エルフの贖罪
青海夜海です。
「――リリヤ・アーテさんですよね?わたしのことを、覚えてますか?」
『名』と『問い』。誰も知るはずのない彼の『名』。否――『姓』。
封じ忘却の果てへ知らずの果てへと消していた記憶がフラッシュバックしてくる。その性を持ってして生きていた頃の傷が断罪を越え上げるようにリリヤに激痛を与えた。決して顔には出ないその傷の痛みはリリヤの意識を侵略する。
それはいつかの幼子の頃。心がまだあったころの光ある瞳が揺れるよな心の波が『姓』と共に侵略してくる。
リリヤの背後から声をかけたのはリシュマローズ・シンベラーダ。リリヤを探しているエルフの少女。リリヤは振り返ることはせず、ただその場で立ち止まる。
ローズはリリヤの意志を汲んで静かに息を整え胸を下ろし意を込めた。
「わたしはずっとあなたを探していました。……ずっと、ずっと。あの日、あのわたしの村が襲われた日。わたしたちを助けてくれたリリヤさんに言えなかった言葉を……言いたくて……!わたしのことを覚えてますか?」
再びの問いにリリヤは仮面を被った。それは決別と区切りからの避難。揺るがすな壊すな思い出させるな。リリヤは己を知るエルフに嘯く。
「人違いだ。俺はリリヤだけど、『アーテ』という『姓』は持っていない」
「そ、そんなはず……!」
「破滅など恐ろしい名をもつのは神だけだ」
「…………」
沈黙、沈黙、沈黙。ローズは口を酸っぱく引き締めて、泣きそうなほどに相貌を揺るがした。
それでも、その顔が突き刺さるものだとしても、リリヤは真実など伝えない。誰かの恩など今更だ。顔を見せないリリヤの傲慢で怠惰で強欲な我儘に、ローズは儚く切なげに、けれど頷かない。
「違う。ううん……。それでもわたしはっ……リリヤさん。あなたのことを覚えてます。わたしを助けてくれた勇敢なあなたのことを」
勇敢。その言葉にリリヤは反吐が出る思いだ。英雄や勇者、勇敢や天才。そのどれもリリヤに対して当てはまらない。いや、誰も当てはめない。リリヤ・アーテとは醜いの権化であり、欲望の殺人鬼なのだから。
だから思わず笑ったのだろう。
「俺が勇敢?言葉選びも甚だしい。俺に勇敢なんて大層な言葉は違う」
「そ、そんなことないです!あなたはっわたしたちを守ってくれました‼あの時のあなたは勇敢、いえ救世主そのもので――」
「俺の真実を知ってなお、その言葉は紡げるか?」
真実。リリヤ・アーテの真実。その言葉にローズは絶句に近い呆気に取られた。いや、言葉がでなかった。咄嗟の慰めも言い訳も嘯きも本音も何もでなかった。
彼を探し続けていたローズは知っている。リリヤ・アーテの真実と異名の意義を。
こちらを見る紺青の瞳をした少女のような彼。今にでも消えてしまいそうなほど儚く、その美しさは次元すら違うようで群青の髪が風に煽られ怜悧な瞳を隠す。まるで星の子。
ローズはリリヤの瞳の色も何もわからない。けれどわかってしまう。目の前でローズを見つめる彼こそが人間の悪魔だということを。
「君の後悔はすべてもらい受ける。だから、正しく生きろ」
それは暗に言っているようなもの。
――俺に関わるなと
明確な拒絶にローズは何かを何かを言おうと頑張るが、その声は言葉を発することはできず、でもこの五年間に願い抱き見続けた贖罪と言わずにはいられない。
だからその言葉だけは――
ローズは一度背筋を伸ばし息を吸って心を落ち着かせてリリヤを見た。
「わたしはあなたに謝りたくてあなたを探してました。だからどうか受け取ってください。あの日のことにごめんなさい……ありがとう」
「…………」
「本当はもっと言いたいこと、わたしにできることならなんでもしたいです。だからいつかあなたに認めてもらえるまでわたしはあなたに――リリヤさんから――」
ローズは言いたかったのだ。その先の言葉も全部繋げて贖罪だったから。でも、リリヤの無言はその先を許さない。視線で分かる。空気で伝わる。
ローズは悲しそうに口を閉じてもう一度リリヤを見た。
「……あなたに助けてもらっの、すごく嬉しかったです!あなたが助けくれたからわたしは今も生きてて、だからずっと謝りたかった。あの日、あなたに酷いことをしたことを――リリヤさんから逃げてしまったことを」
少し潤った眼で懸命に見上げリリヤに縋るエルフ。彼女を見つめ続けたリリヤはぽつりと言葉を零す。
「――君は、俺のことが怖くないのか?」
いつかと同じ問い。けれど、それはいつかの問いとはまるで意味が違う。リリヤはローズに宣うのだ。
――もうこれ以上邪魔をするな。
そう、暗に告げられる。その所作こそ過去の存在を定義し、その意味こそあの日からの年月を遡る。
嗚呼、どうしようもなく悲しい。
聞こえてくる喧騒も、火が弾ける音も、動物の咆哮も、風の音色も、雲に隠れた陽光の明かりさえも、静寂と化した。思い出し並べた言葉と感情、そして旅を出るに至った決意と意志。なによりも願いと覚悟。変わりたいと叫んだこの昂り。
ああ……どうしようもなく焦がれていた。――彼と再び出会う日を。
だから、ローズは口元を曲げてみせる。どんなに子どもっぽくても、どんなに美しくなくてもいい。ローズは嬉しそうに楽しそうに無邪気に笑って見せた。
「わたしは怖くありませんっ‼だって――あなたのお陰でわたしは今も生きているっ‼命の恩人のことを怖いだなんて思いません。他の誰かがそう言っても、わたしは変わりません。変えたくありません」
そう意志を示して。
「わたしは、あなたに出逢えてよかった‼」
そう笑った。
「……」
「……正直に言うとあの日は怖かった。怖くて死ぬんじゃないかって思って、だから怖くて……。でも、あなたはわたしたちを、わたしを助けてくれた。だから、怖がってちゃ何も言えない。わたしはあの日までの自分が嫌いです。あなたに何も言えず怯えていたわたしが嫌いです。何もできなかったわたしが嫌いです。だから、強くなろうって決めて旅に出ました。あなたに〝ありがとう〟って言うために」
その決意たる純真に燻る。いや、締め付けられ涙が滲んだ跡のように熱に魘される。
ずっと独りで生きてきた。罵られ罵倒の嵐と、忌避して畏怖する恐怖の視線を浴びながら、ずっと誰にも理解されずに、恋した紅花のような彼女以外に理解されずに、リリヤは独りで生きてきた。
その彼女も、リリヤの弱さの前に消えてしまった。リリヤが、殺したも同然。故に今も独り。
ゼアは利害の一致が成り立った上辺のよう関係。それでも友と呼ぶほどには互いを知っている。けれど、互いの支えや心に残る何かにはなることはない。
だから、ローズの『ありがとう』はリリヤを独りから救い出そうと手を伸ばす救済なのだ。ありがたいほどの御手なのだ。
けれど、それを受け入れることはできない。〝ありがとう〟を受け止めても、それでも彼女からの救済に手を伸ばせない。伸ばさない。掴まない。リリヤの信条は決して変わることはない。
「君が強く生きることを俺は望む。それが最大の贖罪だ。君が正しく生きることを」
「それは……ずるいです」
嗚呼、本当にずるい。そんなこと言われたらローズは頷く他ない。だって、言葉だけじゃ返しきれない償いきれないから。
ローズは彼の助けになりたかった。支えになりたくて、温もりを分かち合いたくて、言葉も行動も原理も夢も全て尽くしたかった。
それは酷く傲慢で醜く強欲と強情な思い上がり。烏滸がましくあってはならない事項。
けれど、ローズの願望は叶うことはない。
絶対にリリヤが許さない。
信用、信頼、正義、使命、命、夢、強さ、葛藤、恐怖、憎悪、愛。
確かにローズの本音はリリヤの心に響いた。彼を一時の安らぎへと導いた。ただそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
リリヤの瞳を見ればわかる。何かだけを見つめ、誰よりも決意に満ちている怜悧な眼。
それがたとえ殺人だろうと、その果ての禁忌に触れるような叛乱や謀叛だろうと、きっと彼は諦めることはない。
誰かを助けても、誰かに助けられることは望んでいない。そんなものは拒絶するに決まっている。
ローズはそっかと頷いて、寂しげに微笑んだ。
「それでも、ありがとう」
青い夜空の向こう、風がそよぐ世界の果て、変わり続ける世界は美しい笑みと言葉だけは変わらない輝きを放ち、『死神』の心に月光のような微かな鈍い光を差し込んだ。
その口が何かを、その手が何かを、その心が彼女を――その時、世界が反転した。
その出来事はあまりにも惨く唐突に、あまりにも醜悪で非道的な加虐的な暴力たる死の蹂躙だったそのにおい、味、リコレクション。
リリヤは後ろの東のほうに振り向いた瞬間、人間の叫び声と大爆破の火炎が空を穢した。
「なっなに⁉何が起こったの⁉」
戸惑うローズだが、それだけに特化してきた残酷なまでのリリヤの感覚が告げる。突如として国を襲った暗黒の存在に。
「――魔族」
「……えっ?」
ローズが問う前にリリヤは走りだした。その手には剣をその瞳は鋭利に殺意を纏って。
「り、リリヤっ⁉」
慌てるローズの声など届くはずもない。丘から駆け下り城下町へと出たリリヤは魔族の惨いと殺戮と悲鳴を上げて死んでいく人々を目に焼き付けられ、その身は憎悪に燃えた。
ローズの感謝など忘れその脚と意識が駆け剣が振るわれる。
「死ね」
その一言と共に魔族の血潮が飛び散りった。