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1. どんづまりの街

さあ、物語のはじまり、はじまり

 その日、シルフィの家族が住む、狭い部屋にはいい匂いが満ちていた。

 母親のホリーが、豚肉を煮込んでシチューを作っているのだ。

 たまたま、投げ売りに行きあたったらしい。

 いつもの内職でやっているつぎ当てを終えた、安物のジャケットを近所に届けにいった帰り道でのことだ。

 ただ匂いを嗅ぐだけで、シルフィだけでなく、幼い弟のウィルのお腹も、ずうっとぐぅぐぅと鳴り続けている。

 ここのところずっと貧相なお粥(ポリッジ)ばかりで、肉なんてかなり久しぶりなのだ。


「さあて」


 やがて、ホリーが鍋から顔を上げた。


「父ちゃんを呼んでおいで。きっと金のリンゴ亭にいるから」


 金のリンゴ亭は、港のすぐ近くにある飲み屋の名前だ。

 荷役の仕事がないとき、ティムはたいていそこに居座っていて、下らない噂話やうさん臭い賭けをしながら仲間と飲んでいる。


「ごちそうが待ってる、って言うんだよ」


 うなずきながら、シルフィはしかめっ面をした。

 酒臭い男たちの、野卑なジョークとタガの外れた大声で溢れる店。やっと十四歳になったばかりの少女が行って、楽しい場所ではない。


「ウィルも連れておいき」


 そう言われ、手を繋いで家を出た。

 狭くて暗くて、湿っぽい路地。

 この一帯は、ウィロウ地区と呼ばれている、スラム街すれすれの貧しい地域だ。

 世界でも有数の都市、トライゴッズ認王国の首都アーンバラの西のどんづまり、大きな港湾のすぐ近くにある。

 華やかな中心街からそう遠くはないというのに、並んでいるのは古びたレンガ造りの今にも倒壊しそうな住宅ばかり。それぞれの狭い部屋には、シルフィたちのような貧しい家族たちが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれて住んでいる。

 そんな建物のあいだの狭い路地を抜け、おぼつかない幼い足取りのウィルの手を引き、港へ向かう細い道へと出る。

 途中で何度も、着飾った女を連れた酔っ払いの水夫とすれ違った。羽振りの良い船が停泊しているようだ。この街は、どんな船が停泊しているかで、活気がまるで変わる。

 船員たちも自分をおだて上げる華やかな女を連れていると、必要以上に気が大きくなるのだろう。勢いづいて、街角のあちこちで言い争いや殴り合いが起こっているのも、いつものことだった。

 でもこの街で育ったシルフィはいつだって、上手にそういった相手を避けてきた。

 そう、今夜だって、そのはずだった。

 だが、久しぶりの肉の夕食にはしゃいだウィルが、シルフィの手を振り払い、突然走り出した。そして最悪なことに、ちょうど通りかかった柄の悪い水夫の足に思いきりぶち当たり、相手を倒してしまった。


「なんだ、このガキぁ!?」


 ろれつの回らない怒鳴り声が響く。

 やめときなよ、と立ち上がるのを手伝いながら、連れの女が言う。胸元の大きく開いた服に濃い化粧。見るからに商売女だが、どこか人の好さそうな顔つきをしている。

 しかし、その言葉がかえって男を興奮させたようだった。


「こんなガキに、舐められたままでいいってのか」


「ごめん、ごめんよ。わざとじゃないんだ」


 シルフィは慌てて、ウィルを自分の背後に引き戻した。


「じゃあ、礼儀ってもんを叩き込んでやる」


 水夫はそう言って、拳を振り上げた。

 連れの女がその腕にぶら下がり、止めようとする。

 しかしすぐに振り飛ばされ、地面に倒れ込んだ。

 そしてシルフィは、その隙を逃さなかった。

 指を口元へと持っていき、思いきり吹く。


----ビュウウウウ……。


 するとふいに風が巻き起こり、路上に落ちていたゴミを巻き上げた。


「わっ、おい、なんだ」


 ゴミが顔の周辺を舞い、ホコリが目に入るったのだろう。

 水夫はすっかり戦意喪失し、両手を顔の周りで振り回した。

 連れの女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、逃げるようにシルフィに身振りで示した。

 頷き、走り出す。


「なんだこれ、あのガキがやったのか!」


 水夫の怒鳴り声を背に、シルフィはウィルが転ばないで済む、できる限りの速さでその場を離れる。

 急いで角を曲がり、抜け道の路地から、別の通りに出ようとした。

 その時だ。

 シルフィの首根っこを、誰かがむんずと掴んだ。


(やばい、追いかけてきた!)


 シルフィは観念して、ウィルを包み込むように抱きしめた。

 せめて殴られるなら、自分だけで済むようにしようと思ったのだ。


「おい」


 低い男の声。

 シルフィはいよいよ覚悟を決め、ぎゅっと目をつぶる。


「おまえ、もぐりの風呼びか」


 だが、聞こえてきたのは、予想もしていなかった言葉だった。

 言われた意味がわからず、シルフィはますます身を縮こまらせた。

 締めつけるように抱きしめられたウィルが、苦しいよと頬を膨らませる。


「おい、話を聞け。この砂糖菓子、やるから」


 そう言って、なにかカサカサという音が聞こえた。

 お菓子の包み紙だ、と気づくよりまえに、ウィルがちゃっかりと手を伸ばしていた。


「ありがとう!」


「ウィル、ダメだよ!」


 シルフィの叫びはむなしく、ウィルはもらったきれいな包み紙の中身を、さっさと口に放り込んだ。

 見ず知らずの人間からもらったものなど、なにが入っているかわからない。

 ただ、ウィルはそれを知るには、まだ幼すぎた。


「あーあ……」


 呆れて、身体を離したシルフィを、ウィルはきょとんとした表情で見上げ、


「すっげえおいしいよ!」


 のんきなことを言いながら、自分の口を指さす。


「そりゃよかった。もうひとつ、やろうか」


 声がまた言い、そこでようやく、シルフィは振り向いて相手を見つめた。

 結構な年齢の男だ。

 四十歳なかばあたりに見える。

 ひょろ長い身体に、色の褪せた生地の灰色の上下を着ていたが、身だしなみはきちんとしていた。

 手には、さっきの砂糖菓子の入った紙包みが載っている。


「あらためて訊こうか。おまえ、もぐりの風呼びなのか」


「風呼び?」


 聞いたことのない言葉に、シルフィは首を傾げた。

 相手はすこし驚いたようだ。目を見開いた。


「おまえ、ここらあたりの子だろ。風呼びを知らないのか」


 シルフィは黙り込んだ。

 教育を受けたこともなく、かろうじて路地で覚えた知恵だけで人生を過ごすしかない境遇だった。

 外の世界にも、自分に関係ない知識にも、興味を持ったことなどない。


「帆船に風を呼ぶ仕事だ。能力者は一万人にひとりと言われて、重宝されてる」


 そう言われても、なおも黙っているシルフィを、相手は呆れたようだ。


「おいおい、嘘だろ。修行して、国家認定を受けさえすれば、安定して稼げる仕事だぞ。港育ちが、まさか知らないなんてな。いったい、どこで覚えたんだ」


「だから、なにをだよ」


「あの指笛だ。風を起こしたろう」


「ああ、あれかい……」


 シルフィはようやく、相手の意図をつかんだ。


「真似をしただけだよ」


「誰の」


「樽重しのじいさん」


「あのじいさんか……」


 それは、港の一種の有名人だった。

 放置されている樽を見つけるとそこに座って、一日中でも指笛を吹いては小さな風を起こしている。やめろ、と言ってもボケているのか、まともな受け答えもできない。

 いつしか、あのじいさんは樽が転がらないように重しになってやってるのさ、という冗談がお馴染みになり、そんなあだ名がついたのだった。


「引退した風呼びだな」


 相手もそれが誰だか知っているらしい。

 気の毒そうな表情をしながら頷いた。


「それじゃあ、見様見真似で覚えたってことか」


「そうだよ。なあ、もう行ってもいいかい。あたしは忙しいんだ」


「まあ待て。おまえ、俺に弟子入りする気、ないか?」


「弟子入りぃ!?」


 唐突な申し出に、シルフィは素っ頓狂な声をあげるしかない。


「ただでさえ少ない風呼びが、この前の戦争に駆り出されて、もっと減っちまった。今なら引く手あまただぞ」


「いいよ、そんなの」


「……貧乏から、抜け出せるかもしれないぞ」


 その言葉は、突然の雷のように、シルフィを打った。

 腹いっぱいに食べられることなどめったになく、一着しかない服を擦り切れるまで着て、路上売りでなけなしの小銭を稼ぐ日々。

 階級社会のなかでも、特に、すべての階層の人々から見捨てられたような底辺暮らし。

 その生活から、抜け出せるというのか。

 今まで考えてもみなかった可能性に、頭がくらくらしてきた。

お読みいただきありがとうございます。

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