6. 水柱
いななきに、応えるもの
ぎしぎしと木材の軋む音が、そこかしこから響いてくる。
たいがいの船だって鳴るものだが、この謎の船がたてる音は、すこし度を越していた。
海を進むのがやっとの、とんでもない老朽船なのだ。
あたりの様子を窺っているジェラニの背中が見えたので、シルフィは近づいていく。
隣に並ぶと、驚かれた。
「どうしてついてきた」
小声で訊かれる。
だって、と返そうとしたら、急に黙るようにと仕種で示された。
なにかの音に気づいたらしく、黒い瘴気の向こうに耳を澄ませている。
シルフィにも聞こえた。
舵輪が、回る音だ。
ジェラニは何人かを呼び、自分と一緒に行く人間と、他の場所を探しに行く人間とを選び、指示をする。
シルフィはその隙に、マストに登ることにした。
ジェラニに、瘴気の荷袋を捨てに行くと言い残し、返事も待たずに一気に登り始めた。
檣楼に着くと、マストに結びつけていたロープをほどき、一瞬迷ったが、思い切って海へと投げ捨てる。
海中に沈むと、さすがに瘴気は出てこなくなったようだ。
それを確認してから急いで降りると、物陰をつたうようにしながら、ジェラニたちが向かった、舵輪のある船尾楼へと向かう。
奇妙なことに、この船には、人の気配というものがなかった。
デヒティネなら、甲板にも帆桁にも人がいて、みんな忙しくなにかしらの作業をしているものだ。
それが、今のところ誰の姿も見ていない。
足音や、合図の声すらも聞こえない。
そのまま進んで、ようやく初めて、人影を見た。
痩せた顔つきの悪い男が、舵輪をつかんで立っていた。
髪は乱れ、服はあちこちがほつれているうえに、何日も洗濯していないような不潔さで、相当にみすぼらしい姿をしている。
「娘はどこだ!」
怒鳴りつけるように訊いているジェラニの迫力に、のけ反りながらも、懸命に首をふっている。
その態度に苛ついたのだろう、まるで首を絞める勢いで両襟を掴んだ。
「正直に言わないと、この場でぶっ殺すぞ」
まわりの空気がびりびりするような、迫力のある声だった。
男はおびえて、何度も視線を左右にやったが、とうとう諦めて口を開いた。
「積み荷なら船倉にある。それしか乗せてない」
「中身もわかってないのか。よくこんな仕事、請け負ったな!」
「しかたないだろ。ここんとこ、ろくな仕事にありつけてなかったんだ」
貧相な男は、吐き捨てるように言った。
ジェラニはそれだけ聞くと、掴んでた襟を、まるで投げ捨てるように離した。
男はその勢いで、倒れこむ。
「君は、ここで待っていなさい」
駆け寄ってきたシルフィにそう言い、仲間のひとりに男を見張っているよう指示する。
そしてすぐに、船倉の入口に向かった。
残りの仲間たちも続く。
シルフィは、甲板をぐるりと見回した。
やはり、他の船員の姿はない。
「こんなんで海出て、大丈夫なの」
訊くと、男は肩を竦める。
「すぐ近くにある島まで運ぶのを頼まれただけだからな。ひとりで操船できるようにしてやる、って言われたから、受けられたんだ。この船はもう、長い航海には耐えられない。おかげで水夫だって嫌がって、雇うこともできやしないんだ。この稼ぎで修繕して、そうしたら俺だって、もうひと旗、あげられるはずだったのに」
それを聞くと、シルフィはまた腹が立ってきた。
こういう、どうしようもなく困ってる人間を利用して、非人間的な商売で儲けようとする人間がいることが頭にくるのだ。
「でも、なにを積んでるのか、本当に知らなかったの」
「そうさ。詮索しないのも、条件のひとつだったからな。船は魔法で進めるから、俺だけ乗って舵取りしてくれればいい、って言われてさ。丸儲けだぜ。断る理由はないだろ」
悪びれもせずにそう言う姿に、なんだかいったん同情したのが、ばかばかしいような気にもなってきた。
そうしているうちに、ジェラニが船倉から姿を現した。
両手にティシャを抱えている。
「ティシャ!」
シルフィが駆け寄ると、ティシャは父親の腕から飛び降りた。
お互い両手を広げ、しっかりと抱き合う。
「他の人たちは?」
ふたりを穏やかな表情で見守っていたジェラニに訊くと、眉をひそめながら答えた。
「衰弱しすぎて、自分じゃ歩けないようだ。とにかくいったん、みんなの力を借りて箱から甲板に出そう。飲み水もあったほうがいいかもしれない」
「あたし、デヒティネから貰ってくるよ!」
シルフィは叫び、駆け出した。
「おまえも彼女を手伝いに行ってきなさい」
ジェラニに言われると、ティシャもその背を追った。
***
黒い霧の向こうから戻ってきたシルフィに状況を聞くと、ケリーソンは、手の空いている連中に手伝いに行くように命じた。
檣楼ではゲイルが風を誘導し、残っている瘴気を吹き飛ばそうとしている。
その効果もあってか、しだいに相手の船の全体が見えるようになってきていた。
飲み水の入った樽を、ティシャと二人がかりで転がしながら運びこむと、コップに汲んでは甲板に出された人たちの口元へと持っていく。
ひび割れた唇を動かし必死で飲む者もいたが、すっかり力を失っていて、それすら反応できない者もいた。
業を煮やしたティシャが、指で口をむりやり開いた。
なんとかできた隙間に、シルフィがすかさず水を流し込む。
そんな作業をやっているうちに、二等航海士のジェリーが乗り込んでくると、さっさと舵輪を取った。
「俺の船だぞ、俺が……」
船の持ち主が不満を口にしたが、ジェリーは軽蔑の目を向けただけだった。
「うちの船長は、おまえを信用できないってさ。さあ、このまま戻るぞ」
その言葉に、男の顔が引きつった。
「なあ、戻るなんて、やめてくれよ。俺のヘマのせいで密輸がバレたなんて知れたら、殺されちまう……」
「自業自得だ。こんな仕事、請け負ったのが悪い」
取りつく島もないジェリーの様子に、交渉はもう無理だと悟ったのだろうか。
男は突然、見張りの手を振り払い、デヒティネとは反対側の船べりへと突っ走ると、そのまま、海に飛び込んだ。
派手な水音が、あたりに響く。
「おい! くそっ! 誰かロープを投げろ!」
ジェリーの声に、作業していた人間たちが手を止めて駆けつけ、ロープの先を海面へと放った。
しかしそれには目もくれず、男は沖合に向かって泳ぎ始める。
「あいつ、島まで泳いで逃げるつもりか」
ジェリーが呆れた。
「行けるの」
シルフィの問いに、肩を竦める。
「どうだかな。まあ、ヤツの選んだ道だ、放っておけ」
冷めたことを言っていると、ふいに唸り声が船首から聞こえた。
「なんだ?」
「見てくる」
甲板を駆け抜けていくと、声は、あの痛々しい姿の船首像のものだった。
一緒についてきていたティシャが、その姿を見て声をあげた。
「ひどい」
「自分の船にこんなことするなんて、どうなってんだろ」
「外律魔法を使うのに、船の力を封じる必要があったんだろうね」
ティシャは言いながら、舳先に向かって身を乗り出した。
「あの目の塗料なら、剥がせるかも。ちょっとやってみる」
なん種類かの呪文を試す。
すると、なんとか取れた。
(口元も、なんとかしてやりたい)
そう思ったシルフィは、船首から前に飛び出した部分、船嘴へと向かった。
腰にロープを結びつけ、反対側の端を索具にしっかり結びつけると、船のヘリから外側へと降りる。
ロープと、外壁に突っ張った二本の足でバランスを取りながらゆっくりと下がり、なんとか船首像の口元に手が届く位置まで来た。
片手はしっかりロープを握っている必要があるので、空いているほうの片手だけを使って、短剣を取り出す。
汗だくになりながら、手が届く部分をなんとか切ることができた。
ロープと、口に挟まれた木の枝は、そのまま海へと落ちていく。
船首像の、苦しげだった唸り声が、やんだ。
そしてひと呼吸置いたあと。
あたりの空気を、びりびりと震わすほどのいななきをとどろかせた。
シルフィは落ちないようにあわてて、自分を繋いでいるロープを、両手でしっかりとつかみ直した。
しかし、それだけではすまなかった。
まるで船首像のいななきに呼応するかのように、ざぁぁぁぁ、という、船が水を掻きわけるときに似た音が、唐突に沖合から聞こえた。
シルフィは、音の方向へと目を凝らす。
そのときちょうど、空の雲が切れ、月の弱い光が波面を照らした。
波の一部分が、急に盛り上がっている。
驚いてみているうちに、それは真上に噴き上がり、海のなかに突然、水柱が立った。
「ぎゃあっ」
叫び声が聞こえる。
よくよく目をこらすと、てっぺんの部分に、泳いで逃げようとした男の身体が持ちあげられている。
水柱は、そのまま移動し始め、みるみるうちに、男の貧相な船へと近づいた。
そして口をあんぐりと開けて眺めていたシルフィの脇を過ぎると、甲板に船の主を放り投げた。
それが済むと、すぐに水面に同化して、あっというまに跡形もなくなってしまった。
「今の、なに!?」
甲板にいる人間たちに怒鳴って聞いたが、誰も、正確なことを答えられる者はいなかった。
それぞれが勝手な推測を並べたてる。
そのなかで一番可能性が高そうなのは、この沿岸一帯を受け持つ海の神コーヌラのおしおきだという説だった。
船首像の訴えに、応えたのだと。
たしかに、あっけに取られていた人間たちをよそに、船首像だけが、笑い声をあげている。
そして復讐に成功した者が、うっぷんを晴らした者があげるような。
そんないななきを、暗い波間に響かせていた。
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