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5. いつかの昔

彼の話

 老人の名前は、ムンダといった。

 このグゥリシア大陸よりさらに東にある、キェン大陸出身の孤児だったという。

 少年の頃、船大工に弟子として売られ、それ以来、二束三文でいろいろな船に雇われては、世界じゅうを巡った。

 しかしあるときのこと。

 乗っていた船が、ひどい嵐にあい、遭難してしまった。

 救命ボートにも乗ることができず、残骸の板に掴まって漂流しながら死を覚悟していたが、まる一日どうにか耐えたあと、幸運にも、名も知らぬ小さな島へと流れついた。

 そこには、実のなる数種類の木と、魚の多く棲むサンゴ礁があった。

 浜に流れつき、一番近い木によじ登って大ぶりの紫色の名も知らない実をむさぼり食って、生きている実感を味わっていた、その時。

 いつのまにか、黒い巻き毛の若い女性が、下に立っていた。

 人が住んでいるとは思わなかったうえ、てっきり怒られるものと思ったが、彼女は親切にも、浜の近くにあった自分の小屋へと連れていってくれた。

 そしてムンダを寝泊まりさせ、面倒まで見てくれた。

 彼女の名は、フィヨラ。

 この親切で美しい女性に、ムンダが恋をしたのは、ごく自然なことだろう。

 彼女もまた同じ感情を抱いたらしく、ふたりは、やがて夫婦の契りを結んだ。

 ムンダは有頂天だった。

 初めて、家族というものを持ったのだ。

 一生懸命に小屋を修復し、火をおこし、島の奥にあるジャングルへと分け入っては、木片や葉を拾ってきた。

 それらを燃料に使うために浜で干したり、たまにトカゲや蛇を食料として捕まえてくることもあった。

 とにかく、フィヨラの役に立つことが、自分が家庭の支えになることが、嬉しくてしかたがなかった。

 フィヨラは多くの時間を海で過ごし、魚や貝などの食べ物をよく採ってきた。

 これまでは生で食べていたというが、ムンダが火を使って煮炊きをしてみせると、調理されたものをひどく好むようになった。

 そんな幸せな生活のなかの、ある夜のことだった。

 眠りの深いムンダにしては珍しく、ふと、真夜中に目を覚ました。

 見ると、隣に寝ているはずのフィヨラがいない。

 しばらく周囲を探したが、姿は見えない。

 フィヨラはよく、夜の海へと漁に行った。

 そのほうが、よく採れるのだという。

 しかしその夜は月の光も弱く、しかも真夜中だったので、ふと心配になった。

 身内が遠いところで死んだ瞬間、眠りから覚めたなんていう、不思議な話を聞いたこともあったからだ。

 それで、よく漁場にしていると言っていた岩場へと向かった。

 ただの思い過ごしだったなら、お互い笑ってしまえばいい。

 手前にある大きな岩を回り、名を呼ぼうとした。

 そのときだ。

 岩場に囲まれた小さな湾のなかに、いくつもの頭が浮かんでいるのに気づいた。

 思いもかけなかった光景に、思わず、岩の陰から出るのをためらった。

 彼らは海に潜っては、採ってきたものをフィヨラに渡していた。

 その動きのなかで、彼らの下半身が魚の尾をしていることには、すぐに気づいた。

 そして、同じように海のなかにいた自分の妻が、岩場へと戻ってくる寸前まで、同じ姿をしていたことも。

 フィヨラはすぐに、いつもの足のある姿に戻ったが、水中にいた者たちは、そのまま海へと帰っていく。

 貝や魚の入ったカゴ、ムンダが編んでプレゼントしたカゴをかかえ、歩き始めたフィヨナは、固まったように動かないムンダの姿に、すぐに気づいた。

 その顔に、悲しみが広がったのが、夜目にもわかった。

 カゴを落とし、狼狽するその姿に、別れたくはないという意図を感じて、ムンダは追及したい言葉をなんとか抑えこむことができた。

 地面におちたそれらを拾いあげ、手を伸ばして、相手の冷え切った指を包んだ。

 そして、ゆっくりと、自分たちの小屋へ帰った。

 しばらくして動揺が収まると、フィヨナは自分が人魚であること、さっき海にいたのは仲間たちであること、自分だけが人間の姿に変わることができるので、ムンダの前ではそうやって暮らしていたことを打ち明けてくれた。

 そのことで、ふたりの愛情は変わることはなかった。

 次の日からまた同じようなのどかな暮らしが続き、ムンダはこれで問題はすべて解決し、永遠にその時間が続くものと安心しきっていた。

 しかし、そうではなかった。



***



「怖くなかったの。知らない生き物と一緒に暮らして」


 シルフィは訊いた。

 ムンダは、頭を振る。


「怖いというなら、あの生活を捨てるほうが怖かった」


「ふぅん……」


 たとえばシルフィなら、今の船の生活を捨てろ、と言われるのに近いのかもしれない。

 自分の居場所だと、そう感じている最中に、それを捨てるのは簡単なことではないだろう。



***



 だが、ある時に、状況が一気に変わる。

 ファヨラが、子を身ごもったのだ。

 彼らは、数年に一度しか妊娠できない種族なのだという。

 この知らせに、ムンダは喜びの絶頂だった。

 しかし、この頃から、逆に彼女の態度に落ち着きがなくなった。

 日に日に大きくなるお腹を嬉しそうに撫でるときもあれば、言葉もなく絶望的な表情で涙を流す日もある。

 そんな不安定な精神状態に、ムンダはなす術もなく、ただ、寄りそうしかなかった。

 とうとう、ある日のこと。

 ムンダは妻に、漁場としては使われない、ひと気のない狭い砂浜へと連れていかれた。

 そこには、いつのまにか手造りの簡素な筏に帆が取りつけられたものが用意されていた。

 さらに、日持ちのする食べ物や水まで積まれていた。

 ただ驚いていると、これに乗って、島から逃げろ、と言う。

 ムンダは驚き、当然、拒んだ。

 それでも、ファヨラは言い張った。

 それならせめて、考える時間をくれ。

 そう譲っても、もうそんな時間はないと言うばかり。

 それでは、ここを去ることはできない。

 そう言いはると、ようやく、事情を話してくれた。

 出産が近づいてくると、人魚は栄養源として、生殖を終えたオスを食べてしまうのだという。

 だから、彼らの仲間に、歳をとったオスはいないのだと。

 しかも、それで足りない場合は、さらに遠くまで行き、通りがかる船まで襲いに行くことさえあるという。

 オスにだけ効果のある歌で、海へとおびき寄せることができるのだそうだ。

 そんな種族のひとりであるフィヨラ。

 おそらく、出産が近づけば、自分もその本能に逆らえなくなるだろう。

 だが、自分はどうしてもムンダを食べるに忍びない。

 だから、理性が残っている今のうちに、逃げてくれという。



***



「なんで、あんただけ特別扱いだったの」


 すっかり話に引き込まれていたシルフィは、テーブルに身を乗り出した。


「俺が、じゃない。ファヨラが特別だったんだ」


「どういうこと?」


「ファヨラの母親は、人間だったそうだ。どこかから追放されてた歌姫で、その声で人魚の仲間に迎え入れられた。ただそのせいで、仲間たちとはちょっと違うところがあって、ずっと孤独に生きてきた。でも、俺に出会って、それがなくなったらしい。だから、お返しに命を助けたいと」


「それなら、彼女も一緒に逃げればよかったのに」


「俺もそう言ったよ。でも、やっぱり残りの半分は人魚なんだって。捕まった仲間が、見世物にされたりなぶり殺しにされたのも見たことあるから、人間の社会に行くのも、そこで子育てするのも怖いって」


「そっか……」


「それでも俺は、一旦は逃げるけど、後から迎えにこようと思った。身ごもりの季節が終わったなら……」



***



 人魚の姿になった妻は泳いで、島から離れる海流まで筏を押してくれた。

 最後に何度も口づけを交わし、そして、ムンダは島を去った。

 何日か漂流したあと、通りがかった船に拾われ、カプ・ゥキャンに着いた。

 それ以来、ムンダはこの港に留まり、あの島に戻る方法を探している。

 場所も定かでない、子供が無事かもわからない、その島を。



***



 長い話を語り終えると、ムンダはじっとシルフィを見つめた。


「巻き毛の人魚に会ったと言ってたな。元気そうだったか」


「うん。人間の代わりにベーコンあげたら、喜んでたよ」


「そうか……。そうかあ……」


 長い息を吐きながら、椅子の背に身体を預けた。


「きっと、人間を食べずに済んで嬉しかったんだな。やっぱり、俺の家族だ」


 満足そうに呟いたあと、手のひらをシルフィへと伸ばした。


「実は俺、あの島を探す船を買うつもりで、金を貯めてるんだ。ちょっとでもいい。援助してくれないか」


 金をくれ、ということらしい。


「でも、あんた、帰ったら食べられちまうんじゃないの」


「それでもいい」


「えぇ!? 本当かよ」


 驚くシルフィに、ムンダは両手を開いて、自分自身の惨めな姿を示すようにした。


「今の俺を見てみろよ。ただ、生きてるだけだ。それなら、妻や娘の役に立って死にたい」


 その思い詰めたような真剣さに、つい、コインを一枚、渡してしまった。

 ムンダはシルフィの両手を握って、何度も礼を言う。

 やがて席を立ちあがり、また他の席へと寄っていった。

 その姿を見つめていると、テーブルをかたづけにきた給仕の娘が言った。


「あんた、あのじいさんのホラ話に、もしかしてお金払っちまったのかい」


 そう言われて初めて、その可能性があったことに気づいた。

 ムンダの勢いに呑まれ、ただただ、話を真に受けてしまった。


「ホラ話……だったんだ」


 騙された、という苦々しい気持ちに顔を顰めながら言うと、娘は気の毒そうに頷いた。


「当たり前だろ。人魚なんて、いるわけない。騙されちゃダメだよ」


 その言葉に、今度は娘の言葉を信じていいのかどうか、わからなくなった。


「でも、あたしだって、人魚を見たんだ」


 シルフィの言葉に、娘は目をむいた。


「じいさんの話がホントだったってのかい」


 頷いたが、娘は半信半疑のようだ。

 仕事柄、酔っ払った水夫たちのホラ話を山ほど聞かされ続けて、簡単に信じるのはやめてしまっているように見えた。

 それで、懐にぶら下げていた革袋を出すと、布の切れ端に包んであった虹色の鱗をそっと取り出し、手のひらに載せて見せた。

 娘は、興味津々でそれを覗き込む。


「これ。人魚が、自分のをくれたんだ」


「たしかに、見たことないね。そんな綺麗な鱗」


「これが、証拠だよ」


「そうは言ってもねえ……。それが人魚のものかどうかなんて、あたしにはわからないからねえ」


「でも……」


「なんだよ、やけにしつこいねえ。もしかして、あんたもホラ話仲間なのかい」


 娘に疑いの目を急に向けられて、あわてて否定する。


「違うよ。ホントに見たんだって。だから、あのじいさんの話も信じたんだよ。人魚のところに戻るためのお金を貯めてる、って……」


「貯まるわけないよ。毎日飲んだくれて、金なんて、全部酒代だよ」


 娘は吐き捨てた。


「そうなんだ……」


 なんだか、がっかりしてしまった。


「これに懲りたら、簡単に相手を信じて金渡すのは、気をつけなよ」


 娘はそうアドバイスすると、テーブルの果物くずを盆に載せて持っていった。

 シルフィはもう、どう思えばいいのか、わからなくなってしまった。

 どうやら世界は、シルフィが思っていたより、ややこしくできているらしい。

 ポーチの音楽は、まだ続いている。

 今流れているのは、シルフィも知っている、望郷の歌だった。

 泣きそうな顔で耳を傾けている人間のなかに、あの老人もいた。

 目が、赤い。

 あの話が本当だったのなら、彼にとっての故郷は、もう、人魚の島になっているのだろうか。

 そんな風に思ったが、よくよく手元を見ると、いつのまにかちゃっかりと強い酒の入った瓶を握っている。

 その姿に、ふと、シルフィは自分の父親のティムを思い出した。

 賭けに負けても、明日は必ず勝つさと大口を叩いて、強い酒を飲んでなにもかも忘れてしまう、何度も見た姿。

 ああ、と思った。

 老人がいつの日か、人魚の島に帰りたいのは本気なのかもしれない。


(でも、たぶん……)


 その日がやってくることはないのだろう。


(いや、それとも……)


(いつの日か……、もしかして……)


 そうだ。

 なにせ、なけなしのコインを払ったのだ。

 投資がいつかじいさんの役に立つ、そんな夢をシルフィが信じたって、誰も文句は言えないだろう。

[第二章 歌姫たちの海 了]


お読みいただきありがとうございます。

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