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猫又ジキル博士シリーズ

猫又ジキル博士のお話~蒼雀玉大学新入生へのとある博士の初講義~

作者: 夜霧ランプ

新入生徒諸君。蒼雀玉大学あおじゃくだまだいがく、猫又ジキルの講義へようこそ。

まずは、猫又ジキルと言うワタクシの事についての紹介から始めましょう。

それは長く長く遠くの日々の事です。

まだ、ワタクシがヒトノホシの世界で、ちょいとばかり学のある猫として生きていた時の物語を。

 ワタクシの名はジキル。姓は猫又と申します。何故猫又なのか? それは至極簡単な理由で、私の尾の先が二又に割れているからです。

 ジキルと言う名をもらった幼き日より、近所の人間の小僧共に「猫又だ」と言って石をぶつけられていました。

 ワタクシの里親であった志帆と言う優美な名前の妙齢の夫人は、下唇のしゃくれた物書きの夫と暮らしていました。この物書き殿は、ワタクシを見るたびに何故か眉毛の間に縦筋を作ります。

 物書き殿が椅子に掛けた膝にでも飛び乗ろうものなら、差し歯を飛ばしかねない勢いで、「ジキル!」と怒鳴ります。

 ワタクシは、何より里親である志帆様に仕えねばならぬ身でしたが、何せその夫殿が、ワタクシの名付け親とくるのですから、そう無下にも出来ませぬ。

 物書き殿は、書斎と言う部屋の四角い卓の上に「げんこうようし」と言う四角い枠の並んだ紙を幾つも広げ、そこに枠からはみ出る多大なる無作法な文字を描きます。

 あれは、書いているなどとは申しません、もう、描いているのです。「文字」と言うものに似た、何等かの記号を。

 ワタクシは、夏の風の涼しい日などは、開け放たれた窓より書斎に侵入し、狂乱するように文字を描く夫殿を見守っておりました。

 志帆様の代わりに……いいえ、決して佳人の代わりに成れると自惚れているわけではございませんが、せめて志帆様が安心してお茶を持って来られるように、扉の前でとおせんぼうをしているのです。

 物書き殿は、「へんしゅうしゃ」の人間に先生などと呼ばれて、少しばかり好い気になっております。

 しかし、物書き殿は、月に二回、「へんしゅうしゃ」の人間が紙の束を受け取りに来る日を、何より恐れていました。

 物書き殿が狂乱の文字の舞いを舞っているのは、いつも「へんしゅうしゃ」の人間が来る、三日前から当日の朝です。

 その日が近づくと、ワタクシは扉の前でとおせんぼうをして、中々志帆様を書斎に入れません。志帆様のお目に触れさせるには、あの狂気の舞いは見苦し過ぎるのです。

 志帆様は、分かっているのか居ないのか、ワタクシがとおせんぼうをしている間は、書斎に入って来ません。

 物書き殿が息を継ぐ瞬間を見計らって、ワタクシは書斎の扉を爪で掻きます。そうすると、志帆様は控えめに三回扉を叩いて、季節に合った温度の飲み物を入れたポットをお盆に乗せて持ってくるのです。

 物書き殿は、「こおひい」や「てい」や「りょくちゃ」を、ポットから湯のみに注ぎ、浴びるように喉に流し込んでは、夜通し舞い続けます。

 当日の、朝も遅い十時五十五分は火の車です。まさに、炎を撒き散らしながら町の中を駆け抜ける車輪のように、物書き殿は狂い続け、十一時きっかりに「終幕」と、文字を描きます。

 ペンをペン立てに戻すと、物書き殿は椅子の背もたれに身を預け、座ったまま数日ぶりの睡眠をとります。

 物書き殿のいびきを聞きつける頃に、志帆様はこっそりと書斎に忍び込み、眠る夫殿を起こさないように紙の束を整えると、慣れた手つきで大きな茶封筒にしまって、「へんしゅうしゃ」の人間に渡します。

 一週間もせぬうちには物書き殿の文章が「あおみどり」と言う文芸雑誌に載ります。そうすると、銀行に「げんこうりょう」が振り込まれ、ようやく安心して志帆様と夫殿は生活が出来るのです。

 ワタクシも、二つになる頃にはあの狂い様を見慣れてしまいましたが、まだ幼かった日は、この人間は何を好き好んで、じゃらす者もいないのに腕を振り回しているのかを疑問に思ったこともありました。

 人間と言うのは、時間に急き立てられる中、一心に「物事に埋もれる」と、狂気じみた舞を舞いたくなるのであろうと言う悟りを得るまで、一年はかかりませんでしたが。

 そんな生活環境でございましたから、ワタクシは「物事に埋もれる」と言う人間の習慣を、とても物珍しく、面白く思っておりました。


 志帆様は、酒を飲まぬ夫殿と一緒に、時々「ちよこれいとけいき」を食べます。その時に、「こおひい」も飲みます。

 ワタクシが食卓を遠くから眺めていると、志帆様は「ジキルも食べたい?」などとご機嫌伺いをして下さいました。

 すると、夫殿は「猫にチョコレートとコーヒーは毒だよ。体の中で分解できないんだ」などと、学者風をふかすのです。

 ワタクシの関心事は、主に志帆様達の食生活でした。

 志帆様は暦の六のつく日に市場へ行き、大きな魚や海老を買ってきます。佳人は女性で、鍋の蓋より重たい物など持てるのか? と思う棒切れのような腕をしています。

 ですが、見た目と反して割合に力が強く、大きな漬物石でも軽々と持ち上げます。ですが、ちゃんと両手を使います。

 ワタクシがその様子を感心して見ていると、志帆様は「しっかりつかんで、お腹の上に持ち上げるの。そして、脚で支える」と、まるで小さな子供に言い聞かすようにおっしゃられるのです。

 ははぁ、まだ子宝に恵まれないお体なので、ワタクシを子のように思っていて下さるのだな、と考えて、ワタクシは心を温めておりました。

 話を料理に戻しましょう。市場から、まだ動いている大きな魚や海老を買ってくると、志帆様はそれらを苦しませずに絞め、包丁で捌き始めます。

 志帆様の得意料理は少しハイカラで、ミルクを使った西洋風のごった煮、「みるくしちゆう」と言うものでした。

 水に溶かした小麦粉を少し入れて、煮汁にとろみをつけるのが要点だそうです。

 大鍋に魚や海老を入れた大量の「しちゆう」を作って、一日目は「しちゆう」そのものとして食べ、二日目になる前にスパイスを入れて「かれえ」を作って、次の日に食べます。

 その時だけは、物書き殿はちょっと愉快そうにワタクシに言います。「良いか、ジキル。スパイスが辛え辛えと言って食べるから、『かれえ』なんだ」と。

 恐らく、物書き殿流の冗談なのでしょうが、ワタクシはこの夫殿から受ける教授は、あまり役に立ちそうにないと心得ていました。

 三日目はタレのようになったごった煮を薄めて、新しく野菜とソーセージを追加してようく煮込み、「かれえ風味ぽとふ」を作って食べます。

 三日間、夕飯に煮込み料理を食べた後は、ワタクシに塩抜きをしためざしを数匹食べさせてから、お二人は「がいしょく」に出かけられていました。

 物書き殿は似あいもしないタキシードを着て、志帆様は美麗なドレスを纏い、唇を美しい薄紅色に塗って、耳に真珠のイヤリングを付けて行かれます。

 家の前に「はいやあ」を呼び、繁華街にある「れすとらんと」と言う所に出かけるのです。

 そこで、「ジキルには絶対食べられない大きい生き物の肉」を食べてくるのだそうです。

 帰ってきたお二人から、「そおす」と言うものの不思議な香りがするのを、クンクンと嗅いで回っている時に、志帆様が教えて下さいました。

 ほとんどの場合、人間と言うのは、形のあるものをそのままは食べないのだと言う事を、この生活によって学び取ったのです。

 それこそ、めざしくらいでもない限り。


 世の中の食の流行と言うのは、日々変わり続けるものだそうで、異国の料理を出す「れすとらんと」で、「さらだ」や「すていき」と言う食べ物の他に、「ぱえりあ」と言うものが流行り始めました。

 仏蘭西と言う国の料理である「ぱえりあ」は、海に近い地方の食べ物だそうで、米と海鮮を鍋にきれいに並べて煮込んで食べるもののようです。

 志帆様と夫殿はこの料理が気に入り、帰ってきてから「家でも作れないものか」と話し合っておりました。

 志帆様は煮込み料理の他に、「ぐらんたん」や「りぞっと」や「すぱげってぃ」や「ばばろあ」等も作られておりましたから、佳人の腕であれば作れるかもしれないと言う期待もあったのでしょう。

 我が女主人は、町に行って料理の本を探したそうです。だけど、何処にも「ぱえりあ」の作り方が載っている本が無いとくる。

 そこで、志帆様は一度食べたきりの「ぱえりあ」の具材と味を思い出しながら、それらしき食材を買い集め、米をよく研いで鍋に入れてバターで炒めました。

「少しトマトの味がした気がするから」と言って、「ほおるとまと」の缶詰を開けます。

 ここから話は、ワタクシの想像ですが、恐らく、志帆様達の所に持ってこられた「ぱえりあ」は、非常に優美に盛り付けられていたのでしょう。

 志帆様は、トマトを潰した「ぴゅうれ」の入った「そおす」と米を層状に鍋に敷き詰め、考え得る限りの調味料や隠し味を入れて、最後に鍋の中に海老や海鮮の類を、花が咲いたような整った形で並べました。

「後は蓋をして、米が炊けるのを待つだけ」と言って、志帆様はエビの殻を片づけ始めました。「ジキルが犬だった、エビの殻のごちそうが食べれるのにね」と言いながら。

 ワタクシは、世間の犬の輩はそのようなおこぼれにあずかっているのかと知って、奴等めの意地汚き心に甚だしく嫉妬したのであります。


 さて、ワタクシは家猫と言うものでありましたが、比較的外出は自由でございました。何故なら、ワタクシはしっかり家の方向を覚えて出かける猫で、一回の誤りも無く家に帰りつくからです。

 ワタクシは、力ではその辺りの親方の「雷桜」と言う猫には敵いませんが、ほどほどに頭の良い猫でした。志帆様の家で見聞きしたことや、猫の社会で生きる方法を子猫達に教授することもありました。

 猫の仲間に「ジキル博士」などと呼ばれておりまして、先の物書き殿のように、少し好い気になっておりました。

 そんなワタクシが、街角の塀の上などで子猫達に講義を行なっておりますと、雷桜殿はその様子を遠巻きに見ながら、目を細めておりました。

 何やら、今日の親方は気分が良いらしいと察したワタクシは、講義が終わって子猫達が解散すると、雷桜殿に声をかけました。

「いやぁ、桜も随分見頃な様子ですな」

 その言葉を、自分の名前への敬意だと察した雷桜殿は、「おう。まさに、今が我が世の春だ」と、低く貫禄のある声で答えました。

 雷桜殿は、鍛えられたどっしりとした体と、太い鞭のような立派な尾、生涯で一度だけ傷を負った片方の桜耳、そして雄猫らしく引き締まった細い目の、憧れさえする威風の持ち主であります。

 外猫である彼の錆び色の毛並みはバサバサとしていて、美しいとは言い難いのですが、その荒々しいコートが一張羅である彼を、子育てを終えた雌猫達は焦がれるように見つめます。

 何せ、人間に依存しない雷桜殿は去勢されておりません。彼の後ろ姿は、立派な睾丸があり、子を作れる雄猫である事を示しています。

 実際に彼は複数の雌猫を妻とし、丈夫な体と腕白な好奇心を持った子猫達をたくさん育んでおりました。

「ジキル博士」と、不思議機と雷桜殿は、ワタクシを敬称で呼んで下さいました。そして言うのです。「俺はあと何年生きられると思う?」

 ワタクシは考え込みました。ワタクシはその時、己の齢は六つであることを存じていました。雷桜殿は威厳に溢れ堂々としていますが、ワタクシより若く、彼の齢は三か四と言う所でした。

 ワタクシ達、猫と言う種族の多くは一年で成人します。それからは人間の一年の間に、四歳ほどの年を取ります。ワタクシは六つですから、己の齢は人間にするなら四十と言う所です。

 雷桜殿は、少なく見積もって二十八、多く見積もって三十二と言う所です。

 病の治療や栄養の偏りに注意出来ない「外猫」としては、立派な大人であり、同時に寿命も近づいている年齢です。

 人間で言うなら、二十八だの三十二だのは、まだ若造の一端でしょう。ですが、外猫としては親方を名乗れる僅かの「春」の時でした。

「雷桜殿。しばし、失礼」

 ワタクシは塀を降りて、草原で寝そべっている彼の隣に寄り添い、親しみを込め、そして決して侮るようなそぶりは見せずに言いました。

「私が家猫であることは、ご存知ですね?」

「おう。なりを見ればわかる」と、雷桜殿は唸るように応えます。

「家猫の寿命は十年を超える時代ですが、外猫……。あなたのような、勇猛な外猫であれ、『病』と『老い』には、どうあっても勝つことは出来ません」

 ワタクシの言葉を、雷桜殿は草原でじゃれて遊んでいる子猫達を見守りながら聞いていました。

「家猫の寿命が延びたのは、人間に依存することで『病』と『老い』が体に及ぼす影響を弱めることが出来たからです。しかし、外猫のあなた方は、その脅威に己の命でしか対抗できない。

 あなたが今、傷を負っても何事も無く生きていられるのは、『病』と『老い』に対抗する力があるからです。それを人間は生命力と呼びます。その生命力の尽きる時、それがあなたの命の散る日でしょう」

「博士ほどの齢になっても、俺が正確にいつ死ぬかは分からんのか」と言って、雷桜殿は目を細めました。「それは愉快だ。大変愉快なことを聞いた。俺は、まだ生きられる。そして、いつかは散る」

 ワタクシは、人間のようににっこりとほほ笑みました。「雷桜殿。あなたが親方を務める領域に生きられる者達は、非常に幸運です。このように、秩序ある世界は中々ございません」

「そうとも。俺が若猫だった頃から、二度の冬を越して作り上げた領域だ。俺が生きている限り、この世界は秩序を保ち続けるだろう」

 雷桜殿は、横たわっていた草原から体を起こし、「さぁて、見回りに行かなきゃな」と言って、務めを果たしに出かけました。

 それが、ワタクシがたくましく勇猛な雷桜殿を見た、最後の姿になりました。


 その訃報は、意外にも物書き殿の口から聞かされました。

 物書き殿は、妻である志帆様にこう報告したのです。

「『へんしゅうしゃ』の緑川君が、なんでも車で猫を轢いてしまったらしい。よく、この辺りをうろついてた、大きな錆び猫だ。轢いたと言っても、片脚を潰しただけだと言っていた。

 その猫は、逃げてしまったみたいなんだがね。いやぁ、不吉なことがあるんじゃないかって、緑川君もうろたえてたよ」

 ワタクシの頭の中に、電撃のように閃いた映像がありました。

 大きな錆び猫。恐らく、雷桜殿の事だ。しかし、彼は意味なく車の前に飛び出るほど愚かな猫ではない。何か理由があるのだ。

 ワタクシは素早くワタクシ用の玄関扉から家を抜け出し、雷桜殿の姿を求めて、宵の迫った町を疾走しました。

 恐ろしいほどの情熱に突き動かされ、一刻も早く彼を見つけ、その嫌疑晴らさなければ、ワタクシはこの生涯をずっと悔やむだろうと言う、一抹の天啓を受けていたのです。

 ワタクシは、雷桜殿を見つけました。あの日に語らった草地に、彼は伏していました。片脚はおかしな位置でぐちゃりと潰れ、出血しています。恐らく神経も麻痺するほどの激痛に苛まれていたでしょう。

「雷桜殿」と声をかけても、彼には応じる力が残っていませんでした。

 草原の物陰に、一匹の子猫が隠れていました。

「君。君は、ずっとそこに居たのか?  雷桜殿に何が起こったのか知らないか?」と問うと、その子猫は案外多くを知っていました。

「道路の真ん中で取り残されてた子猫を、助けたの。その子は、『僕が悪いんじゃない』って言って、さっき逃げちゃった」

「雷桜殿」と、ワタクシはもう一度、彼を呼びました。「子は無事です。あなたは、務めをやり遂げたのです」

 雷桜殿の、苦痛に歪んだ顔が、うっすらとほほ笑んだように見えました。そして、口だけを動かして、「にゃ」と音も無く呟くと、雷桜殿は最期の息をつき、脱力しました。

 ワタクシは、その音のない囁きの意味を知っていました。

「後は頼んだ」

 雷桜殿は、そう言い残したのです。


 ワタクシは、責めるべきは誰かを考えました。しかし、雷桜殿の威厳と満足感に満ちた最期の顔を見ていると、彼がワタクシに「頼んだ」と申し付けたことは、そんな些末なことではない気がしました。

 草原を去る時、ワタクシは何度も何度も雷桜殿を振り返りました。

 後脚の片方は潰れ、夥しい血液が彼の周りを囲んでいましたが、まるで今にも起き上がって、「おう。ジキル博士」と声をかけてくれるのではないかと言う、夢幻のようなことを思っていたのです。

 彼はピクリとも動きませんでした。ワタクシは、偉大なる親方が失われたのだと言う事を、ようやく受け入れ、志帆様の待つ家へと戻りました。

 ワタクシ用の小さな玄関へ帰りつくまでに、雷桜殿の心を考えに考え、考え抜きました。雷桜殿は、ワタクシに何を頼もうとしたのか、それはきっと、とても重要なことだ。そう思ったからです。

 二度の冬を越して作った秩序あるこの領域を守ってほしい? いいや、それは次の親方になる若猫の仕事だ。自分が助けたように子猫達を守ってほしい? いいや、そんな力はもう六つのワタクシには無い。

 夕方は遠くなり、空には月と星が出て、墨のような雲が泳いでいました。

 ワタクシは、偉大なる親方のために、何をすべきなのか。彼の亡き後の、この領域のために、何をすべきなのか。

 その疑問を抱えたまま、ワタクシの足は、ワタクシ用の小さな玄関を通り抜けました。

 その時です。其処はいつもの志帆様の家ではなく、不思議な川原になっておりました。玉砂利が水にキシキシと鳴り、水のせせらぎは魂が洗われるようです。

 ああ、きっと此処は三途の川。黄泉の入り口だ。私はそう勘づきました。皆、此処で魂を濯いで、清らかな存在となって極楽浄土へと旅立つのだと。

 川の中には小さな笹の舟がいくつかあり、そこに温い火を持った魂がひとつづつ灯っておりました。ある舟の火に重なるように、大きな錆び猫の背中が見えました。

「雷桜殿」と、ワタクシは呼びかけました。

 大きな猫の影を纏う魂は、ゆっくり振り返りました。その凛々しい薄い緑がかかる眼は、何処か崇高な光を帯び、既にこの世のものではありません。

 川の中で半分まで濯がれた雷桜殿は、もうワタクシの事も、現世でどんなことが起こったかも、分からぬようでした。

 ワタクシは、問いかけたい心を鎮め、猫族の礼儀を込めて、「また、お会いしましょうぞ」と挨拶をしました。

 雷桜殿は、またゆっくりと対岸のほうに向きなおると、笹の舟に乗って去ってしまいました。


 ハッと我に返ると、ワタクシは恐怖に捕らわれました。「びょおいん」の「しんだい」の上に居たからです。

「ああ」と、間の抜けたような声で白衣の人間が言いました。それは、獣の治療をする医師でした。「気が付きましたね。注射は必要ないか」

 すぐに医師は看護婦に志帆様を呼びつけるように言い、志帆様は不安と安心が入り混じった複雑な顔で診察室に入ってきました。

 医師は言いました。「心拍数も回復しています。強心剤を打つ前で良かった」と。

 私は袋状の「きやりぃばぁぐ」に入れられ、志帆様と「はいやあ」に乗りました。

 志帆様が「はいやあ」の運転手に話したところによると、ワタクシは家の玄関を通り抜けるなり、ぱたりと玄関に倒れ、それっきり息も脈もほとんど止まったようになったのだそうです。

 少しでも心臓が動いているうちに何とかしなければと悟った志帆様は、夫殿に留守を任せ、「じゆうい」の所に、動かぬワタクシを連れて駆け込んだと。


 その日からです。ワタクシは、この世界の複雑さを知ることになりました。

 何処からか、「ねぇ」と、時々私を呼ぶ声がするのです。それは、猫の声でも、人間の声でもありませんでした。

 まるで、あの、朝に漂う霧が声を発していると思われるかのような、朧で、希薄な、それでもはっきりと耳に残る呼び声でした。

 その声は、二年の月日の間、ずっとワタクシを呼び続けていました。

 ある日の午後、気持ちの良い七月の風が、薄く開けた窓から吹いている時です。

「ねぇ」と言う、いつもの希薄な声が聴こえました。「ねぇ。この世界に」

 その声は、ハッキリとワタクシに向けられていました。「生きましょう。あなたも一緒に」

 八つになったワタクシは、今こそ旅立たねばならない。そう決心いたしました。

 夜になり、志帆様と物書き殿は寝室へ行かれました。

 ワタクシは自分の寝所である、だんぼおる箱と毛布のベッドで、ずっと耳を澄ましていました。

「ねぇ」と言う、いつもの声が聞こえてきました。その声は、今までよりずっとはっきりしていました。

 月明かりの中、分厚い髪を末広がりのおかっぱに切った、青い服の童子が、屈みこんでワタクシを見つめていました。

「手を出して」と童子に言われ、ワタクシは前足を片方伸ばしました。「もう片方も出して」

 ワタクシが両の前足を差し出すと、童子はその足……いえ、両腕を取って、ワタクシの体をふわりと持ち上げ、後足で立たせました。

 ワタクシは、ひどく感嘆を覚えました。人のように、後足で立てる。その事に、深い感動を受けたのです。

 体は霧のようになり、壁にある排気口から、すぅっと外に飛び出ました。

 童子は、私の手を引いたまま夜空をどんどん昇って行きます。

 何処まで行くのか、この体はどうなっているのか、そんなことを考えている暇はありませんでした。

 唯々、目の前にどんどんと迫る月の明るさ、美しさに魅入られ、ワタクシは生まれ変わるのだと知りました。


 それが、約二百九十年前に、ワタクシの身に起こった事です。ワタクシは、この世界で教鞭をとる職を任され、かつては愛称と同じであった「博士」の称号を、実在のものとしました。

 何を研究した、何の博士なのか。その事は、またいつかの機会にお話ししましょう。その物語が聞きたければ、必ず講座に出席するように。

 ブザーが鳴りましたね。それでは、今日は此処まで。みなさん、お昼はしっかりお食べなさい。

そんなわけで、蒼雀玉大学の新入生達は、学食のメニューに「ぱえりあ」が出来ないかと、毎年申し立てるのですが、未だにその願いは叶えられていないようです。

蒼雀玉大学が何処にあるのか? それは巡査の職業についている犬達に聞かねばなりませんね。

しかし、彼等は走るのは目くらめっぽう早いのですが、一つ以上の事を聞くと最初の事を忘れてしまうので、道を聞くなら一回きりです。

「蒼雀玉大学には、どう向かったら良いですか?」とだけ聞きましょう。

蒼雀玉を言い間違えてもいけませんよ。以前、あおしゃくだま大学と言い間違えて、花火師の家を紹介された新入生も居ましたから。

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