アウズ
青海夜海です。
魔族侵略の前哨戦です。
リリヤ・アーテ
その『名』をもってして覚えているのは――顔を知らない、名も知らない、声も知らない、けれど確かな温もりのある綺麗な手で頭を撫でてくれるそれだけだった。
ぼやける記憶の片隅、リリヤが毎日のように思い出す夢にも似た情景と憧憬。
正しく『母親』との十秒にも満たないそれだけの時間。
自己すらはっきりとしない幼な時の夢想のような瞬間。
ただ、自分の頭を優しく撫でてくれるだけの時間。
言葉もなく顔をわからず、『母親』だと曖昧的過ぎる直感によって出来上がった想い出。
それはリリヤ・アーテとして刻み込まれてきた。
しかし、物心ついた時にはリリヤは龍人たちの里でひとり人間の子として育った。
自分が捨てられたという感覚もなければ、自分の親はその里で共に住まう族長のおじいちゃんとおばあちゃんだけだった。
だから、その不思議な夢に確かな違和感を覚えたのは、八歳となったあの日――衝動に駆られ里を飛び出し、そして龍人たちが目の前で魔族を率いる『悪魔』に絶滅させられた悲劇の日。
夢に見るいつかの感覚と家族の死を正しく知った惨劇の隣り合わせ。
リリヤ・アーテはシアナ姉さんやおじいちゃんに逃がされ生き残った屍。
けれど、死なないのは一つ。
復讐を……『龍の名』を天へと還すための復讐を誓った。
それがリリヤを生きさせる全てなのだ。
捨てきれない情は仮面を被り、『姓』と共に捨てた。
八歳の少年はこの世の魔族と悪魔を全て滅ぼすための復讐劇を歩みだした。
だから、『姓』は足枷となる。
『姓』は愚行へと走らせる。
『情』は思考を鈍らせる。
『想い出』はリリヤを永遠に認めることはない。
リリア・アーテの常に復讐心を飼っている人間の悪魔だ。
――――――
魔族が暴れ狂うその地にやって来たリリヤは、仮面の裏で憎悪に満ちた感情のない眼で敵を見据えた。そして、理知ない魔物と変わらぬ醜悪の根源に向かって剣を抜く。
「死ね」
その一言と共に十の魔族は生命を灰と変えて消えていった。
光速の斬撃が嵐のように無数の魔族を蹂躙する。血潮が飛び散り、内臓が溢れ出し目玉が砕けた果実のように拉げた。腕が空を舞い脚が地に転がり首が切断されてぼとりと嫌な音と成り果てる。
『ギャアアアアアアアアアアアアア‼』
理知ない咆哮で赤い瞳を充血させた魔族が魔物同然の咆哮を喉奥から唸らせるが、そんなものは威嚇でもなんでもない。リリヤにとってただ耳障りな奇怪音でしかない。力に乗っ取られたその殺戮本能は圧倒的な力たる憎悪の復讐心の前には無惨。
見えない光速の一閃が魔族の股下から両断した。その絶対的な強者にたじろぐ魔族たち。そんな哀れで慈悲すらない悪たる尊厳なき根源の忌憚者に吐き捨てる。
「何をビビっている。さっさとかかって来いゴミども。人の形をした醜い汚物が人間の真似などする価値もない」
動物本能にも似た直感で侮辱を受けたと理解した知性数ゼロの醜悪な魔族たちは、一斉にリリヤへ飛び掛かった。
けれど、誰にも見えない斬撃の閃が、肉の破片すら残さないほどに斬り捌き、魔石を砕いて灰へと消滅させる。
その力はセルラーナとの戦闘とではまるで桁違い。まるで別人の領域。
追いついてきたローズは震える手を握り絞めながら意を決して訊いた。
「…………それが、あなたの本性……なの?」
背を向け続けるリリヤの背中は案外に大きく、けれど孤独に小さかった。
身長一七〇前後の華奢な女の子みたいな姿と体型でありながら、眠る力は壮大。
その散々たる跡地を見ても、それこそ怖いとも、惨いとも、汚いとも、化け物とも何も言わない。言わないように己を制する。それが今のリリヤに答えさせる何かとなった。
「……【復讐者】」
「……えっ?」
ぽつりと呟かれた言葉。その意味するところは。
「憎悪の丈、嫌悪の丈、殺意の丈、衝動の丈、激情の丈、願望の丈……それらによって普段の数倍の力が引き出すことができる」
「それが……【復讐者】」
空を仰ぐ仮面の復讐者の表情は今どんな顔だろうか。
憎しみに歪んでいるのだろうか?悲しみに嘆いているのだろうか?怒りに満ちているのだろうか?それとも……。
何も言葉を返さないローズを不審に思いながら周りを常に警戒するも、リリヤの恐ろしさに逃げたのかこの死地にはローズとリリヤの二人以外にいない。ここに住んでいた、もしくは出歩いていた人々の死骸も確かに残っている。間に合わなかった。
ここに辿りついた時には全員が魔族の餌食と化していた。それが堪らなく不愉快で不快で悔しい。故に激情に襲われる。
けれど、今はそれを向ける相手がいない。今いるのはリリヤに寄り添ってばかりの昔出逢って謝りに来た妖精のみ。けれど、何も言わない少女にどこか怒りと安心感の二律背反な感情を持て余し、勝手に口が開いた。
「君は何故……俺を怖がらない?」
いつかの問い。その声音は怒りに染まり、もう一度問う。何度でも何度でも問う。
否、怖いと言って欲しい。己の前から逃げて二度と関わらないでほしい。
「どうして、俺から逃げない?」
「………………」
「どうして、俺に構う?」
「………………」
「どうしてッ……そんない優しい瞳を俺に向けられるッ……?」
沈黙に耐え切れなくなったリリヤが見た彼女の瞳は、澄んだ新緑のような神秘的な翡翠色の瞳は、どこまでも誰よりも優しく慈愛に満ちてリリヤを見つめていた。
それが堪らなく嫌で嫌で、あるはずのない『心』が痛くなる。そんな瞳を向けてくる人間に、リリヤは出会ったことは……『王女』以外にいない。
そんな瞳を向けられる価値はあるはずがないのに。そんな瞳を受け入れられるはずがないのに。そんな瞳なんか向けてほしくないのに。そんなもの気持ち悪くて仕方がないのに。
陽光の髪が血濡れた世界には希望に見えた。その翡翠の瞳はこの残酷な死地の恵みに思えた。その佇まいはこの滅びゆく世界を救う英雄に未えた。
彼女も自分とは正反対なのだと、どこか悲しくなる自分がいて自嘲する。当たり前のことに寂しくなる己を咎める。
血糊がべっとりと付着した群青の髪に黒の衣、そして赤い斑点や雫が流れる忌々しく恐ろしい仮面。
まるでそう。
「————死神」
そう誰かが忌まわしいその『名』を叫んだ。
ローズが振り返りリリヤもローズから顔を上げると、そこには白のマントと黒の衣類を装備した騎士たちが畏怖と嫌悪を携えた瞳でリリヤを睨んでいた。
その胸にあるのは龍の紋章。彼らは『竜印の覇者』。そこにはゼアに接近したと聞いたグランダルナらしき人も遠目に見ている。
『あの子』がいるのではと、見渡すがいないようでほっと息を吐いた。そんなリリヤを他所に騎士たちの怒声が空気を震わす。
「やはり貴様は忌まわしき殺戮に悦ぶ死神ッ‼その穢れた仮面に漏れ出す暗黒な殺意!堕ちた人間風情めッ——。シンベラーダ様から離れろォ‼貴様のような下劣で卑劣な低俗が関わっていいような人ではない!」
「ちょっと待ってください!リリヤさんはそんな人じゃ……」
「貴方様は騙されているだけです!見たでしょう!この非道たる惨い有様を!顔を隠して惨いことを平然とやってのける血濡れの様をっ——!いくら魔族だろうと人道の欠片もない残酷無比なその貴賤!魔族でなくても己の邪魔をするものをいとも簡単に殺す倫理の破滅者ァ!そして街中で起こった奇怪な血濡れの事件。その犯人はお前だろうォオオオ!無意味な利己に酔った殺戮者めェ!度し難く何も魔族と変わらないではないかァッ⁉」
「ち、違う!違います!リリヤさんは魔族なんかじゃない——っ!」
反論を口にするローズだが、『竜印の覇者』の隊長と思われる精悍でギロリと獣のような目つきをした極男が前に立ち憚り、そのローズの倍と思われる巨体で見下ろし怒りの矛を剥き出しに殺いだ。
「戯れが過ぎるぞォエルフッ!英傑だろうが【色彩】だろうが所詮は生き残るために男に媚びる卑賎な女かァ!こんな得体の知れぬ奴に構うなァッ!むしろ奴は私たち『竜印の覇者』からの誘いを蹴った愚図だァ!そんな奴の肩を持つなどそれこそ有罪だァ——ッッ!」
「違う!わたしはそんなことのために彼に接触したんじゃない!わたしは……っ‼」
弁解しようと何度も叫ぶローズだが、相手の騎士たちは取り合う島もないよう。リリヤへと過度な罵りと侮辱。
彼の意志も想いも過去も何も知らないのに、そんな狂言にローズは激しい怒りに震える。何も反論しないリリヤにもイラつきが募る。
そんな反抗的なローズに痺れを切らした団長がローズの手首を無理矢理掴んだ。それも骨が軋むような強さで。
「いたっ⁉」
「貴様ァはあいつがなんと呼ばれているのか知っているかァ⁉」
その冷え切った声音と凍えるような赤の瞳。痛覚に顔を顰めたローズの神経を覚醒させる。
「死を導く彼岸の成れの果て。魔族殺しの悪魔。竜の血を啜り力に溺れた殺戮の化身。非道な道化」
それは誰もが聞いたことのある忌名。
「〝死を振り撒く血濡れの竜〟――――『死神アウズ』」
誰かが言った。その者は死を振り撒く竜の血を引き継いだ『悪魔の子』だと。無数の骸の頂きで嗤う彼岸の『死神』。仮面を被った道化の『殺戮者』。
もちろん噂では度々耳に入っていた。ローズはリリヤがその人かもしれないとは思っていた。そしてその人であっても過去の執着が最後まで確信を与えなかった。それは己の先入観で希望だ。だから、そうであった時でも受け入れる覚悟はしていたつもり。
けれど……今目の前で嫌悪に満ちる彼らの眼を見て、本当に彼は優しい人なのだろうかと疑問が溢れる。その怖い顔の彼らにローズは迷いに導かれる。それは一瞬の抵抗を奪い去り、騎士の一人に無理矢理腕を引っ張られた。
「痛い!離して!」
「これも貴様のためだァ!いいか?このまま反抗せずについて来い!」
「嫌!そんなの絶対にイヤッ‼」
無理矢理引き離そうとするが、騎士の力は思ったよりも強く骨がどんどん軋んでいく。このまま抗えば確実に骨が折れる。
けれど、そんなことはどうだっていい。骨が折れようが内臓が爆ぜようが拷問に遭おうがどうだっていい。今はそれよりもリリヤに確かめなくちゃいけない。リリヤはただその成り行きを見ているのみ。まるで、助けようともせず、既に意識は魔族へと移り変わりそう。そんな様にイラついた。血走った異様な彼らに内心で「くそっ」と似合わない言葉を吐く。
(こうなったら……最後の手段しかない!)
イチかバチかの指名手配確実の逃亡劇へと誘う武力。ローズは密かに魔力を無詠唱で発動しようとして――
「まあまあ離してやってください。彼女もさすがに逃げたりはしないでしょ」
そう胡散臭そうな笑みを浮かべたその男――グランダルナはローズを掴む手をポンと叩く。すると一気に力が弱まり、痛覚が遠ざかっていく。唖然としたローズを脇に隊長は怒鳴りつけた。
「何をする貴様ァ‼この女に温情を与えるきかァ!」
「温情と言えばそうだろうが、女相手にそれは余りにも紳士じゃねーだろ?まずは落ち着いてから話しをしましょって。彼女たちは逃げたりはしねーだろうし、ね」
そう手を合わせて笑みをつくる彼の意図はわからないが、これはチャンス。また怒鳴りつこうとする男の腹を思いっ切り蹴り飛ばした。
「ぐぁああっ⁉」
馬鹿げた悲鳴を上げて後ろの連中と衝突した騎士の行く末など興味なく、剣すら構える暇を与えない速攻の手段で驚愕しているリリヤの手をとった。
「逃げましょう‼」
「………………は?」
困惑するリリヤの手を無理矢理引っ張ってその場を猛ダッシュで逃亡する。
「待てェええええええええええ!糞女ァアアアアアアアアアアアアッ!」
情けない怒声が死地に轟いた。
また、明日の15時頃に更新します。
よろしくお願いします。