1. ここのルール
よそ者は口を出せない
鮫牙湾を出たデヒティネは、三週間かけ、南北に長いグゥリシア大陸沿岸を南下した。
そして大陸最南端の頑風岬を過ぎ、東側へと回る。
そして北上するとすぐにある、次の寄港地レオマヤに着いた。
大陸最大とも言われる港で、大きく深い湾には、招き寄せる腕のように埠頭が何本も突き出し、ドックがいくつも並んでいた。
荷役用だけでなく、修理のためのものも二か所あり、デヒティネより二回りも大きい船が手入れを受けていた。
デヒティネは当初の目的通り、ここに三日ほど停泊する予定になっていた。
積み荷を、ほぼ入れ替えることになるからだ。
積んできた氷は、ここで全て降ろされる。
この氷は、高地地方と呼ばれる地域産の、特殊な氷だった。
認王国だけの特産品で、さまざまな大陸との取引に使われている。
氷の女神が強い加護を授けている大きな湖が高地にあり、冬のあいだに長い時間をかけて凍ったものを切り出し、周りを囲む森の木々から作られた木箱に閉じこめる。
そこに現地の魔術工たちが門外不出の特殊な封印をすると、開けさえしなければ半年は溶けずに持つ。
溶け始めても普通の氷よりは何倍も遅く、冷たさが長持ちするので、食品の保存や室内の冷房などに重宝されるのだという。
この世界を支配している最大の秩序である、それぞれの土地に根差した神々の力、地律魔法。
その効果をうまく利用した、認王国にとっては貴重な輸出品だった。
特に、この暑さの厳しい大陸では高値がつく。
なので、ここで売るのが一番なのだ。
うまく売った金を資金にして、今度は、この大陸特産の染料を大量に買いつける。
今度はそれを、目的地の途中にある大陸、ここからさらに東のフーミダーラまで運ぶのだ。
その地では綿織物が盛んなのだが、そのために良質な染料が求められている。
このグゥリシア大陸産の染料は種類も多く質もいいので、高く売れる。
デヒティネの最終的な目的は、もっと東にある大陸フォントゥで産出される茶葉を買いつけ、最速でアーンバラまで持ち帰ることだ。
しかしそれまでの長い航海のあいだ、こうやってあちこちに立ち寄っては交易をして、資金を増やしていくのも仕事のうちだった。
ここらへんの取引は船長に一手に任されていて、雇う船主からすればこういった交渉能力の高さも、”腕の良さ”に含まれる。
それは、商船の船長ならではの技能ともいえた。
そんなわけで、ケリーソンは商売に強いトバイアスを右腕に、港に窓口事務所を開いている商会をあちこち交渉に回る必要があった。
そのあいだ、船の補修や日用品積み込みに関係していない乗組員たちは、上陸して自由に過ごしていいとお達しがあったのだ。
ひさしぶりの長めの停泊には、港に着く何日も前から、誰もが浮き足立っていた。
しかし、喜び勇んで降りていく船員たちの後から、初めてこの港に降りたシルフィは、一瞬、棒立ちになってしまった。
カプ・ゥキャンの素朴な港とは明らかに桁違いの、アーンバラに匹敵、いやもしかしたらそれ以上の規模に圧倒されたのだ。
デヒティネが停泊した荷下ろし用ドックには、降りるとすぐに通路兼作業場となる広い道があり、その向こうにはがっちりと堅固な石造りの倉庫がずらりと並んでいる。
そのすぐそばには、色々な会社の事務所が入った細身の三階建てが肩を寄せ合うようにし ていた。
それらの建物は、港の方向に必ず窓がつけられている。
しかしその窓は実用一辺倒なものばかりでなく、ちょっとした装飾が施されていて、経済的な余裕を感じさせる。
道では、荷車や港湾労働者たちが、衝突事故を今にも起こしそうなスピードで、ひっきりなしに行き交っていた。
そこまでは、港のすぐ近くで育ったシルフィには、馴染みの光景ではある。
だが、大きな違いは、その色彩の豊かさだった。
アーンバラの港で働く人々は、たいてい黒か茶、紺といった汚れの目立たない、地味な色合いの服装をしていた。
建物の壁や屋根も、霧や雨が多い気候のせいで、黒ずんでいるのが普通。
だが、ここは違う。
建物の壁は明るい色で塗られ、あちこちに植えられている木々の花は、葉の濃い緑色に負けないほどの強い色をしている。
香りも強く、近づくまでもなく、甘い匂いがする。
そしてなにより、人々の衣装。
ゆったりとしたデザインの服に使われている薄手の生地には、派手な色彩で大きな柄が描かれている。
そしてそれは、活気に文字通り彩りを与えている。
ただ、見慣れていない人間からすると、見ているだけで目がちかちかしてくる。
彼らが動くたびに地面から舞い上がる埃にさえ、色がついているように思えた。
シルフィはその色の洪水に圧倒されながらも、わくわくする気持ちも抑えられなかった。
自分の今まで知らなかった、豊かな世界がこの大陸には存在することを、視覚で実感できたからだ。
作業場と化している埠頭を抜け、街の方角へと続く道にさしかかろうとする場所は、ちょっとした広場のようになっている。
そこには、すでに宿や店の客引きが待ち構えていて、かたっぱしから船員たちの手を引いては、大声で呼びこみをしていた。
彼らは商売柄か、港湾にいた人々よりもさらに派手な色と柄の服を着ていて、迫力があった。
色に対して『迫力がある』なんて感じたのは、生まれて初めてだったが。
ちょっと気後れしていると、急に腕を掴まれた。
自分にも勧誘が、と相手を見ると、ゲイルだった。
そのまま手を握り、歩き始める。
「なんだよ。手なんて繋いで」
「親子連れみたいに見えるだろ。商売女なんかは声かけづらくなるんだよ。しばらくこのままにしとけ」
なるほど、ある種の裏技というわけらしい。
それでなんとか人混みを通り抜け、自分達のペースで歩くことができるようになった。
***
宿のある地区も、同じようにかなりの賑わいだった。
狭い通りの両側には、似たりよったりの安宿が、延々と並んでいる。
ここの宿は食堂を併設していないのが当たり前らしく、横道にはこれまた何軒もの居酒屋兼食事処がひしめきあって、商売に励んでいた。
この辺りを利用しているのは、投錨している船から降りている水夫たちだけでなく、行商人も多いようだ。
大量の荷物を運んでいる者が多い。
行き先を観察してみると、ほとんどが、道の突き当たりにある市場に向かっていく。
街の中心部に設営されたそこは、巨大なドーム型になっていた。
雨風をしのげるようにかけられた白い屋根が、強い陽射しを反射して、まるでそれ自体が発光しているように光り輝いている。
その眩しさは、シルフィのいる道の端からもよく見えた。
空いている宿を見つけると、ゲイルとシルフィは隣り合った部屋を取った。
船では同室なので、せめて陸にいるあいだはひとりで羽を伸ばしたいというのが、お互い本音だったからだ。
部屋に入ると、まずは用意してあった水差しの中身をたらいに注ぎ、それに浸した布で身体を丁寧に拭いてきれいにする。
井戸水を使っているのか、水はわずかにひんやりとしていて気持ちがいい。
塩でごわついた服も替え、ずいぶんとさっぱりした。
外から聞こえる声に窓を開け、下を覗いてみる。
すると、食べ物売りの手押し車が、ちょうど通りがかっているところだった。
台になった部分に載っているものが、上からだとよく見える。
大きな分厚い緑色の葉の真ん中に、主食らしき白い練り物があり、そのうえに焼いた肉が載せられたものが、いくつも並んでいた。脇にはカラフルな野菜の酢漬けらしきものが添えられた、いわばランチセットのようなものを売っているようだ。
美味しそうに見えたので、すぐに宿の階段を駆け下り、買いに行った。
飲み物も買い、久しぶりの新鮮な食べ物にご機嫌で戻ろうとすると、宿の出入り口のすぐわきのベンチに座って、商売をしている若者に気づいた。
小さな紙に描いた絵を、壁に貼りつけたり足元に並べて、何枚も売っている。
シルフィは足を止め、思わず見入った。
絵は主に、この街の名所を描いたもののようだった。
華やかなドレスを着た女性と腕を組んだ紳士が入っていく大きく壮麗な建物。
おそらく、劇場かなにかだろう。
それから、誰かの豪奢な邸宅とその庭。
アーンバラにあるものと、ほぼ同じ造りのマアアルンの大神殿。
繊細な色遣いで、まるで本物を見ているような陰影を感じる。
しかし、それらはアーンバラで見慣れていたのと根本的には同じもので、絵の技術には感心しても、描かれている対象そのものには、シルフィはあまり心惹かれなかった。
それで結局は興味をなくし、場を離れようとした。
そのときふと、壁に立てかけた大きな絵のうしろに押しやられていた、小さな風景画が目に入った。
それは、何本もの枯れ木が水中に立つ、不思議な湖の絵だった。
「”木音の森”だよ。水が動くと、木が鳴るんだ」
売り子兼画家らしい、ベンチの青年が声をかけてきた。
手にしているスケッチブックの開いたページを覗いてみると、描きかけの若い女性の顔があった。
風景専門というわけでもないらしい。
もしかしたら、恋する相手を描いていたのかもしれない。
「森って呼ぶんだ? 湖じゃなくて?」
「うーん。言われてみりゃ、そうかもな。でもみんなはそう呼んでる。もともとは生きた森だったっていうから、そのせいかな」
「へえ」
「しかしあんたもずいぶん渋いのに目をつけたな」
「なんだか、目を引いたんだ」
「そうか。絵があんたを呼んだのかもな」
青年は不思議なことを言う。
「俺もこれは珍しく、描きたくて描いたもんだったんだ。縁のある人に売れたら嬉しいよ。どうだい、買ってみないか。安くしておくよ」
値段を訊いたらたしかにそれほど高いものでもなかったので、シルフィは素直にその絵を買うと、部屋に戻った。
ベッド脇にある壁際の小さなテーブルに食事を置き、絵を壁に立てかけると、なんだかちょっといい部屋に思えてきたから、なんだかおかしい。
そうしているうち、ドアがノックされた。
開けると、ゲイルだ。
「俺はこれから居酒屋に食事に行くが、おまえ、どうする?」
「あ、もう食べてる」
そう言うと、ふむ、と頷いた。
「色々と天候の情報なんかも手に入るから、一緒にどうかと思ったんだけどな。まあいいか」
「うん。誘ってくれてありがと」
「じゃあな」
ゲイルを見送り、食事の残りを平らげると、とたんにやることがなくなった。
酒も女も賭けもやらないシルフィには、こういった街では、他の連中のように時間を潰す手立てがない。
どうしたものかと窓から外を眺めると、また、市場の屋根が目に入った。
まるで誘われているような気になったし、色々な珍しいものが集まってきているに違いない。覗きにいってみることにした。
市場に近づくにつれ、だんだんと、道の端でも商売している者が目立つようになってきた。
常設ではないのだろう。
みんな、荷車の上に直接商品を置いていたり、手に持ったカゴに入れたままや、肩に担いだ棒に吊るして売っている者など、すぐに移動できるような状態で商売をしている。
この光景は、シルフィも身に覚えがあった。
取り締まりの役人が来たら、すぐに逃げられるようにしているのだ。
だが、しばらく行くと、その一角でなにやら揉めていた。
体格のいい柄の悪い二人組が、なにやら果物の入った木箱を奪っている。
その足に取りすがる若者は、目の周りが腫れ、口から血が出ている。
どうやら、強く殴られたようだ。
周りで見ている連中は眉をひそめながらも、誰も口を出すつもりはないようだった。
それでもつい、シルフィは一歩踏み出した。
なにかができる、と思ったわけではない。
ただ、なすすべもない若者の姿に、ウィルが重なった。
おそらく今頃、故郷の路地裏で、同じように物売りをして家計を助けているだろう、弟のウィルが。
しかし、その肩を、ぐっと掴んで止めた者がいた。
振り向くと、杖をついた老婆だった。
「やめておきな」
船乗り語で言われた。
「でも」
シルフィが言い返そうとすると、首をふってみせる。
「ここで商売するんなら、ゴールドさんとこの若いもんの機嫌を損ねちゃだめだ。あいつだって、知ってるはずだ」
「でも」
「通りすがりのよそ者が、どうしようって言うんだい。ここにはここのルールがあるんだよ」
そう諭され、シルフィは嫌々ながら、身体を引いた。
やがて、縋りついていた若者は諦めたのか、地面にうずくまってしまった。
それに構わず、二人組は木箱を持ったまま、立ち去っていった。
彼らの姿が見えなくなったとたん、周りにいた連中が若者に声をかけ、慰めるように肩に手を置く。
杖をついた老婆は、いつのまにかいなくなっていた。
なんとなく心残りを感じながらも、そこから離れ、シルフィは市場の入口へと向かった。
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