私が社交界を騒がす『毒女』です~旦那様、この結婚は離婚約だったはずですが?
クラリスは目の前の男を真っすぐに見つめた。
「クラリス、君の行為は目にあまるものがある」
その男は、これ見よがしに肩を上下させるほどのため息をつき、顔を横に振る。
「殿下。何をおっしゃって……」
「心当たりがないとでも?」
「ありません。わたくしが何をしたとおっしゃるのでしょう?」
クラリスは目の前の男――アルバート・ヒューゴ・ホランを睨みつけた。彼はこのホラン国の王太子である。
耳まで隠れるさらりとした銀白色の髪、力強い紅玉の瞳、すっきりとした鼻筋に艶やかな唇と、老若男女を虜にする美貌の持ち主である。また、人格者としても知られていた。
そんな彼の隣には、彼の婚約者でもあるハリエッタ・ジュストの姿もある。
やわらかな翡翠色の瞳は慈愛に満ちており、豊かにうねる金色の髪。穏やかな性格の彼女は、社交界でも人気が高い。ましてジュスト公爵家の令嬢となれば、王太子の隣に並ぶ女性としてもふさわしい。
「君は、わざとハリエッタにぶつかって、彼女が手にしていた飲み物をこぼしたよね? そのせいで彼女のドレスは汚れ、退席せざるを得なかった」
「それは……」
事実である。反論のしようがない。それも、先ほどの二人の婚約披露パーティーでの出来事だ。
「……それに。君は僕の側にいすぎなんだよ。ハリエッタという女性がいるのだから、立場をわきまえてほしい」
それも事実。
ハリエッタという婚約者がいなければ、アルバートの一番近くにいる女性はクラリスである。
クラリスだってビクスビ侯爵家の娘。父親は王立騎士団の近衛騎士隊の隊長を務めている。
「ですが、わたくしは殿下のことを思って……」
「そういった気持ちが迷惑なんだ。いい加減、自分の立場をわかってくれないか?」
言い方は優しいが、その視線は冷たい。
「殿下。クラリス様も素敵な殿方と出会えたら、きっと考えを改めてくださると思いますわ」
「つまり、クラリスに結婚をしてもらえばいいと?」
「……嫌です」
クラリスは即答した。
「結婚だなんて、わたくし……。結婚は足かせにしかなりません」
「クラリス様。これはクラリス様のことを思ってのことなのですよ?」
ハリエッタの声色もやわらかい。それでも目つきは鋭かった。
「ですが。わたくしが嫁いだらビクスビ侯爵家は……」
「ジェフリーがいるだろう?」
ジェフリーとはクラリスの四つ年下の弟である。今年で十七歳になった。
「あれだってもう一人前だ。いつまでもクラリスが出しゃばる必要はない」
「……ですが」
「君だってもう、二十歳を過ぎた。婚約者の一人くらい、いたっておかしくはない年ごろだろう?」
それはずっとアルバートの側にいたからだ。今までもこれからも、彼の側にいられると思っていた。ハリエッタが現れるまでは――。
「アル様。私、クラリス様にお似合いの殿方を知っているの」
二人は口元を手で覆いながらも、見せつけるかのようにしてささやきあっていた。残念ながらその声は、クラリスの耳には届かない。
「なるほど、それはいい。さすが私のハリエッタだ」
「アル様にお褒めいただき、光栄ですわ」
クラリスは悔しくて、奥歯を噛みしめた。
十歳になったときからアルバートの側にいて、ずっと彼を支えてきたというのに、ここにきて放り出されるとは思ってもいなかった。
「殿下、御慈悲を……」
先ほどハリエッタのドレスに飲み物をかけてしまった行為は、やりすぎたかもしれない。だけど、あのときはそれしか方法が思い浮かばなかった。
今となって、あれは浅はかな行為であったと自覚する。もっとやりようがあっただろう。
「だから慈悲を与えるのだよ。君は、ウォルター辺境伯のユージーンと結婚したまえ。この件は父にも伝える。もちろん、君の父親にもね」
となれば、王命となる可能性もある。
クラリスの目の前が真っ暗になった。
「クラリス様!」
ハリエッタの声が、頭の中に響いている。
◇◇◇◇◆◆◆◆◇◇◇◇
ホラン国の東側に位置するウォルター領。ここは国境の要ともあり、石造りの城塞が街並みを見下ろすかのようにして建っている。
国境の城塞が守るのは、隣国からの襲撃に備えてだけではない。魔獣と呼ばれる、人を襲うような獣から、人々の命と生活を守るために、それらが国内に入り込まないようにと見張っているのだ。
ウォルター領の領主でもあり城主でもあるユージーンは、一通の手紙に目を通すと、黒髪の間に指を入れるようにして頭を抱えた。
「ユージーン様。どのような内容で?」
この手紙を持ってきたのは、側近のネイサンである。
王家の押印で封印されていたため、彼は慌ててこの手紙をユージーンのもとへと届けたのだ。
「縁談の話だ」
ユージーンは頭を抱えたまま、手紙だけをネイサンに差し出した。
「拝読いたします」
この話は王命である。となれば、断れない。いや、断ってもいいが、断ったとたんに火花が散る。
いっときの感情で、むやみに人を争いに巻き込むようなことをしてはならない。
「お相手の方は……ビクスビ侯爵家のクラリス嬢ですか」
「知っているのか?」
「知っているも何も……。まぁ、噂というものを聞いただけです」
「噂? どのような噂だ?」
「アルバート殿下の腰巾着。殿下に近寄る女性を蹴散らす毒女」
ユージーンは鉄紺の瞳を細くして、眉間に深くしわを刻む。
「なんだ? その噂は……」
「ユージーン様は、殿下の婚約披露パーティーにも欠席でしたからね」
それは東の森で魔獣が暴れているからなんとかしろと、国王が言ってきただめだ。
王太子の婚約パーティーと、国王命令の魔獣討伐。どちらを優先させるべきかは、わかりきっている。
その代わりといってはなんだが、ネイサンを婚約パーティーに出席させた。ネイサンは根っからの文官である。だからこそ、ユージーンにとっては助かる存在なのだ。
「そのパーティーで何かあったのか?」
「まぁ。アルバート殿下の料理を奪ったり、婚約者のハリエッタ嬢のドレスに飲み物をぶっかけたり。とかですかね?」
「……それでは、結婚できないというのも納得できるな。まるで、子どものような女性だな」
しかしその女性がユージーンの相手なのだ。しかも年はユージーンの五歳年下の二十一歳。年齢差として悪くはないが、この国の女性の平均結婚年齢からはやや遅れている。
そんな女性と結婚しろとは、アルバートの嫌がらせではないかと思えてくる。むしろ、本当に嫌がらせなのでは。
「……ちっ」
ユージーンは、あのにっくきアルバートの顔を思い出して舌打ちをした。
「王命ですからね。お断りは……できませんね」
「アルバートの嫌がらせだな」
そう呟けば、ネイサンもニタリと笑う。
ユージーンとアルバート。
犬猿の仲といえばそうでもあるし、竹馬の友といえばそうでもある。とにかく、一言で表現できない関係なのだ。
この結婚は王命であるが、ユージーンの相手として彼女の名をあげたのはアルバートに間違いはないだろう。
「断れないのであれば、とりあえず形だけの結婚をして、離婚でもすればいいだろう」
「おっと。閣下のそのクズ的発言。僕は好きですけどね」
ユージーンは、クラリスとの結婚を受け入れると返事をした。
◇◇◇◇◆◆◆◆◇◇◇◇
クラリスは馬車に揺られ、ウォルター領へと向かっていた。付き添いは、幼い頃からずっとクラリスについている侍女のメイのみである。あとは、王家から派遣されている近衛騎士たち。
クラリスが逃げないようにと、見張りも兼ねているのだろう。あのアルバートの考えそうなことだ。
「クラリス様。本当によかったのですか? この縁談をお受けになって」
「断れないでしょう?」
アルバートは、本当に国王の名を使ってきた。もちろん、ビクスビ侯爵家としては断れない。相手のウォルター辺境伯が断ってくれないかなぁと淡い期待を抱いたが、どうやら彼も権力に屈したようだ。
アルバートとウォルター辺境伯であるユージーンは、幼い頃から顔を合わせれば喧嘩をしているような仲だったとか。
それもクラリスがアルバートの側に入り浸る前の話であったため、クラリスはユージーンと直接会ったことはない。
ユージーンは、若くして辺境伯の地位についたとも聞いている。それは彼が、前辺境伯が年を取ってから授かった子であり、年老いた前辺境伯が爵位をユージーンに譲ったため、らしい。
そして例のアルバートとハリエッタの婚約披露パーティーにも、ユージーンは魔獣討伐で不在にしており、欠席だった。
「かわいそうよねぇ……」
クラリスはしみじみと呟いた。
「えぇ、本当に。あれほどアルバート殿下に尽くしたというのに、まるでぼろ雑巾のようにポイっと捨てられて。お嬢様が本当に哀れです」
「じゃなくて。ウォルター辺境伯よ。よりによって、毒女と知られているこのわたくしを娶らされるのよ? かわいそうじゃなくて? ウォルター辺境伯であれば、もっとふさわしいご令嬢がいらっしゃると思うの」
毒女。独身女性のこと。そしてプライドが高く、相手に要求する理想も高い。だから結婚ができない。
まさしく今のクラリスを表現するのにぴったりの言葉でもある。クラリスの場合、もう一つ別の意味も込められているのだが。
しかし今、結婚できない毒女が、結婚しようとしている。
「そう、なのですか?」
メイはきょとんと目を真ん丸にして、クラリスを見つめる。
「ウォルター辺境伯。そういえば名前だけは聞いたことがあったのよ。アルバート殿下が、たまに愚痴をこぼしていらっしゃったのよね」
そんな相手だからこと、毒女のクラリスをあてがうのだ。
「とりあえず王命だし。アルバート殿下とハリエッタ様の願いですから素直に従いますけども。わたくしは、さっさとウォルター辺境伯と離婚して、王都へ戻ってこようと思っているのよ」
「結婚する前から離婚の話ですか……」
メイはあきれたような声を出しつつも、にっこりと微笑んだ。
ウォルター領は、王都から馬車で丸二日。途中、ピットマン侯爵の領地で休ませてもらいながらも、ひたすら馬車に揺られていた。
お尻の痛くなる旅路から解放され、やっとの思いでウォルター領についたのは、太陽が沈みかけるころだった。
小高い丘にそびえたつ城塞は、周辺を見張るための存在でもある。
立派な城門をくぐりぬけ、城のエントランスへと入ったクラリスたちを出迎えてくれたのは、金髪の線の細い男性であった。
クラリスは、彼がウォルター辺境伯でないことくらい、お見通しである。
「長旅でお疲れになったことでしょう。部屋を用意してありますので」
彼はネイサンと名のった。
「ところでユージーン様は?」
クラリスはこちらに来る前に、アルバートとハリエッタからユージーンの姿絵を見せてもらっていた。黒い髪に鉄紺の切れ長の鋭い目。国防を担う辺境伯にふさわしい、力強さを感じる。
しかし、先ほどから黒髪の男性の姿が見えない。
「申し訳ないのですが、また魔獣が……」
ネイサンがそこまで言ったところで、クラリスは理解した。
辺境の地は、隣国のにらみ合いだけのために存在しているわけではない。魔獣を国の中心部へと入れないために、それらを討伐するのも辺境の役目。
「まぁ。大変ですのね」
「はい。ですから、旦那様からこちらを預かっております」
そう言ってネイサンが差し出したのは、婚姻届けであった。
「旦那様のサインは入っておりますので。あとは、クラリス様がサインをしていただければ」
「まぁ。わたくしがこの婚姻届けを破って捨てるとは、お考えにならなかったのかしら?」
「そうですね。同じようなことを旦那様もおっしゃっておりました。だから、百枚ほど準備しております。百枚すべてを破って捨てられたら諦めるとのことですが、そのときは、この国が戦火に見舞われるでしょう。お二人の結婚は、王命であるとうかがっておりますので」
ネイサンが淡々と告げたため、クラリスは最初の一枚にサインを走らせた。
その婚姻届けは、クラリスの護衛をした騎士に託された。むしろ彼らは、これを持って帰らないとアルバートに殺されると、身体を震わせていたくらいである。
やはりアルバートは、何がなんでもクラリスとユージーンを結婚させたかったのだろう。
だが、これで婚姻は成立した。
あとは、一年以上身体を重ねなければいい。いわゆる白い結婚と呼ばれる関係。
もしくは二年間、子に恵まれないか。そうすれば、正当な理由による離婚が成り立つ。
ネイサンが言うには、どうやらユージーンも同じようなことを考えているとのこと。
利害が一致した。
なんとかうまくやっていけそうだ。
◇◇◇◇◆◆◆◆◇◇◇◇
ユージーンはひどく苛立っていた。
毒女とも呼ばれている結婚相手がこの地へやってくるのに、こういうときにかぎって魔獣討伐に駆り出される。
ユージーンが二十六歳になっても独身であるのは、この魔獣討伐というのも理由であった。
魔獣討伐のため、領地を離れることが多い。ようは、出会いが極端に少ない。仮に奇跡的に出会ったとしても、不在がちな夫の代わりに、あそこの女主人を務めあげようとする肝のすわった女性がいなかった。
もしかしたら、彼女も逃げるかもしれない。
いや、逃げられてもいい。『結婚』という事実さえ作ってしまえばいいのだ。
だからこそ、それを見届けられないことに苛立っていた。
念のため、婚姻届けは百枚ほど準備した。怖気づかれて破かれても困るからだ。
なによりも、この結婚は王命。
「いいか、お前たち。さっさと魔獣をやっつけて、早く帰るぞ」
ユージーンは、基本的には魔獣討伐に妻子持ちの騎士を同行させない。それは、魔獣討伐が一日、二日で終わるようなものではないからだ。
たまに「金のために」と自ら志願する者もいる。そういった者たちを優先的に同行させていた。
しかし、こういうときにかぎって、魔獣が次から次へと湧いてくる。
結局、すべての魔獣を討伐するのに、二か月という期間を要してしまった。
部下たちにもねぎらいの言葉をかけ、なんとか帰路につく。
城塞が見えてきたときには、感極まって泣く者すらいた。それだけ今回の討伐は、苦戦したのだ。
彼らにはしばしの休息を与え、ユージーン自身も身体を休めるため、城のエントランスへと足を踏み入れた。
「お帰りなさいませ」
見知らぬ女性が出迎えた。
しかも彼女は両手に毒蛇を持っている。つまり、二匹の毒蛇。ぴくりとも動かぬそれは、多分、死んでいる。
「あ」
彼女も二匹の毒蛇に気づいたのか、慌ててそれを背中に隠した。だが、はっきりいって隠れていない。蛇のしっぽが丸見えであり、ぷらぷらと背後で揺れている。
「お初にお目にかかります。クラリス・ビクスビ……じゃなかった、クラリス・ウォルター? です」
家名がなぜか疑問形である。
彼女は毒蛇を背に隠したまま、腰を折った。
「あ、あぁ。ただいま帰った。俺がユージーン・ウォルター。おそらく、君の夫かと」
「旦那様。お疲れでございますよね。おかえりになられると聞いておりましたので、湯浴みの準備も整っております。お食事もすぐにとれますが? 奥様は手にされているそちらを片づけてきたほうがよろしいかと思います。お着替えをするのであれば、メイを呼びましょう」
そう割って入ったのはネイサンだった。
「旦那様。上着を預かります。奥様の蛇は、残念ながら僕は預かることができません」
「そ、そうね。メイを呼んでもらえるかしら?」
「いくらメイであっても、その蛇は奥様しか扱えませんので。責任をもって片づけてからいらしてください」
「え、えぇ。わかったわ」
彼女はひどく動揺していた。
紫紺の瞳が困惑に震えており、青空を思わせるような髪は、高い場所で一つに結ばれている。
それよりも蛇だ。両手に蛇をもって夫を出迎える妻がこの世にいるだろうか。まして二匹も。よりによって、あれは毒蛇だ。
「旦那様。どうされましたか?」
上着を預かったネイサンが、不審そうにユージーンを見つめている。
「あれが俺の妻か?」
「はい。ばっちりと婚姻届けにサインもいただきまして、受理されております。正真正銘、旦那様の奥様でございます。まぁ、書類上の話ですが」
ネイサンの話を聞く限り、どうやら彼女もユージーンと同じことを考えていたようだ。
二年後の離婚が条件の結婚、つまり離婚約。
その結果があの毒蛇なのだろうか。わけがわからない。
だけどクラリスを一目見た時、胸の奥が蛇に噛まれたかのような衝撃が走った。
「ネイサン……俺は、彼女に惚れた……」
「……はぁ?」
ネイサンの情けない声が、エントランスに響いた。
すぐに湯浴みを行ったユージーンは、魔獣の臭いを落とすかのように念入りに身体を洗った。男くささに慣れてしまうと、魔獣の臭いすらわからなくなってしまう。
体液から変な臭いを放つ魔獣もいて、それを初めて浴びた日は最悪な気分になったのを覚えている。だが、それすらもう慣れてしまう。
それでも彼女は違う。
男くささや魔獣の臭いとは無縁の生活を送ってきたにちがいない。なによりも毒女。結婚できなかった女性なのだ。
その事実が、ユージーンを優越感に導いた。
食堂に現れた彼女は、先ほどの簡素なエプロンドレス姿とは異なり、鈍色のイブニングドレス姿であった。地味な色ではあるが、シャンデリアの光が当たれば、きらきらと銀色に煌めく。
「あの、変でしょうか。こちらに来てからというもの、こういったドレスを着る機会が減りまして……」
ユージーンは目の前の彼女に見惚れていた。
女性は化けるとは聞いてはいたが、蛇を二匹持っていた彼女と、目の前の彼女が同一人物である事実に驚きを隠せない。
「……いや、よく似合っている」
ネイサンがユージーンに耳打ちをする。
「旦那様の名前で贈ったドレスです」
そうだったかもしれない。
どのような女性がやってくるのかまったくわからなかったから、適当にとネイサンに何かを頼んだのだ。
しかし、そんなことすらどうでもよくなるくらい、彼女は美しかった。そして、後悔する。もっと彼女に似合うドレスを贈ればよかった。
食事の所作も申し分ない。さすがあのアルバートの腰巾着であり、ビクスビ侯爵家の令嬢である。
食事がすすむうちに、いや、最初からユージーンは気になっていることがあった。
彼女の前にあり、ユージーンの前にはないもの。赤い液体の入ったショットグラス。食前酒とは異なるその飲み物が気になっていた。しかも彼女は、一気に飲むわけではない。食事と食事の合間に、ちびちびと飲んでいるのだ。
「すまない。一つ、尋ねてもよいだろうか」
「なんでしょう?」
「その……飲み物はなんだ?」
ユージーンの問いかけに、その場にいたネイサンも彼女付きの侍女のメイも、息を呑んだ。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。その後悔が押し寄せてくるとともに、ネイサンもメイもそれらを知っているのが悔しいとさえ感じる。
つまり、先ほどから後悔しかしていない。
「あぁ。こちらですね。こちらは蛇の毒です」
ユージーンは何を言われているのかわからなかった。
耳に入ってきた言葉であるが、それを理解するのを拒んでいる。
「蛇の毒? もしかして、先ほどの?」
「あ。先ほどは慌てていたとはいえ、見苦しいものをお見せして申し訳ありませんでした。ですが、こちらの毒は先ほどの蛇ではなく、十日ほど前に採取し、そこから……」
彼女の声が右耳から左耳へと通り過ぎていく。
助けを求めてネイサンを見やると、彼は首を横に振った。だがネイサンはすかさずクラリスの側に向かい、何やら耳元でささやく。
「あの、もしかして旦那様は、わたくしが毒師であることをご存知ないのですか?」
毒師――毒を扱う術師。
ユージーンにはそれだけの知識しかない。そして彼女が毒師であるとは聞いていない。
けれども納得はした。
毒蛇を恐れることなく二匹も掴んでいたのだ。毒師であれば、毒蛇など怖くないのだろう。他にも蜘蛛や蝶、カエル、蜂など、毒をもつ動物はたくさんいる。
そしてこのウォルター領にはそれらが数多く存在する。しかも動物だけでなく植物も。
魔獣に対抗するために、動物や植物が毒を溜め込んだという説もあるが、とにかくウォルター領は毒に困らないほど豊富であった。
何も知らない者がそれらを手にしないように、ユージーンの部下たちが厳しく目を光らせている。
「すまない。知らなかった。よければ、もう少し君のことを教えていただけないだろうか?」
そこでまた、ネイサンに耳打ちされる。
どうやら食事の場で話すような内容ではないらしい。
「このあと、君の部屋へ行ってもいいだろうか?」
ネイサンもメイもひゅっと喉を鳴らした。
クラリスだけは「はい」と笑みを浮かべた。
◇◇◇◇◆◆◆◆◇◇◇◇
ユージーンが部屋に来ると言っていたのに、彼はなかなかやってこない。そうこうしているうちに、メイが湯浴みの準備ができたと呼びにきた。
なぜかいつもよりも念入りに磨かれる。
ここの城で働いている使用人は、クラリスに好意的である。きっかけは一人の女性が毒蛇と対峙していて、その場でクラリスが蛇を掴みあげたことだろう。
クラリスにとって、毒は必要不可欠なもの。だから、毒蛇がいたことに歓喜を覚えた。
アルバートの側を離れてしまったため、どうやって毒を手に入れようかと考えていたところだったのだ。しかし、ウォルター領には豊富に毒があった。
ネイサンに聞けば、昔からその毒に悩まされている領民も多いという。さらに、ときおり出現する魔獣たち。
ウォルター領の騎士たちは、毒から領民を守り、魔獣と隣国から国を守るという役を担っていたのである。
「奥様、おきれいですわ」
メイをはじめとする侍女たちに、徹底的に磨き上げられ、薄手のナイトドレスを着せられた。寝るだけであるはずなのに、髪もゆるくまとめられる。
「それでは、私たちは失礼します」
メイまで部屋を出て行った。いつもであればないはずのワゴンが、部屋の隅に置かれている。
ユージーンには毒師について説明するだけなのに、これからいったい何が起こるというのか。
控えめに扉が叩かれた。
それは外に通じる扉ではなく、部屋と部屋をつなぐ内側のほう。
「は、はい……」
いつもと異なる雰囲気に、クラリスは柄にもなく緊張する。
「失礼する」
彼も湯浴みを終えたところなのだろう。襟足が少し濡れており、水滴がこぼれている。こうやってまじまじと彼の顔を見るのも初めてである。
結婚して二か月、初めて顔を合わせたのが今日なのだから、仕方あるまい。
「どうぞ、そちらに。今、お茶を淹れます。旦那様のお茶には毒をいれませんから、安心してお飲みください」
クラリスがお茶を淹れるたびに、毒が入れられるんじゃないかと彼らは心配していた。彼らとは、アルバートの側にいた者たち。
しかし、クラリスだってわきまえている。
毒を摂取しなければならないのはクラリスだけであり、他の人は毒を体内に取り込んだことで、最悪、死に至ることも。
「どうぞ。いたって普通のハーブティーです」
「君のは?」
彼はクラリスのカップの中身が、ハーブティーではないことに気づいたようだ。
カップをテーブルの上においた彼女は、ユージーンの向かい側に座った。
「わたくしのは、いたって普通の毒茶です。といいましても、わたくしが毒茶と呼んでいるだけでして。旦那様と同じハーブティーに、毒を入れたものになります」
「君の話は、俺の想像を超えているようだ。すまないが、ゆっくりと教えてもらえないだろうか」
クラリスの話を最初から否定せず、こうやって歩み寄ろうとする彼の姿に好感が持てた。
「話は、わたくしの両親にまでさかのぼりますが。わたくしの母親が毒師だったのです。父は、王宮で近衛騎士として務めております。そんな二人の出会いは、尺の関係で端折らせていただきますが」
そう前置きをして話し始めた。
まず、クラリスが毒師となったのは、母親の影響が大きい。
クラリスはありとあらゆる毒を摂取しても、まったく効かないという特異体質の持ち主だった。むしろ、定期的に毒を体内に取り入れる必要がある。そうしなければ、体調を崩してしまうのだ。
クラリスがそうなってしまったのも、妊娠に気づかなかった母親が、毒師として毒を取り込んでいたため、その影響を大きく受けたものと思われる。だが、真相は不明である。
弟のジェフリーも毒師としての才を持つが、クラリスほどではない。毒が効きにくいだけで、大量に摂取すれば死に至るし、もちろん、定期的に毒を摂取する必要もない。いたって普通の毒師なのだ。
「わたくしはこの体質を生かして、アルバート殿下の毒見役を務めておりました。アルバート殿下は、意外と狙われることが多く、わたくしとしましては毒に困らない生活を遅らせていただいた次第であります」
十歳になったころ、父親からアルバートの毒見役を提案された。おそらく、そのころから、毒の定期的な摂取が必要になったと記憶している。
ところがあの日。アルバートとハリエッタの婚約披露パーティーが行われた日。
あの二人から結婚をすすめられたのだ。
「ハリエッタ様が殿下の婚約者となられましたので、今度はハリエッタ様の毒見役もと思っていた矢先です。お二人からこの結婚を提案されました。いつの間にか国王陛下まで取り込んで、断れないような形にもっていったのです」
「その結婚披露パーティーで、君が何をしたのか。俺はネイサンから聞いているのだが。アルバートの食事を奪って食べたというのは……」
「ものの見事に毒まみれでした。むしろ、あれは媚薬です。殿下をそのままベッドに引きずり込んで、既成事実を作ってしまえという思惑が満ちておりました。わたくし、毒だけでなく、媚薬にも耐性がありますので。むしろ、薬という薬が効きません」
少し喉が渇いたクラリスは、毒入りのお茶に手を伸ばす。
その様子をじっと見つめたユージーンが口を開く。
「では、その婚約者のハリエッタ嬢のグラスの中身をぶちまけたというのは?」
「はい。あの飲み物にも見事に毒が仕込まれていました。と言いましても、睡眠薬です。こちらも、ハリエッタ様を手籠めにしようとする思惑をひしひしと感じました。ですが、あの対処方法はやりすぎました。殿下からもハリエッタ様からも叱られました。もう少し、うまくかわす方法があったのではと、後になって思った次第であります」
「つまり、君が毒女と社交界で呼ばれていたのは……」
「独身を貫き通していたから、でしょうか? もしくは、ああやって殿下の食べ物をことあるごどく奪っていたからか。殿下を毒から守るのがわたくしの役目と思っておりましたので」
ふむ、とユージーンは頷く。
「あの、旦那様。旦那様もこの結婚には乗り気でなかったとお聞きしております。できればなかったことにと言いたいところでございますが、王命である以上、互いに避けられない状況であったかと」
「そうだな」
「ですから。このまま白い結婚を続け、子が授からなければ、わたくしたちの離婚が認められるわけです」
離婚前提の離婚約。
「君は、俺と離婚したらどうするつもりなんだ?」
「王都へと戻り、アルバート殿下、そしてハリエッタ様の毒見役をふたたびお願いする予定です。今は、弟のジェフリーがその役を務めておりますが」
クラリスは目を伏せ、彼らへと思いを馳せた。
けしてここでの生活に不満があるわけではない。だって、毒だけは豊富なのだ。
だが、アルバートもハリエッタも、ジェフリーも心配だった。クラリスが毒見役をおりたことで、彼らがその毒に侵されるのではないかと。
「アルバートが俺と君の結婚をすすめた理由だが、なんとなくわかったような気がする」
ユージーンの低くて静かな声に、クラリスは顔をあげた。
「まず、知っての通り。ウォルター領には毒が豊富だ。好きなだけ食べて、飲んでもらってかまわない」
「あ、ありがとうございます」
ここに来てから今までも、好き勝手毒を手に入れていたので、こうやって許可を出されるとなぜか恥ずかしい。
「それから、俺は君と離婚をする気はない」
「……へ?」
情けない声が漏れた。
「ですが、ネイサンが言うには、旦那様もこの結婚は離婚前提で受け入れたと」
「ああ、そうだ。だが、気がかわった」
すっと立ち上がったユージーンは、クラリスの隣に座り直した。彼の重みによって、ソファが沈む。
「俺は、君との結婚を白いものにするつもりはない」
「え?」
「俺は君に惚れたんだ。毒蛇を両手に持って俺を出迎えたあの姿。あれは、衝撃的だった……」
「もしかして、吊り橋効果というものでは? 恐怖を覚えたときに出会った異性にたいして、恋愛感情を抱きやすくなると言われているではありませんか」
「たとえそうであったとしても、俺はかまわない。なによりも君は俺の妻なのだから。俺が君を愛するのに、何か問題はあるのか?」
鉄紺の瞳が、まっすぐにクラリスを射抜く。
「そういうわけで、だ。今から君との関係を真っ黒にしようと思う」
「うぅ……そ、それは……」
白の反対色は黒。
これからクラリスを抱くと宣言しているのだろう。
「ここには、君にとって必要な毒が大量にある。ここを離れると困るのでは?」
「それは、心配にはおよびません。わたくしが王都に戻ったとしても、定期的に毒草やらなんやらを仕入れてくれる商人と契約しましたから」
クラリスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「うん、わかった。その契約は即刻、無効とさせてもらうよう動く」
「そ、そんな……」
すぐに彼にやり込められる。
「クラリス、諦めろ。俺は絶対に君と離婚しない。俺は蛇のようにしつこいぞ?」
自分で口にした通り、ユージーンは本当に蛇のようにしつこく、あの手この手を使って真っ黒い関係を迫ってきた。
そしてとうとうクラリスも折れ、二人は熱を分け合ったのだった。
◇◇◇◇◆◆◆◆◇◇◇◇
ユージーンがクラリスと結婚をして二年が経った。新しい家族も増え、悦びに満ちているユージーンではあるが、今日もクラリスの姿が見えない。
ここに来てからの彼女は、ありとあらゆる毒生物を捕まえては、毒を抽出し、毒薬を作る日々。だが、最近では別のものも作っているようだ。
「あ、ぶっ……」
腕の中にいる我が子はかわいい。見ていて飽きない。
クラリスは、自身がそうであったように、子どもも定期的に毒の摂取が必要になるかもしれないと怯えていた。だから彼女は、子を望もうとはしなかった。
それを説き伏せたのもユージーンである。
クラリスが毒を飲むのは、ユージーンが酒を飲むのと同じようなものだと一笑したのがきっかけだった。それに彼女も納得したのだから、例えがよかったのだろう。
今のところ、この子に毒の定期摂取は必要なさそうだ。ミルクもよく飲み、よく寝る。
「クラリス、こんなところにいたのか」
彼女の姿が見えないときは、毒草園か調薬用の小屋をのぞけばよい。今日も何やら、薬を作っていた。
このような辺境の地では、アルバートやハリエッタを毒から守れないと嘆いていたクラリスであるが、彼らが毒に侵されたとしても、解毒薬を準備しておけばいいということに気づいたようだ。
それを王都にいるジェフリーに相談したところ、解毒薬はいくらあっても困らないとのこと。だから、毒薬の他にも解毒薬を作るようになった。
彼女の作る解毒薬は、ウォルター領でも重宝されているし、魔獣討伐にいく騎士たちにとっても必要なもの。
「今日は、何を作っているんだ? そうやって、あまり根を詰めるでない」
「ジェフリーから頼まれたのです。最近、アルバート殿下に媚薬を盛る方が多いようで。まだあのお二人にはお子様がいらっしゃいませんから」
アルバートとハリエッタは、一年以上の婚約期間を経て、半年前に結婚したばかり。
ユージーンも結婚式に招待されたが、すでにクラリスのお腹は大きくなっていて、お祝いの言葉と品を贈るだけにとどめた。
ユージーンだけでも出席すればよかったのにとクラリスは口にしたが、身重の彼女を一人にしたくないというのが、彼の気持ちでもあった。
そんなユージーンはなんだかんだでアルバートに感謝している。
「媚薬が盛られるのがアルバートなのに、なぜジェフリーから解毒薬を頼まれるんだ?」
「わたくしが作っているのは、解毒薬ではございません。特定の異性にしか発情しない薬です」
「すまない。話が飛躍し過ぎて、俺には理解できない」
毒薬や解毒薬にもいろいろな種類や対処法があるようで、ユージーンには理解できないことも多い。
「ジェフリーが両殿下の毒見役なわけですが。まぁ、最近はなぜか媚薬が多いわけです。そこにどんな陰謀が隠れているのか。わたくしにはわからないところではありますが、ジェフリーは取り込んだ毒薬を無効化する力はございません。少々、効きが悪い程度です。ですから大量に摂取すると……まぁ、そういうことです」
ちょっとだけジェフリーに同情を覚えた。
「ですが、アルバート殿下が特定の人物にだけ発情する薬を摂取していれば、仮に媚薬が仕込まれたとしても、不特定多数の人物と情事に至らずに済むというのが、ジェフリーの考えのようです」
「ああ、なんとなく理解はできた。だが、その薬ができあがったとして、どうやって効果を確かめるのだ?」
クラリスに薬は効かない。
「それはジェフリーにお任せです」
「俺が思うに、何事も作りっぱなしはよくないと思う。その薬は、まずは俺が効果をためそう。俺だって、毒師の夫だからな」
ユージーンがニタリと笑うと、クラリスはぽっと頬を赤らめて、あっちを向いた。
【完】
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いろいろと書きたくなって、長編にしたくなりましたが、尺の都合で端折りました。
では、次の作品でお会いしましょう。