第2話
翌日、担任の先生に聞いてみたところ、そういった感じの生徒であの辺りに住んでいる子はいないとはっきり言われた。
そして三年生の学年主任をしている大柄な体育教師に話してみたところ、大笑いされてしまった。
「北川。お前その辺ってもう隣の学区だよ。きっと池田南小の生徒だろうな」
成る程、謎が解けた。隣の学区に入っていたとは気付いていなかった。
本来なら、ここでもうあの女の子のことは、忘れてしまえば良かったのだろう。
しかしどうしても相手の素性に固執していた少年は、放課後、担任の先生にそのことを話してみた。
すると、そこまで言うならと、職員室の電話で池田南小学校に連絡を取ってくれた。
担任教師は正巳から説明を受けたとおりに、電話に出た学年主任に事情を説明し、該当しそうな女生徒がいないか聞いてくれた。
「校区のはずれに住んでいるおかっぱの女の子です。はい。なんでも紅色のランドセルを背負ってて、大体四年生くらいと言ってるんですが……」
十分くらい話していただろうか。近くで正巳が担任のやり取りを聞いている限り、あまり先方もピンと来ていない様子だった。
ようやく電話を終えて、担任教師は少し残念そうな顔を正巳に向けた。
「どうやら知っている範囲で、そういう感じの子はいないみたいだって」
「そうですか……」
「今日は無理だけど、三年生と五年生の先生方に聞いておくって。分かったら連絡してくれるって言ってたから、まあ気長に待とう」
「はい。ありがとうございます」
きっとあと数日であの女の子の正体がわかる。
正巳は単純にそう考え、その日は帰路についた。
休み明けの月曜日。
一日の最後のホームルームが終わっても、担任教師は何も言ってこなかった。
つまり今日は電話は無かったということだろう。
下校途中、またあの路地の前で立ち止まった正巳は、少しだけその場で思案したあと、あの池のある道へと歩いて行った。
今日もまたあそこにいるのだろうか。
少し広い道へと出て、右手にある緩やかなスロープに視線を向けると、そこには誰もいなかった。
それはそうだろう。いつも同じタイミングでここに現れる方が不自然なのだ。
正巳は誰もいないスロープを女の子のことを考えながら、ゆっくりと歩いた。
この電柱を過ぎた辺りで、何かを気にするみたいに池の方を向いていたな……
少女がそうしていたように、正巳は歩きながら視線を向けてみた。
池の向こう側に錆だらけの水門がある。
農業用水に使うためのものだったのだろうが、この辺りは住宅化が進み農地だった場所には何かしらの建物が建っていた。
役目を終えて、もう人の手が触れることの無い水門は、どこかしら哀愁を漂わせながら、朽ちながらも今もそこにあった。
あれは……
足を止めたのは、その水門の手前に黄色いものが浮かんでいたからだった。
よく目を凝らして見ると、それが何なのかがようやくわかった。
帽子だ。
誰かが池に落としたのだろう。通学用の黄色い帽子が深緑色の水面にプカリと浮いていた。
何時からあそこにあるのだろう。あの女の子はあれを気にしていたのかも知れない。
少女は通学帽を被っていなかった。あれはひょっとすると彼女のものだったのではなかろうか。
正巳の胸に、突然衝動が沸き上がって来た。
きっと帽子には名前が書いてあるはずだ。向こう岸まで回り込んで帽子を引き上げたら彼女が誰か分かるのではないか。
柵を越えて土手沿いに回り込めばなんとか行けそうだった。
そのとき何故そうしようと思ったのかだろうか。
正巳は柵に手を掛けて、体を引き上げようとした。
だがその時、背中から声を掛けられた。
「コラ! そこに入っちゃいかん」
振り返って見ると、そこに自転車跨った見覚えのないおじいさんがいて、少年に向かって叫んでいた。
麦わら帽子の下には日焼けした髭だらけの顔があった。
いかにも部屋着のような少しくたびれた白いシャツを着ている。
この近所に住んでいる人だろうか。
「看板が見えんのか。『入るな危険』と書いてあるだろ」
「すみません……」
確かに看板はあった。色褪せて殆ど読めないが、きっとそう書いてあるのだろう。
「この池は深くは無いが、底が柔らかくて足を取られるいわゆる底なし沼なんだ。分かったら入るんじゃないぞ」
そう言い残して、おじいさんはペダルに足をかけて行ってしまった。
あのおじいさんに声を掛けてもらえなければ、自分はこの柵を越えていただろう。
正巳は自分がしようとしていたことにゾッとして、また歩き出そうとした。
「あっ」
思わず少年の口から声が出た。
何故ならそこに、あの紅色のランドセルを背負った女の子がいたからだった。
さっきまでは誰もいなかったはずだ。いつの間に追い越されていたのだろう。
おかっぱの女の子は、いつものように少年の前を歩いていく。
そして時折、またあの水門の方に顔を向けるのだ。
そして、やはり電柱の陰になって、その顔は見ることはできない。
やがて十字路で曲がって行った女の子は、いつものように姿を消していた。