紙一重の戦場
青海夜海です。紙一重の戦場で、戦士は吠える。
それは悪魔の力を削ぐには十分だった。魂血から取り入れた力は消滅し、食い止めていた亡者は囚われていない空の彼方へと消えていく。
故に亡者の力を失くした異形は混沌の魔族へと元通りに戻っていく。
血だらけで瀕死寸前のゼアは動かすことのできない左腕をだらりと下げて、鋭利な銀の瞳だけで笑みをつくった。
「ちっ。はぁ……ぅっ、おせーんだよ。はぁーどんだけ、時間かけさせんだ。……シンベラーダが死んだらどうするつもりなんだよ?」
「はぁはぁはぁ……限りなくゼアさんの方が、死にそうですけど……これで対等ってところですかね」
魔力枯渇症に一時期侵されながらも、唯一治癒魔法が使えるローズの姉のヴァーネの魔法とスキルの合わせ技で魔力を回復したローズは、疲労は色濃く見えるもゼアほどに死の節に直面はしていない。無論、魔力回復は荒治療であり、次に魔力枯渇が起きれば、本当に死ぬ恐れはすぐそこにある。それを除いてもゼアの有様は酷かった。
だらりと下がった左腕に刻まれた両脚、抉られた肩から骨がほんのり見えている。右手の甲は爪牙によって貫かれ、身体のあちこちから絶え間なく血が溢れ出ている。
サタナキア化した英傑ドランガルとの攻防は熾烈を通り越して卑劣に近い。
圧倒的なのだ。英傑の記憶から魔族との融合、そして醜魔への進化。
誰よりも成功だった。誰よりも強かった。巨人のような馬鹿力でなくとも、ゼアを防戦一方にするだけの力を持ち合わせ、魔物と変わらぬ速さと剛腕からなる破壊と爪牙の鋭利。
けたたましい咆哮は聴覚を揺るがし、大地に干渉するドランガルの魔法の一部を使いこなすサタナキアは、今までに三番目に強い敵だと感じた。
もう何度目かも知らぬ魔族共との交戦から、彼らに残されている猶予は短かった。
全力であればこうもならなく、勝利はできていただろう。けれど、それは理想。現実ではない。現実は儚く苦しく等しく理不尽だ。その果てに今の状態がある。
英雄譚のような死闘に加われる者などいない。足手纏いで邪魔になるだけだ。
レェムファもミラーダもアムネシアもヴァーネも祈るしかないのだ。彼女たちの責務は魔族の討伐にあり、狼とエルフと共にその戦場に立つことはできない。
そしてその祈りが届いたわけではない。けれども好機がやって来た。
竜印の覇者たちによる楔の解除。
それによって亡者の消滅がドランガルを崩していく。少しずつ確実に壊していく。
「はぁ……はぁ……長かったな」
「そうですね。……」
「次で終わらせる。いいな?」
「わかりました。わたしが魔法で――」
魔法で足止めするしますから、と言いかけたローズの言葉を奇声の咆哮が遮った。
今までで一番悲痛な音色が鳴り響く。鯨怪の歌よりも蛇の威嚇音なんかとは当てにならない。クジラなど優雅で蛇など優しいもの。
耳を塞ぐ彼らは顔を顰め、脚を崩す者も出る。
嫌な音、嫌な予感。不快不穏で奇怪奇声は脳髄を刺激して狂わせる。
「なんだ⁉なんなんだよこれはっ!クソッ」
「耳が……ぅぅ……これは、なに⁉」
彼らは見た。ドランガルが天へ向かって咆哮する、一匹の狼のように鳴く姿を。それはまるで仲間を集める合図のような――
「魂が犯されている……」
「なに?」
眼を見開いて見上げるアムネシアの呟きが、ゼアとローズの心臓を打った。
「ヤバイわっ」!ゼア‼すぐにそれを倒してっ!じゃないと――」
言い終わる前にゼアは駆けだした。狼の力を最大限まで引き延ばして、ドランガルの目の前でナイフを煌めかせて。
「――手遅れになる」
ナイフの斬撃は、天から降りてきた炎の穢れに弾かれた。
火の粉は黒い粒子へと変貌して搔き集め、無理矢理に身体へ定着させていく。
増大な醜悪な力が漲り、海の荒れ狂う波のように国を轟音させた。
「化け物め……!あんな存在がいてたまるか。あんなもの……理を逸脱している!」
人間らしき胴体は足の付け根から首筋までを覆いつくし、それは最早生物ではない。禁忌と称してもなんら問題はない。そういう存在だ。
理の枠外に生まれ、法則を捻じ曲げた合成獣など許される値に位置する、それは『邪鬼』。
蟲の蠢く黒の身体。巨体な剛腕。脚は埋もれ背中から無数の手腕が伸びる。長い鼻に鋭い牙。赤黒い瞳は濁りの果て。
「うそ……あんなのが、あんなのが存在するなんて……」
「アムネシアさん……。あれは……あの禍々しい存在は、なん、なの?」
眼は瞬きを忘れ、口から無意識に零れ出る信じ難さ。
生物は理解する。存在してはいけない生物だと。神を怒らせる『異郷の悪魔』であると。
放たれる咆哮のプレッシャーが並みの人間の意識を瞬時に狩り獲る。何人もの戦士がその場に倒れていく有様。
保っていたのはアムネシア、レェムファやピエリスにミラーダ、セレミアとヴァーネだけだ。精神力の強い者以外はこの戦場を見届ける権利すら与えられない。
「わからない。でも、理から外れた『邪火』よ。……魂が無理矢理盗り入れて進化した化け物。戦ったらダメ……絶対に勝てない」
頭を横に何度も振る。ダメだ勝てない逃げないと殺される。魂ごと冒涜される。
一歩、二歩と下がるアムネシアの表情は死と同じ。炎と生火を司る彼女だからわかる。悪魔よりも恐ろしい脅威であると。
だから……だけど……一人だけは前に脚を進めた。
一匹だけは傷だらけの身体を振るって牙を構えた。
「どうして……」
「…………」
「なん、で……」
「…………」
「いかないでっ……」
「…………」
「いやぁ……っ」
「…………」
「だめ……」
「…………」
「とま……て」
「……止まれない」
「――ッ⁉どうして⁉あんた死ぬわよっ!そ、それなのに……どうしてっ⁉」
一匹の狼は振り返った。闘志を抱く銀の瞳。迷いのない強き瞳。
ああ、理解してしまう。わかってしまう。
もう、連れ戻せないこと……見送るしかできないことを知ってしまう。
ゼアはさながら負ける気など微塵もないとばかりに、『人狼』へと変貌した。
人狼――オオカミの身体にして人間の形。そして動物の治癒を持ち合わせた人間にして狼。鋭い爪牙に纏う鈍色の毛。正しく『人狼』。今、再び更なる枷を解き放った。だらりとしていた傷だらけである腕をゆっくりと持ち上げて、手を振って見せる。
「これガ、オレの使命ダ」
もう無理だ。泣かないなんてできない。だけど、泣くこともできやしない。帰りを待たないと、約束をたった一つだけの約束を交わさないと。
濡れる瞼を擦り鼻を啜って、どうか願いだけでも込めて――
アムネシアは戦えない身でありながら、戦士の唯一の居場所となるように強く強く声を張った。
「勝ちなさいよ!死んだら許さないんだからっ!」
そんな約束を背中にゼアは走りだす。伸びてくる無数の手腕に向かって咆哮した。
「ゥゥゥォオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッッッ‼」
猛獣となって生態本能を呼び起こす。人狼となった時、ゼアの自我は少しばかり薄れてしまう。謂わば人間的な思考を遮断させ、動物的本能へと変換する。
故に連携など不可能。狼とは群れを為す強者。しかし、その狂暴性は孤狼として万全の斬斯者。孤独の狩人もまた本能。ゼアが培ってきた戦闘経験は孤独からである。
狼の姿ではできない変則的な動きも人狼の今では可能。理性を捨てた純粋な猛獣。
剛腕の打撃を躱し、腹部へ瞬足。しかし、伸びる手腕がゼアを阻み、出来た隙を殺す。
「ォォオオオッッ‼」
爪牙で砕き、神足に乗って回避する。周り込んで跳躍してからの頭上からの一撃。
しかし、【邪鬼】は身体を震えあがらせたとき、身体全体から黒の突起が乱射した。
「グゥゥッッ⁉」
体重を外へ思いっ切り身体の捻りと合わせて横にズラすが、棘が横腹を抉り頭を掠めていく。
「ゼア⁉」
「ゥゥゥゥォオオオオオッッ‼」
片手で地面を弾き距離を取る。刹那、手腕の挟撃が迫り、それは炎に焼かれ霧散した。
「わたしだって!戦えるっ!あなた一人にいい所を待って行かせるなんてさせません!」
ローズは数多の星華を携え、宣言して見せる。
傷だらけで汚れだらけの身体なのに、ああ……彼女のそれは大変美しかった。
妖凛とした立ち振る舞いも温かで陽光のような声音も、意志と覚悟のなる真摯な表情も。
彼女と言う存在自体が美しく誰もの瞳を奪った。
「わたしが援護しますから、あなたは進んで!迷わず敵を撃って――っ!」
それはもう信頼からの託しだった。自分が絶対に支えてあげる。その代わりに敵を殺せ。
連携は不要。想うがままに突き進み勝利を掴め。後はわたしがなんとでもするから。
正気が戻って来るゼアは狼の口で小さく笑う。
経った半日も行かぬ今日で、何度彼女と激戦を乗り越えたことか。その度に何度助け合ったことか。
ああ、迷いはない。ああ、失敗はない。ああ、これも約束だ。
「ゥゥォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォ――――ッッッッ‼」
それは勝利への雄叫び。約束への走り。掴み取る英雄の軌跡だ。
狼は駆け出した。エルフは魔法を唱えた。
双撃、爪牙、火炎、氷棘、雷撃、瞬足、神足、驀進、爆炎、轟音。
数え切れない星華が集約して創造した。
無数の手腕を捌き、乱射の棘を潰し、咆哮の音波を魔力で阻み、全てを本当の全てを使って攻めた。攻撃した。防御などいらない。相手を一瞬でも上回り、決定的な胸に小さく光る魔石を破壊すればいい。それが勝機――
だから……だから……何度も何度も限界を超えて穿った。そしてその時は遂に来た。
「穿て‼」
貯蔵している魔力を引き出した業火の雷撃が【邪鬼】の鉄壁な剛腕を弾き、手腕を焼き払った。
できた隙間。できたチャンス。神足が【邪鬼】との間合いを詰めた。
赤い瞳と銀の瞳。突き出す爪牙と放たれる咆哮。運命が決まる瞬間。
「ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ‼」
『キャァアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッ‼』
斯くし、咆哮によってゼアは地面に叩きのめされた。
「グアッ……!」
ああしかし、ゼアの爪牙が魔石を確かに刻んでいた。
『キャッギャァ、ァァ……』
超殴撃がゼアの背骨を軋め、あばらが砕け内臓が破裂する。
罅が入り組んでくる魔石から身体の一部が灰へと還って逝く。
意識が遠ざかり、灰になる己を怯え、しかし、【邪鬼】はありったけの魔力が魔石の修復へと促し、にやりと笑みを浮かべたその悪魔たる相貌がゼアの瞳に映りこませた。それを勝利の笑みと言うのであろう。殴撃がゼアの肩を砕いて遥か先へ吹き飛ばした。
声にならない悲鳴は痛哭。瓦礫を貫き建物を倒壊させ、戦場から姿を確実に消した。
「……………………うそ」
それだけの呟きしかローズから零れなかった。
信じられない。あの聖獣のゼアがこうも負けてしまうなど。その威力は死しか与えない。
誰かが直感する。ゼアは死んだ。敗れて殺されたのだ。約束を守ることなく……。
「ぜ、あぁ……いや、ぃやぁ……ぃっいやぁあああああああああああああ…………っぁ⁉」
膝から崩れ落ちて泣き叫ぶアムネシア。呆然と佇むローズ。
思考を封じられた。勝機が目を晦ました。意志が砕けていく。
もう…………勝てないのだと、理解してしまう。
勝手に受け入れて諦めようと心が叫んで――
強い衝撃がわたしを押し飛ばした。
駆け抜けていく『何か』が視界の端に映る。
強い衝撃がわたしをその場から遠ざける。
香りがした。好きな人の凛とした香り。
声がした。生きた時から共にいた妖艶で優し気な声音。
そして――託された。
未来を、誰も泣かないような未来を託された気がした。
「……………………ぇっ」
視界の映る先で鮮血が舞う。鮮やかで綺麗な血の結晶が宙を踊った。
背中を地面に撃つ衝撃。隣に誰かが倒れる音。
血の濃い匂いがわたしの鼻孔を刺激して、思考を死なせた。
わからなかった。わたしの隣に倒れているが誰であるのか、知りたくなかった。
今起こった事実を何も知りたくなかった。認めたくなかった。
そんな悲劇が受け入れられるはずがない。はずが……ない、のに。
荒くか細い微かな息。胸から零れる命の源。青ざめて白くなっていく美貌。
苦し気に寂しげに儚げに、その人はわたしの名前を呼んだ。
「…………ローズ、ちゃん」
また来週更新予定です。




