あっというまに高値で捌くことができた。
そのおかげで、新しく積み込む薬草を仕入れたあとも、かなりの金貨が手元に残る。
そんなことは、初めての経験だった。
ケリーソンはそれを、自分しか開けることのできない、船長室の金庫にしまっておくことにした。
それは、床下に取りつけられた隠し金庫だった。
上から絨毯を敷き、さらに大テーブルを置いてあるので、存在じたいが、そもそも誰にも知られていなかった。
これ以上、目的地までに寄港しなくても済むように、補給もたっぷりとし、すぐに出発する。
そうなると船員たちの息抜きも、食材の新鮮さもままならなくなるのはわかっていたが、誰もが今の状況を理解していた。
だから、多少ボヤきはしても、本気で不満を言う者はいなかった。
ここから先は、少し南に下れば、継常風と呼ばれる風が安定して吹いていて、東まで順調に運んでくれる。
スピードを上げるには、もってこいの区間だ。
気をつけなければならないのは、突然の嵐と、頻繁に行き来している貿易船と、衝突しないようにすることだけだった。
この風を利用したいのはどの船も同じで、海上はいつも混みあっているのだ。
推進力、という意味での風呼びの仕事は、ここではあまり求められていない。
その代わり、この密集したなか、周りの船とぶつからないように、風向きをこまめに調整することが期待されていて、正直、かなり神経を使う仕事だった。
しかしゲイルの指導がよかったのか、シルフィの飲み込みが早いのか。
ここを順調にデヒティネは進み、予定よりも早く到着できそうだった。
いよいよ、目的地であるフォントゥ大陸が波の向こうにうっすらと見えてくるようになってようやく、デヒティネにはゆとりが戻ってくる。
そもそも、このあたりにさしかかってくると、スピードをあげるのはあまりにも危険なせいもあった。
港に近づくまでに大小の島々があり、座礁のおそれが格段にあがる。
さらにこの大陸最大の貿易拠点とあって、行き交う船の多さと密集度も、継常風の地域がかわいく思えるほどなのだ。
そんな場所なので、デヒティネは帆をほとんど畳み、のろのろと慎重に進むしかなかった。
一度スピードに乗った航海をしたあとは、これはかなり、イライラする状態ではある。
そこで、気晴らしでもしようと、誰かが言い出した。
誘いに乗り、比較的手の空いた者たちが集まり始める。
シルフィも檣楼から降りているタイミングだったので、呼びこまれて加わった。
ルールは、立てかけた木の板にいくつかのマークを描き、決まった距離からそこに小石を投げて当てるというものだった。
形の違うそれぞれのマークには点数がついていて、五回投げ、合計点数を一番多く取った者が勝つ。
退屈しのぎにはもってこいで、これにいつも参加する人間は、上陸したときに具合のいい小石を拾ってきておくのが習慣になっているほどだった。
遊びとはいえ、実はけっこうみんな真剣だ。
なにしろ、賭けにもなっているのだ。
参加料代わりにそれぞれ私物を差し出し、勝った者が総取りするのだが、いつも種類がなかなか豊富になる。
タバコ、軟膏、胃薬、アクセサリー……。
コインは、意外と出ない。
船のなかで金銭をやり取りしたところで、使うところがないからだ。
明日は海の藻屑となるかもしれない水夫稼業、目先の楽しみや便利さがなによりも重宝がられる。
だから、不便な船上生活をちょっと便利にするものや、娯楽用の消費材が出てくることのほうが多い。
シルフィも手持ちの銀貨がけっこう貯まっていたが、出したのは、持っているなかで一番日持ちのする菓子だった。
干した果物に砂糖がけされたもので、コックのブルーノに高く売りつけられるというので、なかなかの目玉扱いされている。
長い航海の果て、今はかなり食材が限られている。
そして、上級船員に出すデザートの材料に、腕利きコックはこのところ困っているのだ。
ちなみにこの場合の、『高く売りつける』というのは、『上級船員に出す、肉の切れ端と取り換えてもらう』ことを意味する。
由緒正しき経済活動、物々交換というわけだ。
「ああっ!」
リッチーの情けない声が、甲板に響いた。
最後の一投、力みすぎたのか、石は板にすら当たらず、ずっと先をコロコロと転がっていった。
一位争いをしていた、シルフィとピーティーは歓声をあげる。
これで、あとは一騎打ちになることが決まった。
「おっし、見てろよ」
ピーティーは肩をぐるぐると回し、投げる位置につく。
ゲームの参加者も、見物人たちも、固唾を飲んでそれを見つめている。
だが、フォアマストの檣楼にいる見張りの声が、それを邪魔した。
「三時方向に船影! こちらに向かってきているようです!」
のどかだった甲板の雰囲気は、一変した。
この海域で、船が近くにいることは、そもそもは珍しいことではない。
だが、普通は針路が重なったり衝突したりしないように、お互い距離を取ろうとするものだ。
つまり、寄ってこようとするのは……。
積み荷を狙う、海盗賊である可能性が高い。
実際、このあたりは彼らの被害で有名な海域だった。
知らせを受けたケリーソンが、甲板にあがってくる。
船首楼に即座に移動すると、胸元から折り畳みの遠眼鏡を出し、見張りの指す方向を確認した。
「ちっ」
この地域独特の、半円のような形をした帆を確認すると、ケリーソンは舌打ちをした。
その帆に描かれているもので、相手が何者か、わかったからだ。
赤い帆に、大きく描かれているのは、この沿岸地域を守護する女神ホンフェイの末娘、いたずら好きのユエチェの絵だ。
若い乙女の顔をし、胴に四枚の大きな鰭を持つ。
この女神は、光る物が大好きだとも言われている。
それが欲しくて、金銀財宝を積んだ船を、いたずらで沈めてしまうことさえあると。
そのため、この海域に入るときには、磨いて光らせたコインや安物のアクセサリーなどを、捧げものとして先に海に投げ込む習慣があるほどだった。
そしてそんな性格に親近感を覚えるのか、海盗賊が自分たちの守護神として、好んで絵や柄に使う存在でもある。
嫌な予感が当たったと考えて、ほぼ間違いないようだ。
「どうします。スピードをあげるのは難しいですよ」
隣で、同じように遠眼鏡で確認したニックが訊いてきた。
ケリーソンは、すぐに判断をくだした。
「ジェリーはそのまま操舵。ニックは何人か連れて、武器箱を甲板に出しておけ。追いつかれたら、応戦するしかない。俺は拳銃を取ってくる」
ケリーソンとニック、ジェリーの三人の拳銃以外の武器は、ふだんは鍵のかかった大箱にまとめて入れられ、船倉の奥にしまわれている。
反乱に使われないためだ。
それを扱っていい権限は、船長以外では、副長であるニックだけしか持っていない。
ニックは神妙な面持ちでうなずくと、何人かの力自慢の水夫を引き連れて、船内へおりていった。
「それから、シルフィ」
檣楼に戻りかけていた姿に、声をかける。
「おまえは、船倉に隠れてろ。女が乗ってるとわかると、なにをされるかわかったもんじゃない」
その言葉に、不満で頬を膨らませる。
「あたしだって、戦える」
「わかってる。だが万が一、おまえが人質になったりしたら、みんな動揺する。こういう状況じゃ、隠れてくれていたほうが、役に立つんだ」
言い返したいところだったが、この切羽詰まったときに、シルフィひとりだけにケリーソンが構っていられる状況でもないだろう。
それはわかっているから、それ以上なにも言わずに、ひとまず指示に従った。
もちろん、相手がもし乗り込んできたら、タイミングを見計らって自分も戦闘に加わるつもりではいた。
重い武器箱を二人がかりで運び出すニックたちと入れ違いに、悔しい気持ちを抑えながら、シルフィは階段を急いで駆けおりる。
***
相手の船は、どんどんと近づいてきた。
今では肉眼でも、武装した敵の姿がわかるほどだ。
「しかし、この船を狙ってくるとは」
自分の拳銃の弾を確認しながら、ニックが言う。
ケリーソンは、口の端を歪めた。
「金貨のことを、どこかから聞きつけたんだろう」
なにしろ、海盗賊だって、身の危険をおかしながら略奪に来るのだ。
だから、基本的に狙うのは、金銀財宝を積んだ船だ。
例年このあたりの海域を通るデヒティネが、今まで狙われたことがなかったのも、積み荷が薬草だったから。
かさばる割に売り先も限定された積み荷は、裏ルートで売りさばくには、効率が悪いからだった。
だが、今年は違うというわけだ。
おそらく、オリ・トゥレイムカンでの取引の情報が漏れたのだろう。
海盗賊たちの情報網も、なかなか侮れないものだ、と嫌でも痛感する。
そしておそらく、情報源になったのは、節操のない商人たちのうちの誰かだ。
あいつら呪われろ、とケリーソンは心のなかで罵った。
甲板では水夫たちが順々に、武器箱から次々とライフルや剣、槍といったものを取り出している。
他にも手斧やナイフなど、普段から使っている道具で武器になりそうなものも、各々で持ち出してきていた。
商船であり、スピードが最大の売りであるデヒティネには、重量のある大砲は当然積んでいない。
広い海にいれば、逃げるほうがよっぽど勝算がある。
なにしろ、デヒティネに追いつける船など、世界にも数隻しか存在しないのだ。
しかし、今はそれは取れない方法だった。
闇雲にスピードを上げても、現地の水先案内人が乗っているわけでもない以上、せいぜい座礁するのがオチだ。
もちろん、相手も、そのタイミングを狙いすましてきている。
相手の船は、このあたりの地形に順応した造りをしていて、浅い水深での行動力はデヒティネに勝る。
となると、あとは戦うしかない。
しかも、遠距離攻撃の手段を持たない以上、最初から白兵戦を覚悟するしかなかった。
さいわいというかなんというか、相手も大砲を積んでいるような船ではない。
デヒティネの半分ほどのサイズで、二本マスト、小回りがききやすい、機動性優先の帆と船体を持っている。
破壊するのではなく、すばやく取りつき人員を送り込んで、相手の船を乗っ取るのを戦法とするタイプだ。
ちなみに船首像は持っていない。
船の精霊像は、船内の祭壇にしつらえられているのが、このあたりの地での習わしだった。
武器が全員に行きわたった頃合いを見計らって、ケリーソンは銃を持った手を頭上に振りあげた。
「おまえら、覚悟はいいな!」
そう鼓舞すると、あちこちから、呼応する声が返ってくる。
「俺たちが苦労した稼ぎだ! あいつらにむざむざ盗られるんじゃねえぞ!」
返る声は、さらに、大きくなる。
誰もが、覚悟を決めている。
船乗りなら、当然のことだった。
相手の船は、デヒティネの右舷につけてきた。
すぐに、先端に鉤のついたロープが何本も飛んでくる。
そのうちの数本が舷縁に引っかかると、間髪入れずにまず小柄な連中がそれを伝って、側面を登り始めた。
シルフィよりさらに年下の、少年のように見える者もいる。
ライフルを持った者が上から狙って撃つが、左右にひょいひょいと器用に揺れながら登ってくるので、思うように当たらない。
弾も無駄にはできないから、むやみやたらに撃ちまくることも不可能だ。
そうやっているうちに、数人に甲板まであがられてしまった。
彼らの腰にもロープがくくりつけられていて、乗り込んだとたん、後続のために手際よくあちこちに結びつけた。
すぐにそれを伝って、今度は身体の大きい者も、どんどん乗りこんでくる。
そして甲板は、あっというまに、武器のぶつかり合う音と、叫び声や掛け声でいっぱいになった。
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