4. 忌まわしい洞窟
ティシャを探せ!
灯りは消されてしまったらしく、洞窟の奥は、さっきよりも暗かった。
入口からの光を頼りに、さっきの記憶を思い出しながら、慎重に進む。
カーブを曲がりきり、檻の置いてある場所に、足を踏み入れた。
まず、臭いが鼻についた。
さっきは気づかなかったが、体臭や汗、排泄物……、そんなものの臭いが、洞穴の閉鎖空間にこもっている。
シルフィは、自分の鼻を手で覆った。
ティシャが自分の袋のなかから、小さな発光石を取り出した。
品質はあまりいいものではないらしく、それほど明るくはなかったが、なんとか周囲をぼんやりと照らすことはできた。
ただ、シルフィはちょっと驚いた。
発光石じたいがとても稀少な鉱物で、そこらの人間が簡単に手に入れられるようなものではない。
もしかしたら、ティシャはただの店番という身分の人間じゃないのかもしれない。
その光を頼りに四つの檻を見てみると、それぞれに、人が閉じ込められていた。
一辺が、小柄な大人がようやく足を伸ばせるほどの長さしかない狭い立方体に、四~五人が詰め込まれるように入っている。
具合があまりよくないのか、みんな床に寝そべったまま、じっと動かない。
シルフィやティシャが入ってきたことにも、反応する者はいなかった。
それでも、現地語を使って、ティシャが暗闇に小声で話しかける。
するとしばらくの沈黙のあと、手前の檻で横たわっていた女性がひとり、気怠そうな動きで身を起こした。
座っているだけでも疲れるのか、檻にぐったりと身を預けた姿勢で、ティシャの質問にぽつりぽつりと答え始める。
ひとしきり話したあと、ティシャが説明してくれた。
「内陸の田舎から、仕事を探して出てきたばっかりだって。いい仕事口があるって騙されて、ここに連れてこられたらしい。弱らせてからどこかに売る、って、あの男たちが言ってたって」
「う……売る?」
「聞いたことある? 強力な外律魔法を使うために、生きた人間の血や肉を使うヤツがいるって」
「うげっ」
「出てきたばっかりで、知り合いもまだいないから、いなくなっても誰も気づかない……。そんな人間を狙うんだろうな」
話を聞いて、シルフィは吐きそうになった。
実は、アーンバラでもそういう話は聞いたことがあった。
そしてそこでも、たいがい被害に遭うのは、シルフィのような貧しい階層の人間だ。
それを思うと、だんだんと怒りが湧いてくる。
「逃がしてあげられないかな」
そう言うと、ティシャは難しい表情ではあったが、頷いた。
「この檻、なんとか開けられないかな」
扉に取りつけられている、鍵を調べる。
大きな金属製のそれは、壊すのは難しい。
やはり、鍵がなくては無理なようだ。
それでもなんとかならないかと、ふたりで額をつきあわせて、ああでもないこうでもない、とやっていたのがよくなかったらしい。
あたりを警戒する注意力が薄れてしまっていた。
そのふたりを檻の中で様子を見ていた女性が突然、恐怖の表情を浮かべて合図をした。
「え、なに」
振りかえると、戻ってきたさっきのふたり組がカーブを過ぎて、ちょうど姿を見せたところだった。
「やばい!」
「なんだ、おまえら!」
同時に叫ぶ。
男ふたり組からなんとか逃げようと、シルフィとティシャは狭い洞窟内を、懸命に逃げ回った。
しかし、とうとうティシャが捕まった。
助けようと、通路そばにいたのに戻ろうとしたシルフィに、怒鳴る。
「あんたは逃げろ! 助け呼んできて!」
その言葉に動きを止め、一瞬、悩んだ。
だが確かに、ふたりで揃って捕まったところで、メリットがあるとは思えない。
留まりたい気持ちを振り切って、シルフィは通路を走り抜け、外へ出た。
男のひとりがなおも追いかけてきていたが、地面の砂と小石が顔に直撃するように、シルフィは風を呼んだ。
男は怒りの声をあげながらも足を止め、何度も拳で目をこするしかない。
その隙に、シルフィはどんどんと走って、森のなかへ逃げこんだ。
今は、虫が怖いとかなんとか言っている場合ではなかった。
そのまま、できる限りのスピードで森を抜け、市街地へと一目散に駆けていく。
***
街に入ると、まず宿に駆けこんで、ゲイルの部屋の扉を叩いた。
「どうした」
「ティシャを、ティシャを助けて!」
「ティシャ?」
「友だちだよ!」
「市場の子か。どうしたってんだ」
「悪い奴らに捕まったんだ。あたしを逃がしてくれた。助けを呼んでこい、って」
ゲイルはしばらく考え込んだ。
この街には警察のような組織はない。
自警団が強いせいだ。
しかし、よそ者からすると、誰が自警団で、どこに行けば助けてもらえるのかもわからない。
どうしたものかと思ったが、とりあえずわかっているところから行くしかない、と決めた。
「その子のいた店に行こう。助けを呼ぶなら、ここの人間のほうが色々詳しいはずだ」
「うん」
市場へと駆け込み、ティシャがいた店に向かう。
今日の店番は、顎まで髭を生やした男だった。
ケリーソンとゲイルの間くらいの年齢に見える。
「ティシャが」
突然現れたシルフィを不審そうに見ていたが、息をつきながらその名前を言うと、顔つきが変わった。
「あいつがどうした」
「変な奴らに捕まってる」
「変な奴らって、どういうことだ」
「わかんない。洞窟にいる人たちを、弱らせてから売るって」
男は驚いた顔をしたが、どうも信用していいのかわからないらしく、シルフィの全身をじろじろと眺めた。
突然見知らぬよそ者がやってきて、助けを求めているのだ。シルフィが逆の立場だったら、自分だってそうなるだろう。
どうしたらティシャの友だちだとわかってもらえるか、と考え、昨日描いてもらった腕の模様を思い出した。
さいわい、まだ消していない。
「こ……これ。ティシャに描いてもらったんだ。友だちだから、って」
そう言って鳥の模様を見せると、それで信じてもらえたらしい。
男は頷き、周りの店の連中に声をかけはじめた。
現地語なのでわからないが、たぶん、助けに行く手伝いを頼んでいるのだろう。
男は体格もよく、大声でざっくばらんに話すタイプだったが、そのせいで声をかけていない人間にまで話が聞こえたらしい。
周辺の店や、買い物客が、つぎつぎに集まってきた。
口々になにかを言いあっているが、それがどんどんヒートアップして、ケンカでもないのにお互い怒鳴り合っているような状態になる。
そんなことよりはやく助けに、と、シルフィは言いたかったが、誰も耳を傾けようとはしない。
もう放っておいて、別の助けを探そうかと思った瞬間、最初に話した髭の男が、轟くような低音で、なにかを叫んだ。
その威厳のある調子に、思わずシルフィまで背を正す。
さっきまで好き勝手に騒いでいた連中も、一瞬で黙った。
「案内してくれ。俺はティシャの父親で、ジェラニって名前だ」
「あたしは、シルフィっていう」
「ああ、たしかにティシャから聞いた名前だ」
ジェラニは頷き、歩き始めると、さっきまで騒いでいた連中までついてきた。
さらに途中でそれぞれが勝手にあちこちの店番や通行人に声高に話しかけ、それを聞いた相手までついてくるので、どんどん人数が増えていった。
どちらかというと野次馬に近いノリのようではあったが、それでも、大勢の人間が協力してくれようとしているのは心強い。
そんな調子だったので、シルフィたちが森を抜け、土と砂の斜面を進む頃には、すでについてくる人々は数えられないほどになり、まるで行進のようになっていた
なんとか来た道を思い出しながらたどり、目当ての洞窟に着いたころには、ずいぶんと日も落ちていた。
「ここだよ」
ずっとシルフィの横についていたジェラニに言うと、頷く。
後ろからついてきていた連中に、命令口調でなにかを言うと、みな足を止めた。
さっきからの態度を見るに、ジェラニはずいぶんリーダー的な役割に慣れているように見えた。
ついてきた連中が、自然に指示に従うのだ。
用意してきていた小ぶりなたいまつに火をつけ、集団のなかから腕っぷしの強そうな五人を選ぶと、一緒に洞窟へと入っていく。
ついて行こうとしたシルフィは、外で待っていろと言われた。
あのふたり組とひと騒ぎあるかと、なかの様子を窺っていると、意外にもすぐに引き返してきた。
「どうしたの、ティシャはどこ?」
「いない」
「えっ」
「檻はあったが、誰もいない。あわてて引き払ったんだろう。扉が全部開けっぱなしだし、鍵は放り出したままだった」
「そうなんだ……」
「問題は、どこへ逃げたか、だな……。ここらへん、洞窟だらけだぞ」
ジェラニは考え込んだ。
なにか手がかりはないかと、シルフィはあたりをきょろきょろと見回す。
そこで、岩の隅でなにかが光った気がした。
近寄っていくと、木音の森で見た、あの蝶の模様が足元の岩肌に貼りついていた。
「蝶だ、蝶があるよ」
声をかけると、それがなにを意味するのか、ジェラニにはすぐわかったのだろう。
駆け寄り、確かめると、まず近くに似たような印がないか、探し始めた。
しかし、小さいせいもあってか、見つからない。
そうしていると、こちらを真似て探していたうちのひとりが、かなり離れた場所で声をあげた。
ジェラニが弾かれたように顔を上げ、その方向へと駆けだす。
シルフィも、迷うことなくついていった。
斜面の石のひとつに、蝶の印があった。
前の岩の印から線を繋いだ先の方向に見当をつけて探すと、そこにもまた同じように印がつけてある。
「ティシャだな」
「うん。ペンみたいなの持ってたから、それだね」
「こっち方向に連れて行かれたようだな」
「じゃあ、これを追っていけばいいんだ!」
「ああ」
ジェラニは頷くと、みんなに蝶の印を探すように命じた。
***
そのすこし前、ケリーソンはとある商会の建物から出てきて、ため息をついていた。
染料の仕入れのあてが、またはずれたのだ。
採算度外視なら、なくもない。
しかし、できればそれは避けたい。
目前の利益の問題もさることながら、一度そんな取引を受け入れたと評判になれば、未来永劫、舐めた扱いを受けかねないからだ。
それを考えると、まだまだあちこちの商会を回らなければならなそうだ。
となると、下手すれば停泊の日数も伸ばさなくてはならない。
ため息も出ようというものだ。
だが、ふと気がつくと、大通りのほうで誰かが騒いでいた。
目をやると、ずいぶん多くの人々が、通りを練り歩いて斜面へと向かっている。
なにか地元の祭でもあるのだろうか。
そうでなくても、この地の人々は野次馬根性というか、良くも悪くもおせっかいというか、なにか事が起こるとすぐに集まって騒ぐのが常で、特に珍しい光景でもなかった。
「船長、こうなったら、染料以外にも手を出すしかないんじゃないですか」
後から出てきたトバイアスが、やはり通りの騒ぎに目をやりながら言った。
「そうだな……」
ついつい疲れた声で相づちをうっていると、トライゴッズ式スーツを上からしたまで着こんだ、身なりの妙に整った男がふいに横道から出てきて、声をかけてきた。
洒落た格好ではあるのだが、動きのせいか表情のせいか、どこか軽薄そうな雰囲気がある。
だいたい、この暑さのなかで、トライゴッズ式という寒い地方前提のデザインのものを着ているというのも、あまり実用的思考の持ち主とは思えない。
革靴に至っては、せっかくピカピカに磨いてあるというのに、縁にはもう白い土ぼこりがこびりついているという体たらくだ。
「にいさんたち、積み荷の算段がつかなくて困ってるみたいだな。そのあいだに、近場でちょっと小遣い稼ぎしないか」
ケリーソンもトバイアスも、ただ黙って視線だけを返した。
男は肩を竦めると、言葉を続ける。
「かっこつけてたって、商売ができなきゃどうしようもないだろ。たいして場所も取らない、いい積み荷があるんだ。必要なことは、中身について詮索しないことだけ。悪い話じゃないと思うけどね」
ケリーソンは、一応しばらく考えるふりをしたあと、答えた。
「やめておくよ」
「おいおい。断るのは、もうちょっと話を聞いてからでも遅くはないぜ」
「そうだなあ。じゃあ、こう言えばわかるか。出処の怪しい品物を積むほど、落ちぶれたくはないんだ」
棘のある言葉に、相手はチッと舌打ちする。
「気取ってたってしかたねぇだろうが。空っぽの船倉にプライドだけ詰めてりゃいい」
そう捨て台詞を吐くと、気取った服もどこへやら、怒りにまかせた大股で去っていった。
その背を呆れて見ていたトバイアスは、ぶつぶつと呟く。
「ああいうのが、ここでは洒落てるんですかね」
「ん?」
「上着の背中ですよ。裾のあたりに、蝶の模様がついてる」
言われてみると、小さな赤い蝶の印が、ひとつだけついている。
「俺に訊くなよ。流行やらなんやら、疎すぎるっていつも女房に叱られてんだぜ」
「そうでしたね」
トバイアスはかすかに笑った。
たとえ海軍ほど厳しくないにしても、乗組員にとってはやはり絶対権力の船長が、妻に頭があがらない話はいつ聞いても愉快なのだ。
「さてと」
ケリーソンはまたため息をついた。
「やっかいな仕事を受けるしかなくなるなんて、ごめんだからな。商会めぐりを続けるぞ。つきあってくれるか、トバイアス」
「しかたないですね」
トバイアスは肩を竦めながらも頷いた。
「今日はもうじき、どこの事務所も閉まる時間です。明日に期待するしかありません。どうです、デヒティネの様子でも見に行きますか。氷もおろし終わったころでしょう」
「ああ……。そうだな」
ここでごちゃごちゃ言っていても、しかたがないのはたしかだ。
ふたりは港へと向かった。
レイディは、すでにもう静かに眠っていた。
船が停泊しているあいだは、いつもこんな感じなのだ。
港じたいも、昼に比べればずいぶん静かになっていた。
暗くなってからの港の出入りは、どんな船だってできれば避けたいところなのが本音だからだ。
ふたりに気づくと、荷おろしに艦長代理として立ち会っていた航海士のニックとジェリーが寄ってきた。
「船長」
「無事終わったか」
「ええ。さすがここの荷役人たちは、手際がいいですね」
「ふむ。終わったのなら、おまえたちも船を離れていいぞ。今日は祭かなにかでもあるようだ。街が騒がしかった」
「祭ですか? 聞いてませんね」
「じゃあ、違ったかな。ただの騒ぎか」
「ケンカでもありゃあ、俺たちにとっちゃ祭と一緒ですけどね」
「ははは。まあ、船に乗れなくなるようなケガだけはするなよ」
「アイアイ、サー」
ふたりはおどけた敬礼をすると、軽い足取りで街へと向かっていく。
「さて、俺はちょっと、デヒティネの艦長室に寄っていく。書類仕事が溜まってるしな。こっちでやるほうが落ち着く」
「わかりました。では、私は宿に戻っています」
「ああ、お疲れさん」
艦へとあがりこむと、ケリーソンは長く息を吸った。
どうにも、商売ごとはめんどくさい。
本音を言えば値段などどうでもいいから、さっさと荷を積んで、海へと出てしまいたかった。
しかし頭のなかでは、船主のグリーンヒルの渋い顔が、こちらを睨みつけている。
『利益を上げられなければ、君はクビだ。今後は他の雇い主を探すことだな』
そう言いたいのが、言葉を発していなくてもわかる。
ケリーソンは腕をぐるぐると回し、肩の筋肉をほぐした。
決して、グリーンヒルの幻影に、肘鉄を喰らわしたかったわけではない。
そして、もう一度息を長く吸うと、我が家のように感じる艦長室へと入っていった。
***
蝶の印を追っているうちに、シルフィたちはいつしか市街地へと戻ってきていた。
その頃には、ついてくる人間たちは、通りを埋め尽くすほどになっていた。
仕事終わりの時間に、かち合ったせいもある。
帰りに一杯ひっかけながら噂話に花を咲かせるかわりに、起きてる騒ぎに便乗してやるか、といった輩が続々と加わってきたのだ。
ニックとジェリーが街に戻ってきたのも、このタイミングだった。
大通りの密集に閉口して、さっさと裏通りに抜けると、ちょうど居酒屋の外の席で飲んでいた若い水夫連中に行きあたり、声をかけられた。
ピーティーやリッチーだ。
近寄って、訊いてみた。
「この騒ぎはなんだ?」
「さあ?」
地元の情報に詳しくないらしく、みな首を傾げただけだった。
そこで、ちょうど通りかかった給仕に、ピーティーが質問する。
「なにかを探してるらしいよ」
そういう答だった。
「街あげての宝さがしか?」
「いや、そういうわけでもないみたいだけど。あんたたちのほうが、詳しいんじゃないのかい」
「なんでだよ」
「あんたたちの仲間の女の子が、先頭切ってるらしいよ」
「なんだって? シルフィのことか!」
ピーティーが立ちあがった。
シルフィの名前を聞いて、追いかける気になったらしい。
ナイフ捌きやらなんやら教えたりしているうちに、いつの間にか自分の妹のような気になってしまっていて、ついつい心配しすぎてしまうのだ。
「俺らも行ってみるか、どうせヒマだったし。あいつのことだから、またなんか面倒ごとに首突っ込んでるんじゃないか」
「あー、それはありそうだな。じゃあ、俺たちもつきあうか」
一緒に飲んでいたデヒティネの連中も口々に言い、ジョッキに残っていた酒を飲み干し、立ちあがる。
「それじゃ、俺たちも行くか」
ニックとジェリーも、またすぐ船に引き返すことになるのかとは思ったが、つきあうことにした。
どっちにしろ、乗組員であるシルフィが、万が一現地人となにかやらかしたりしていたら、加勢するしかない。
そんなわけで、デヒティネの面々も、盛りあがっている列のうしろに、くっついていくことになった。
そのころ先頭ではどうなっていたかというと、どんどんジェラニの表情が曇っていくのに、シルフィが不安を感じていた。
「どうしたの?」
「どうやら、港に向かっているようだが……。船で逃げられたら終わりだ。早く探しあてないと」
言っているうちに、港に着いた。
そこでシルフィにも、状況の悪さが理解できた。
今すぐ見つけるには、あまりにも、停泊している船が多かった。
一隻一隻調べていたら時間がかかるし、それを気取られたら沖合へと逃げられてしまうだろう。
絶望的な気持ちになり、へなへなと座り込みそうになる。
しかし、ついてきていた連中はといえば、あいかわらずまるで宝さがしでもしているように、あちこちに散らばって蝶の印を探し始めていた。
よくも悪くもほとんどの人間が状況をわかっておらず、ただ面白がっているだけなので、陽気ですらあった。
ジェラニやシルフィにとっては複雑な心境だったが、結局は、この意図しない人海戦術が効いた。
「あったよ!」
埠頭を見ていたひとりが、船を係留するときにロープをかける背の低い柱、係船柱を指さしながら叫んだ。
飛び出した部分の下、ぱっと見ではわからない部分に、印がついている。
しかし、その脇に停まっているはずの船がない。
なんという名前の船がいたのか、誰かに訊こうとしていると、タグボートが一艘、ちょうど戻ってきた。
「ここに係留してた船の名前、わかるかい」
訊くと、首をふった。
「名前は板で隠してたな。たった今、曳航してきたとこだ」
そう言って示したのは、すこし先の沖合だった。
薄闇にぼんやりと帆を広げた船のシルエットが浮かび、小さな灯りが並んでいるのが見える。
船尾にある窓の灯りだ。
夜で視界が悪いのは覚悟のうえで、おそらく、逃げきるために急いで出ていったのだろう。
「ティシャ!」
聞こえるわけがない。
それはわかってはいたが。
それでもシルフィはその灯りに向かって、大切な友達の名前を呼んだ。
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