裏事
青海夜海です。
腹を満たして宿に戻ったリリヤは自室のベッドに強く倒れ込む。
「はぁー……」
腕で顔を覆い疲労の息が自然と漏れる。
何度も巡る彼女との逢瀬。蘇ってくる過去の出会い。
まだ、自分が幼く未熟で弱かったあの頃の感情も共に濁流してくる。それが堪らなく嫌で「くそっ」と吐き捨てた。
ミラーダ・テルミスとの邂逅。
彼女はあまりにも似すぎていた。容姿ではない。ましてや境遇でもない。ミラーダ・テルミスの瞳が、リリヤを見つめる慈愛が似すぎていた。
かつて愛し守れなかったった一人の少女の眼と……。
けれど、そんな感慨は持ち合わせてはいけない。彼女は死んだ。この世にはいない。だから『悲願』なのだ。
同時に恐ろしくなった。ミラーダを『彼女』の代行品として扱いそうになったことが。そんなもの許されない。リリヤが許すはずがない。
『悲願』は『彼女』ゆえに生まれた。だから仮面を被る。自分という生命体が『死神』だと刻む。
もしも、その仮面が剥がれた時、リリヤという一人の少年は崩壊する。人間から堕ちる。それは正しく『死』でもある。
「はぁー……」
再びのため息。寝返りを打とうとして幼い少女の声音が鼓膜に触れた。
「揺らいでおるな、リリヤよ」
腕の間から覗くと、リリヤを仁王立ちで見下ろす齢十四程度の少女がいた。
お尻まで伸びた清流のような黒い髪に黒曜石のような滑らかな黒の瞳。身長は一五〇前半ほど。洗礼させた風格はその年としては似合わず、病弱な程度には白い滑らかな肌が黒衣から覗く。華奢でありながら精悍で意志の強そうな整った顔立ちと大きな瞳。そんな美人と評するに値する少女は腰に腕を置いてリリヤに語りかける。
「我はお前の『悲願』を叶えるための盾ゆえ、その醜さはどうにも許容できぬか?」
少し特徴的で女性らしからぬ言葉遣いだが、風格は有無を言わせない。
まるで少女の身体をもった別人のよう。リリヤは身体を起こして少女の名を呼んだ。
「できない。してはならない。……悪い、ヴェル」
ヴェルと呼ばれた少女はリリヤの隣に腰かけた。
「お前との付き合いもそろそろ四年経つが、悲願や復讐とはいえ見誤るなよ。あの娘はあの女ではない。酷似すれども過ちは我が赦さぬ」
「…………わかってる。でも、ふと思うんだ。許してもらう価値も受け入れる責任も認める証も俺にはない。あの血に染まった姿がどうしても……」
そう吐き出すリリヤにヴェルはため息をはいた。
「お前は我に何と言った?『力を与えろ』……お前はそう我に宣った。力を履き違えるな。力は誰かを守るもの。力は誰かを喪うものだ。力は天をも恐れさせるもの。故に力とは人の〝それ〟なり」
〝それ〟が意味するところは数多。感情だろう、意志だろう、それとも理だろう。力を手に入れた者、もしくは掴み取った者はその意味を正しく知らなくてはならない。なぜなら——
「神が恐れた時、それは『悪魔』と成り果てる」
リリヤは黙り込んだ。『悪魔』の存在に己の所存に黙り込んだ。
怒り、嘆き、哀しみ、憎悪、嫌悪、激憤、愚か、激情、冷淡、瞋恚、無感。あらゆる感情が取り巻きリリヤをぐちゃりと惨い形へと果てさせる。それを制止させたのは単に同じく流れてきた幸福な記憶だろう。
まだ、リリヤが龍人たちと共に過ごしていた日々。楽しくも辛くも厳しくも幸福であった日々。そして、『悪魔』に滅ぼさせた日々。
気を落とすリリヤに寄り添うようにヴェルは凭れ掛かった。
「……俺は椅子じゃない」
「別によかろう。我みたいな美少女とくっつけるのだぞ」
「自分で言うな」
「真実であろう」
「…………それでも八王竜の一竜、『冥王ヴェルテア』か」
「如何にも!我は『冥王ヴェルテア』!そして今はリリヤ、お前の盾である」
「…………そうか」
「ああそうだとも。だから我だけは寄り添おう。共に永遠に生きると決めたのだ。彼岸のその先までもついていく」
呆れたように苦笑するリリヤにヴェルも笑う。
「それにしても、何の騒ぎであるか?」
ヴェルが外の騒ぎに窓から見下ろすと警備員や騎士団がどこかへと速足で向かっている。
「あー……また俺らをつけてる奴らがいたんだよ」
「あれか、『洗脳』の類という」
「そう。情報を聞き出そうとしたら無抵抗で自爆。あれは遠隔で操作している奴がいるのは間違いない」
リリヤをつける根端は理解できないが、然して脅威でもないので気にはしない。しかし、証拠隠滅の速度や手際のよさに只者ではないのだと、それだけは理解しておく。
「まーそれは一旦置いといて、何かあったのか?」
「ふむ。我の張り巡らせておる結界が破られた」
「なっ⁉」
瞠目するリリヤとは違って冷静的に着眼点と行動予測を述べる。
「正確に言えば突破されただろう。……『悪魔』か、または術式か。そう考えて間違いないなかろう」
「それで!そいつは今どこにっ!」
立ち上がって詰め寄るリリヤだが、急に立ち上がられたことでヴェルは後ろへ倒れ「ふぎゃっ!」と叫んだ。
「ちょっと待たんか。お前は我の扱いが雑ではないか?」
「まさか。感謝もしてるし、感謝もしてるし、それに感謝もしてるから」
「感謝の内容も有難さも本気度もいまいち伝わってこんわ!」
「で、悪魔はどこだァ‼」
「我泣くぞっ‼」
そんなじゃれあいの果て、諦めたヴェルは立ち上がる。
「悪魔がいるのかは保証できんが位置はわからなくとも近辺に潜んでいるのは確か。魔族たちの反応もないのが謎であるが、悪魔がいるならどんな手を使っているか想像は出来ぬ」
「ああ分かった。……悪魔の種類はわかるのか?」
訊ねるリリヤにヴェルは頭を横に振った。
『悪魔』は魔族の頂点に立つ者たちであり、八竜王と同じく自己と知性を持ち合わせた人間の魔物だ。言わば、人類の原悪とも言える。
神話の時代に彼らは様々な悪事を行い、神や龍によって何度も誅滅させられた。しかし、禁忌とされる魂の儀式によって生き帰り、悪魔は幾千年にも渡って生き続けている。その力の全力はドラグテインを降す力と言われ、何よりも奴らの能力が理すら曲げかねぬ異常の嘲笑なのだ。
大罪からなる七人の悪魔――【明星】ルシファー。【最凶】サタン。【血肉】レヴィアタン。【洗脳】ベルフェゴル。【仮面】不明。【浸食】ベルゼブブ。【汚染】アスモデウス。
彼ら最悪の名を知らぬ者は存在しない。生まれて最初に訓えられるのは悪魔と魔族がいかに醜悪で惨たらしく悪逆で非道的なのかだ。
リリヤとして変わらない。そしてその行いを自らの眼で見定めた。
誰よりもその悪逆非道な存在であり、救いようのない絶対悪であるのか知り尽くしている。故に慈悲などあるわけがない。
「焦るな。奴らの狙いも何もわからぬ。お前は近辺の警戒をしておけ。我が探りを入れておく」
「……チッ。明日は国中を調べる。頼んだヴェルテア」
「その不服そうな顔はやめろ」
「不服?」
「ああ、早く殺したのはよくわかる。しかし、焦燥が過ぎる。我に任せておけ」
気を使ったかのようなヴェルに申し訳なくなり背を向けて呼吸を整える。
窓から見上げる外景はずっと収まらない夏のような賑わいと熱。それをどこか冷え切った達観した気持ちで見つめるリリヤ。
(この幸せの溢れる国のどこかに、奴らはいる。……俺は、奴らを絶対に許せない。目の前で大切な誰かが死ぬのは懲り懲りだ。だから何がなんでも復讐してやる。……絶対に――殺してやる)
夜の星は灯り紛れ愉快な歌声と笑い声は木霊した。リリヤたちの部屋だけが切り離された無音の世界のようで、それが堪らなく嫌で、リリヤはぽつりと零した。
「…………頼んだ、ヴェルテア」
素直な感謝にふんっと腕を組んでそっぽを向く。
「まー感謝の言葉として受け取っとてやろう」
「何様だよ」
「我は『冥王』である!さー寝るぞ。今日はこのハイパー美少女の我がお前と一緒に寝てやろうか?」
「寝るわけないだろ。てか、ハイパーってなんだよ……」
ポツ、ポツ。水滴が岩を打つ音がやけに響く。空洞が広がる灯りのないそこは洞窟の中。
そんな暗がりを一人の者が歩いていた。
「ふんっふんっふんふん~ふんっふふんっ!」
鼻歌を歌いながら陽気にスキップするその者の容姿は男のそれ。濁った金の髪に中世的な顔立ちは整っており、柔らかな赤い瞳は弓なりに曲がっている。聖者のような衣に首筋や袖口から見える人間の肌は、けれど赤い血管のような幾何学模様が走っている。その背中からは人間と程遠い魔族特有の羽は天使のような白と悪魔の赤に染まっていた。
鼻歌を歌う異様な青年はその脚を止めた。
「やれやれ。ボクの通行を邪魔しないでほしいね」
そう笑う青年の前に狼や蛇の魔物たちが次々にその赤い眼を鋭利に光らせた。その数ざっと二十。
そこはダンジョン。魔物が蔓延る魔性の域。青年はため息をついた。
「ダンジョンってすぐ魔物が生まれるからほんと嫌いだね!でもいいや!ボクはいま機嫌がいいから許してあげるさ!だってボクたちは明日アーテル王国を襲うんだ!いいでしょ!ねぇねぇそう思うよね!」
魔物に向かって話しかける異様さに魔物たちはたじろいだ。それはある意味の危険因子。誰かが見ていればこういうだろう。
……魔物こそが動物であり、あいつこそが魔物だと。
魔物たちは生態本能に従って殺戮に獰猛な牙と咆哮を青年に向けた。避ける暇のないような無数の攻撃は、一瞬にして終わりを告げる。
「――ボクの話を聞かない子は生きる意味がないね」
赤い閃光が光速をもって迸った。気づいた時には全ての魔物の半分が潰れた果実のように散りばめられており、最後に魔石が砕け霧散していく。灰と血糊の死地。
「ボクの話を聞かないのが悪いのさ。あの人間もいいことをしてくれるものだよ。何が目的かは知らないけど……まーいいや。あーあ、楽しみだ!フハハハハハッ‼絶望に染まり歪んでいく人間の顔が見たくてしょうがないさ‼」
笑う嗤うわらう。面白可笑しく馬鹿にするようにわらった。
青年の後ろに浮かんだ赤い星のような惑星は吸血の夜のように真っ赤に染まっていた。腕を広げ誰もいないダンジョンの最下層最奥の未開発地帯で愉快に――。
「このボクがキミたち人間を血の海すらなくした絶望の淵へと導いてあげる‼嗚呼、楽しみだ!アッハハハハハハハハハハ——ッ‼」
その笑い声は高らかに響き、【明星】ルシファーたる『悪魔』は用意した宴の最奥へと歩みを始めた。
明日は夜に更新します。